【1-1】 リアル・イリュージョンズ - Real Illusions - ①
御子劾 巽は、その坂を上っていた。
坂は砂利敷で、さほど傾斜が厳しいわけでもない。だが、道が九十九折れにくねっており、なんだか無駄に遠回りを強いられているような気分になる。そのうえ、左右に揺れながら伸びているようにも感じられるので、ただ歩くだけで幻惑されるような感覚が絶えずつきまとう。手に持っている荷物もむやみに揺れて、非常に鬱陶しい。この坂の全てが、上ってこようとする者を拒絶しているように、巽には感じられた。
黙々と歩き続け、最後のカーブを曲がったところまで来ると、巽は歩みを止めた。
ゆっくりと顔を上げる。
「…………」
真上には、力強く輝く太陽がある。巽は手庇を作り、降り注ぐ陽射しを遮りながら、ぎゅっと眼を凝らして、遠く坂の上を眺めた。
視線の先、ちょうど坂が終わっている辺りに、木造の門扉が頭を出していた。かなり古い。遠目からでもそれとわかるほど古かった。
ここからでは見えないけれど、門の奥へと入れば、これまた古びた屋敷がどしりと構えているはずだ。お化けのように大きくて、長生きしすぎた老人のように年季の入った、怪しい雰囲気を放つ、日本式の屋敷が。
もし、その屋敷のことを何も知らない人間が見たら、「こんな古い屋敷に人など住んでいるのだろうか」と怪しむことだろう。「こんなに古いのに、人など住めるのだろうか」、と。
だが、あの屋敷には確かに住人がいる。そしてその住人は、余人の想像を絶するほどの変わり者ときていた。その住人の人柄を知る巽にとっては、むしろ変わり者だからこそ、あのような化物屋敷になど住んでいるのだろう、と思えた。
それにしても――。
「……暑い」
巽はそう呟くと、右手に握っていた荷物を左手に持ち替えた。空いた右の手のひらは、汗でぐっしょりと濡れている。服の裾で汗を拭うと、黒いノースリーブのシャツが濡れ、黒味をさらに濃くした。
暦の上ではまだ六月に入ったばかりだというのに、太陽は「夏が待ちきれない」とでも言わんばかりに、大空で燦燦と照り輝いている。さすがにまだ蝉は鳴いていなかったが、耳を澄ませば、今にも鳴声が聞こえてきそうな気がした。
巽は眼を閉じ、耳を澄ました。
だが、感じられたのは、夏草の匂いと、生ぬるい風の温度ばかりだった。
「ウンザリするな、まったく」
大きな身体を捩って身をほぐすと、巽は頂上に向かって再び歩き出した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
垂れる汗を拭いつつ、ようやく坂道を登り終える。巽の目の前には、坂から見上げたあの門が待ち構えていた。
ここが巽の目指していた場所――即ち、新穿家の屋敷である。
門を起点として、黄ばんだ漆喰で固められた塀が、新穿家の敷地をぐるりと取り囲んでいる。隙間のないその包囲ぶりは、まるで監獄の檻のようだ。
屋敷と外界とを結ぶ唯一の出入り口は、目の前にある古い門のみ。浮世離れしたその雰囲気は、異界へ繋がる扉のようにも思える。
ボロボロの木戸を開き、巽は門を潜り抜けた。目の前に広がるのは異界ではなく、雑草の生い茂る庭だった。巽は周りを見回す。すると木造の建物三棟が目に入った――母屋が一棟に、小屋が二棟。
小屋は、入り口の門を抜けてすぐ、左右に一棟ずつ設えられていた。何に使われているのかは巽も知らないが、居宅でないことは確かだ。恐らくは倉庫か何かなのだろう。
残りの母屋は、門から正面に歩いていったところに建てられている。どっしりとした構えは、外界からの来訪者を威圧する、年老いた巨人さながらだった。
巽は、手入れのされていない庭を歩いて通り、母屋の玄関前まで来た。そのまま躊躇することなく引き戸に手を掛け、無言で一気に開く。
ガタっという音の後、不意に、視界に紅い人影が映し出された。
「随分と遅かったじゃないか」
上がり框で仁王立ちする紅い人影は、ハスキーな声でそう言った。
不意打ち的な歓迎ぶりに面食らった巽は一瞬だけ狼狽えたが、すぐに顔を元のしかめっ面へと戻すと、固く口を結んだ。なんとなく苦々しげな様子だった。
「なんだよ。なに驚いてんだよ。こっちはずーっと待ってたっていうのにさ」
不機嫌そうな口調で話すこの人物こそ、この屋敷でたったひとりの住人、新穿 鼎だった。
額を覆い隠すほど伸びた前髪の奥からは、あどけない瞳が覗いている。背は低く、顔も幼いので、中学校上がりたてぐらいの年頃にしか見えないが、これでも年齢は巽と同じである。
「…………」
巽は無言のまま、鼎の姿を眺め直す。
こんなに蒸し暑い日なのに、鼎は真っ赤なナイロン生地のジャージを着込んでいた。玄関を開けてすぐ、巽をして『紅い人影』だと思わせたのは、その独特な格好のせいだ。
そもそも巽は、鼎が家でこれ以外の服装でいるところを見たことがない。余程その赤いジャージがお気に入りなのか、それともこの服しか持っていないのか。常識はずれな鼎の人間性を考えると、どちらも当てはまりそうな気がした。
黙って突っ立っているだけの巽に業を煮やしたのか、鼎は難詰するような口調で言った。
「まったく。他人に頼みごとをしておきながら、約束よりも一時間も遅刻するたあ、どういう了見だ。こう見えてもおれは忙しいんだよ。時間を無駄にさせるな」
巽は申し訳なさそうに項を掻きながら、
「すまない。少し、寄り道をしていて」
と、ようやく言葉らしい言葉を口にした。
聞いた鼎は「ふん」と鼻を鳴らして、
「まあいいや。で、例の依頼品は……、それか」
鼎の目が、巽が持ってきた手荷物に向けられる。風呂敷に包まれたそれは、角ばった形をしていた。箱状の物体だろうか。風呂敷越しでは外見はわかるはずもないが、妙に重量感のある代物のように見受けられる。おもむろに巽が手から下ろすと、床がみしりと音を立てた。やはり相当に重みのある代物なのだろう。
「従前に電話で伝えた通り、今日はこの鑑定をお前に頼みに来た。どうだろう。引き受けてはもらえないか」
年齢のわりに落ち着きがあり、それでいて芯の通った独特の声質で巽は言った。対する鼎は、怪訝そうな顔をして、持ち込まれた荷物を睨み付けている。
しばしの後、鼎は顎の先を振って、屋敷の奥を指し示した。
「まあ、とにかく上がれよ。詳しい話は、おれの部屋でしようぜ」
「そうか。それでは、失礼する」
と一言を添えると、促されるままに靴を脱ぎ、玄関の三和土から上がり框へと足を掛けた。体格の良い巽の体重に反応して、床がキイと甲高い悲鳴を上げる。鼎は客人を案内しようとする素振りすらも見せず、すたすたと奥へ歩いていってしまう。その小さな背中を目印にしながら、巽は後に続いた。
鼎も巽も齢は十六だが、鼎の身長は百四十センチ、巽は百九十センチと、二人とも年齢のわりに極端な身長だった。互いの背を比べれは、大人と子供ぐらいの差が出るだろう。とても同じ高校生には思えないほどである。
こと鼎に関しては、ジャージの裾が余りすぎていて、ずるずる引きずるように歩くような始末だった。ジャージの裾と木造の床が擦れ合う「すーり、すーり」という音が、薄暗い廊下の中で、規則正しく繰り返されている。恐ろしい化物が呼吸しているみたいだ、と思う巽だった。
「……広い屋敷だな」
巽がひとりごちた。鼎は無視して歩き続けている。
しかし、巽がそう呟いたのも無理はない。ウナギの寝床のような長い廊下の両側には、いくつもの部屋が並んでいる。屋敷の中に電灯はなく、部屋の窓も閉め切られたまま。だから日中でも家の中は薄暗く、外が真夏のような気温であっても常にひんやりとしている。風通しも悪いし、少し黴臭くもあった。
まるで屋敷全体がひとつの棺桶になったかのように、ひっそりと静まり返っている。前を歩く鼎を見ながら、よくもこんな屋敷にたった一人で暮らせるものだと思う巽だった。
その時だった。
「うお!」
叫び声と共に、巽の踏んだ床板の一部がズボッと抜け落ちた。
床に開いた穴に片足がハマってしまい、思わず前につんのめる。
「ぐ……。あ、危ないところだった……」
辛うじてふんばり、転倒は免れたが、他人の家に穴を開けてしまったのは変わりない。これはマズイことをしてしまったぞと、巽は恐る恐る住人の顔を伺う。
住人は面倒臭そうに振り返り、呆れ顔をして言った。
「おい、気を付けろよ。この屋敷は江戸の昔から残ってるボロ家なんだ。お前のようなデカブツにゃ特に注意してもらわないと、たちまち床が穴だらけになっちまう。他人様の家を土竜の巣にしてくれるなよ、木偶の坊」
と、悪態をついた。
「…………」
なんだ、自分は座敷童子みたいな容姿をしているくせに、いくらなんでも言い過ぎじゃないかと心の中で陰口を叩きながら、巽は床から足を引き抜く。以降、細心の注意をもって長い廊下を歩いていった。
廊下の突き当りで右に折れ、しばらく歩くと、正面に部屋が現れた。
鼎の自室だ。
「さてと。少しばかりゴチャゴチャしているけれど、まあ、適当に座りなよ」
「適当に、か」
巽は溜息をつきながら、鼎の自室を見回す。
部屋の中は惨憺たる有様だった。
まず、スペースのおよそ七割を大量の書物が占拠している。その他の二割を種々のゲーム機やソフトやCDメディアが、残った一割をタンスやテーブルなどの調度類が占めている。
部屋の窓は開いており、陽射しによる明るさは一応確保されてはいるが、それが返ってこの部屋の散らかりようを余計に強調してしまっている。
要するに、
「足の踏み場もないのだがな……」
巽の不満をよそに、鼎は、タイトル不明の書物や、何のデータが入っているのかわからないCDメディアを「えい」と無造作に掻き分け、テーブルの前に子ども一人分のスペースを作ると、そこに腰を下ろした。これが鼎の言うところの「適当に座る」という言葉の意味らしい。
巽もそれを真似て、雑多な品々を丁寧に脇へ除けていく。すると、板張りの床が申し訳なさそうに現れた。どうにか腰を落ち着かせるだけのスペースを確保して、巽もテーブルの前に正座する。
テーブルを挟んで相対する形になったところで、巽は依頼品を包んだ風呂敷をテーブルの上に置く。それからもうひとつ、ビニール袋を取り出した。
「手ぶらで来るのもどうかと思ってな。手土産だ」
「そんなの別にいいのに」
「礼儀だ、一応の」
ビニール袋から取り出されたのは、プラスチックのパックだった。輪ゴムを外してパックのフタを空けると、中濃ソースの甘酸っぱい匂いとカツオ節の香りとが、部屋中に広がっていった。
「たこ焼きか」
鼎が問う。
「たこ焼きだ」
巽が答えた。
「なんでまたこんなものを」
「ここに来る途中、たまたま出店を見かけて」
「そこで買ったわけか」
「そうだ。一パック八個入りで千円だった」
「……アホかお前は。高すぎだろ、どう考えても」
そう呟きながらも、鼎は早速たこ焼きを爪楊枝で刺し、口の中にぽいと放り込む。
「もぐもぐ……ひゃて、もぐもぐ……ひゃっひょくふふほみへみるほひほうへ、もぐもぐ」
「せめて食べ終わってから喋ってくれないか」
「もぐ……はぁ。さて、まずは問題のブツを拝んでみるとしようぜ」
鼎はおもむろに立ち上がると、依頼品を包む風呂敷を解きにかかった。しかし、なかなか解けない。巽の膂力でこしらえられた結び目は、非力な鼎には解くのが難しいようで、作業はずいぶんと難航していた。
見かねた巽が手伝って結び目が解かれ、ようやく依頼品がその姿を現す。
「これは……?」
とたん、鼎の表情が曇った。