【1-2】 リアル・イリュージョンズ - Real Illusions - ②
それは奇妙な物体だった。四十センチ四方ほどの大きさで、土煉瓦製の平たい土台を有しており、その土台の上には様々な形をした小さな物体がいくつも乗っている。
「最初に目にしたときからずっと考えているが、これが何なのか全くわからない。今でもとんと見当がつかないんだ」
巽の声を耳で拾いつつ、食い入るように物体を見つめていた鼎だったが、ふと呟くように、
「ジオラマだよ、これ」
と言う。それから、土台の上を指差して、言葉を続けた。
「この土台の上に、小さな物体がたくさん乗ってるだろ。これ、木々や建物のミニチュアだよ。そんなに精巧に作られてるわけじゃないから、よく見なきゃわからないけどね」
「ミニチュア……?」
訝しげな反応をする巽だった。鼎はジオラマに視線を向けたまま、はっきりとした口調で言葉を続ける。
「土台の上に色々なミニチュアを並び立てて、全体として何らかの風景を表すようにしているんだろう。だとすれば、これはジオラマに違いないぜ」
巽は、まだよく理解できないといった様子で顎をさすっていた。
「ちょっと待ってくれ。そもそもジオラマというのは何だ? 俺にはまずその言葉の意味からしてわからないんだが……」
「ええぇ……? ジオラマも知らねえのかよ、お前……」
「信じられないですね」とばかりに呆れる鼎だった。その態度に巽は少しムッとしたが、知らないことは事実だ。不服を述べたところで無駄なだけである。
鼎はしばし考え込んでから、長々と話を始めた。
「ジオラマというのはだな、簡単に言えば模型を利用して作った展示物のことさ。本来は、ある地域の様子を立体的に表現するためのものなんだけど、今はもっぱら一種の芸術品として作られることの方が多いんだ。例えば、アマチュア模型展示会の出品用とかね」
「そうなのか」
「ああ。一般に模型と呼ばれるもの、例えば何か既存のモノの形を模して作られた模型なんかは、太古の昔から作られ続けてきた。トーテミズムやアニミズムのように、プリミティブなレベルでの呪術的な必要性も手伝ったんだろう。フレーザーが“金枝篇”で述べてもいるように、このテの魔術は依代としての模型が必要不可欠だからな」
「…………」
鼎の中でスイッチが入ったらしい、と巽は感じた。人呼んで《薀蓄スイッチ》だ。ちょっとした話をしているつもりが、いつの間にか本筋とは関係のない薀蓄話じみてくるのは、鼎の場合にはよくあることだった。そして厄介なことに、一度こういう薀蓄を語り出してしまうと、鼎はそう簡単に口を閉じてくれなくなる。
「そもそもジオラマとは、パノラマのように、広い風景を描写するための手段として考案されたものなんだ。考案したのはダゲールという仏人の画家で、この人は写真技法の一種であるダゲレオタイプの生みの親でもある」
そこで短い間を空けてから、鼎は一気に話を走らせた。
「当時の風景画家たちは、描きたい風景が見つかっても、いきなり筆で描きにかかることはしなかった。その前に、風景をいったん模型に変換して――つまり風景の模型をまず作ってから、その模型を元に、描きたい風景を描くという手法をとっていた。絵という二次元の創作をする前に、模型という三次元の創作物を作っていたわけさ。おれたち現代人の感覚からすれば、順序が真逆なのが面白いところだね」
「つまり、絵を描く前に、わざわざ模型から作っていたというわけか。随分と手間がかかることをするものだ」
ただ聞いているだけなのも疲れてしまうので、巽は合間に簡単な感想を挟
んだ。鼎はゆっくりと首肯し、
「当時はそれが普通だったんだよ。ところが、徐々にジオラマそれ自体に独特の価値が認められるようになってきた。ジオラマが、風景画を描くための準備手段ではなくて、ひとつの芸術品として認知されるようになったんだ。これが今に言うジオラマのはじまりさ」
「なるほどな……。しかし、そういうものは、あくまで芸術や趣味の世界に限られたものだろう。普通の人間には馴染みが薄いんじゃないのか」
そのとき巽の脳裏に、ある記憶が浮かんだ。自分の通う高校にかつて存在したという模型部のことだ。この春に巽たちが入学する直前に、その模型部の内部でとある『事件』が起きて、そのために廃部になってしまったと聞いたことがあるが、詳しい事情については巽も知らない。あくまで噂として耳にしたことがある程度だった。
「いや、そんなことはないさ」
巽の回想をかき消すように、鼎がゆっくりと首を振って答えた。
「身近にジオラマが利用されている例はいくらでもある。例えば……」
鼎は件のジオラマから視線を上げると、人差し指を立てて言った。
「テレビのニュース番組を考えてみなよ。何か大きな事故が起きたとき、その現場を再現するためにジオラマがしばしば使われたりするじゃないか。その他にも、地元の博物館では昔の農村の様子を再現したジオラマが展示されていたりもする。人形や家屋のミニチュアを配置したものとか、そういうやつね」
なるほど、と巽は頷く。改めて言われれば、思い当たるフシがないでもなかった。そんな巽の反応を見て満足したらしい鼎は、口の端に微かな笑みを浮かべながら、話を続けた。
「風景描画のための道具でしかなかったジオラマが、模型としてのジオラマとして認知されるようになり、こうやって次第に人々に利用されるようになってきたわけだ。より優れたものならば、そこに芸術性が見出されることもあった。互いにジオラマを持ち寄って、自慢の一品を見せ合ったりして、な」
「それが時を経て、模型展みたいなものに発展してきたというわけか。お前の話に最初に出てきたアマチュア展示会のように」
「そういうことだ」
その言葉を幕切れとして、鼎の薀蓄話が終わった。ようやく訪れた沈黙の中で、巽はじっと考えていた。今の話の内容ではなく、鼎の博覧強記ぶりについてだ。
「いつもながら思うが、お前は一体どこからそういう雑学的な知識を仕入れてくるんだ。別に模型が趣味というわけでもないんだろ」
確かにこれだけ雑多な部屋であっても、模型やプラモデルの類は何一つ見つからない。目を引くのは、夥しいまでの書物だけだ。
「別に趣味なわけじゃないさ。でも、だからといって、それが『何も知っていなくとも別にいい』理由にはならないんだよ。おれは無知は罪とまで言う気はない。でも、つまるところ知識とは力なんだ。ベーコンじゃないが、どんな知識だって決して無駄ということにはならない。なら、なんだって知識として吸収しておくのが当然の態度ってヤツだろ」
つまり、自分は知識欲旺盛な人間なのである、ということが言いたいらしい。この部屋にぶち撒けられている大量の書物も、鼎の旺盛な知識欲の犠牲者なのだろう。
「それにしても」
再度、鼎の目線がジオラマに向けられる。
「なんでこんなものが、お前の家の神社に奉納されてきたんだ? 奉納してきたのは一体誰なのか、わかっていないのか」
巽の実家は神社だった。それも普通のものとは違い、陰陽道の流れを汲む神道の流派、天社土御門神道の系譜に連なっている。決して規模が大きい神社ではないが、地元で知らない人間はいないほど有名だった。夏祭りシーズンには出店で大いに賑わうし、初詣となれば地元のローカルテレビ局がその混雑ぶりを毎年報じるほどだ。
巽は眉間のシワをさらに深くして答えた。
「そこなんだが……。これは神社への正式な奉納品ではない。単に境内に放置されていたものなんだ。一週間ほど前に、姉貴が拝殿の前に捨て置かれているのを見つけたそうなんだが、誰が持ってきたのかまではわからないらしい」
「そうか。……まあ、あの女のことだ。普段からして何を考えてるのかまるでわからないぽけーっとした女だし、たとえ放置者を目撃していたとしてもアテになんねえよなぁ」
揶揄するような口ぶりに、巽の眉がピクリと動いた。「あの姉貴」というのは、巽の双子の姉のことである。名前を御子劾 睦といい、巽たちと同じ高校に通っている。睦は普通の少女とはどこか違う、独特の雰囲気を持った美少女であり、しかもスタイルまで抜群ときているため、校内に隠れファンが相当数存在しているらしい。しかし弟である巽はその事実を知らない。知らない方がいいこともある。
「で、誰が持ってきたものかわからないし、不気味で仕方がない。扱いに困ったから、結局はおれのところへ持ってきた。……そういうわけか」
巽は「そうだ」と首肯した。
「もしかしたら、物の怪の類が憑いていないとも限らないだろう。特に家の神社には、そうしたいわくつきの品々が奉納されてくることも多い。ましてや誰のものともわからない品物だ。念には念を入れる必要がある。それに、もしも強大な怪異が眠っているのならば、俺たち御子劾の人間は――それを祓い落とさねばならない。そしてそのためには、お前の能力が必要不可欠だ。怪異の正体を鑑定することができる、新穿の人間の力が」
巽は切れ長の眼をさらに鋭くする。声のトーンは明らかに低く、そして重くなっていた。
「御子劾家も、新穿家も、お互いの家の役目を全うするために協力し合わなければならない――それが両家の間に古代から続く『盟約』だった。俺もお前も、小さい頃からそのことを厳しく教え込まれているはずだ。まさか忘れたわけではないだろ」
鼎は何も答えず、黙っていた。
しばらく沈黙が続いたあと、鼎はゆっくり口を開いた。
「忘れてなんかないさ。おれがこんな古屋敷に住んでいるのも、そのためなんだからね」
鼎は爪楊枝を取り、たこ焼きをぶすぶすと突き刺し始めた。
「んまぁ、まだまだそんなに深刻に考える必要もねえだろ。全てはおれが鑑定し終えてからの話だ。鑑定だって時間がかかるんだ。一日二日やで終わるようなもんじゃない。今から気に病んだって仕方がねえやな」
「…………」
巽は俯いた。そうは言われても、何か胸に突っかかるようなものを感じずにはいられなかった。後々、このジオラマが火種となって、何かとんでもないことが起こる気がしてならない。
しかし、今それを打ち明けたところでどうなる。巽にはあくまで祓うための力しかない。鑑定する力を持っているのは鼎だ。だから、ただの勘を根拠にして「危ない」と忠告しても、鼎は鼻で笑うだけだろう。それはそれで腹が立つ。
胸に生じたモヤモヤを振り払うように、巽は別の話題を振った。。
「今さらこんな話を持ち出すのも間が抜けているかもしれないが」
たこやきで遊んでいた鼎が、巽の顔をちらと見た。
「……新穿。お前はどうやって、その……鑑定をしているんだ? 依頼された物品が《いわくつき》なのかそうでないかは、傍目にはわからんだろ。何か、その、特別な方法でもあるのか?」
普通の人間の眼には、物体は物体としてしか映らない。巽の眼にだって、件のジオラマはただの物としてしか見えていない。だから当然、「これには何かが憑いている」と見分けることもできない。
しかし、鼎には見分けることができる。物体の奥に潜む怪異を見抜くことができるのだ。ならば、一体、どのような方法で見分けているのだろうか……。鼎とはそこそこ長い付き合いになるが、巽はそのことを全く知らなかった。やはり自分が考えているように特別な方法――たとえば、新穿家にだけ伝えられる特殊な占術でもって占ったりするのだろうか。
それとも……。
「…………」
鼎は答えることなく、黙っていた。しばらく無言の時間が続く。
不意に部屋の窓から流れ込んだ風が、鼎の長い前髪をふわりと持ち上げた。現れた眼はどこか思案気な様子でたこ焼きを見つめていた。見つめながら、爪楊枝をたこ焼きに突き刺し、ぐりぐりとかき回している。
爪楊枝が何週目かの軌道を描いたとき、鼎が不意にぽつりと呟いた。
「……もしも、自分の眼に映る現実が『真実』ではないと教えられたら、どう思う」
「は?」
きょとんとした顔を作る巽だった。言った側の鼎は、実に気まずそうな顔を作り、
「う~ん。まあ、そういう反応をするのがフツーだよな……」
と、天を仰いだ。何だか、さきほどよりも一層重苦しい空気が広がってしまった。たまりかねた巽が口を開く。
「その、突然言われても、意味がわからないんだが……」
苦虫を噛み潰したような顔をしつつ、鼎が言い直した。
「つまり、こういうことだよ。この眼に見えているものが真実とは限らない。限らないどころか、この眼に見えているものなんて、みんな嘘っぱちだ。おれたちは、そんな嘘だらけの世界を本物だと思い込みながら生きている。文学的、哲学的な意味ではなく、事実としてね」
「事実として、嘘の中に生きている。……俺達が?」
巽はなんだか眩暈のようなものを覚えた。そもそも、鑑定の方法を聞いているだけなのに、どうしてこんな話になっているのだろう。
「この世は真実ではない」だなんて、普通の人間がこんなことを言い出せば、全く頓珍漢に聞こえたに違いない。しかし鼎が言うとなると話は違ってくる。異様な説得力を持って迫ってくるのだから不思議だ。あの独特のハスキーな声には、聞く者を引きつけて離さない磁力のような力がある。少なくとも巽にはそう思える。
巽は、思わず聞き返していた。
「お前がそんなことを断言する根拠はいったい何だ。というか、余りにも話が突飛すぎて、やっぱり俺には理解しきれない」
鼎はしばらく「う~ん」と考え込む。
そして、口を開いた。