phase4-1
会話表現であまり気持ちの良くないものがあります。苦手な方はご注意ください。
紗世は、眠りの浅いたちではない。
一度寝たら何かきっかけがあるまでほとんど起きることはないし、寝相がひどくてベッドから転がり落ちるということも……ここ最近はない。
その代わりかは知らないけれど、一度目覚めたら絶対に二度寝はしなかった。一度も二度寝したことがないと言えば嘘になるけれど、少なくとも寝坊で遅刻するということはなかったはずだ。
とまあ、そのせいで睡眠不足の日は夕方ごろに眠くなって、勉強しながら寝てしまうこともあるから、それがいいことなのかはわからない。
紗世は自室のベッドから起きあがると、うーんと唸りながら伸びをした。そのまま朝の澄んだ空気とはいわないまでも、きちんと管理された空気を胸いっぱいに吸い込む。
今日で、紗世が〈街〉の外に出てから丸一ヶ月が経つ。まだ心の中で整理できていないものもたくさんあったけれど、この場所での暮らしもまあまあ慣れてきた。少なくとも、ここが自分の部屋だと迷いなく言えるぐらいには。
時々、昔から自分がここに住んでいたのではないかと思うこともあって、そのときは少しだけどきっとする。
紗世は寝巻から普段着に着替えると、部屋に置いてある鏡に向き合う。Tシャツとハーフパンツ。それに膝上まである黒のハイソックスという何の捻りもない服装だけれど、紗世はなんとなく念入りに鏡を確認してしまう。これまで学校で友達と会うときは制服だったから、こういったファッションに気を使う必要もなかったのだけれど、ここでは別だ。
それが、自分がここに慣れていない部分なのか、紗世には分からなかった。
部屋を出て、食堂へ向かう。
ダムの左右にある山をくり貫くように作られているこの集落には、驚くほどたくさんの人たちが住んでいる。流石に一つの食堂だけでは全員が入れないので、三つほどの部屋がそれにあてがわれている。その中で住民たちは自然とその年代や役割で分かれるようになっていて、紗世も十代の住民がよく集まる食堂に足を向けていた。
目的の食堂までたどり着いて、配給を受け取る。
そして食堂を見渡して、目当ての人物を見つけた。
「おはよう、千慧ちゃん。ええと、信司は?」
声をかけた相手、千慧は、溌剌として答えた。いつも信司と千慧は朝早くから訓練をしていて、ここには一番乗りで来るのだ。
「おはようございます。紗世さん。師匠は昨日の夜遅くまで作戦会議だったみたいで、まだ寝ていますよ」
「へえ、っていうことは、何かあったの?」
これまで、〈街〉から放たれであろう兵器が近くを巡回しているうちに叩いたり、信司たちは何かと忙しい。
「はい、〈街〉関連ではないらしいのですが、ちょっと放っておけない問題があるらしくて。詳しくは言えないんですけど、師匠はまた新しい住民が増えるかもって行ってました」
「へえ~そうなんだ。かわいい子だったらいいな~」
突然、気の抜けた声が割り込んでくる。紗世が振り向くと、そこには眠そうに目をこする夏希の姿があった。いつも通りふわふわのワンピースを着て、しかしその動きといい、表情といい、無防備にもほどがある。これが慣れと言えばそうなのだろうけれど、こうなりたくはなかった。
「あれ? 夏希さんには知らされてないんですか?」
「ん~。あー、そうね。あたしが出るまでもない相手ってことでしょ。別にあたしだけがオペレーターじゃないんだし」
「それじゃあ、そんなに大した作戦じゃないのかな?」
「どうでしょう? 師匠は一般の兵士なら一個小隊ぐらい屁でもありませんし、主要戦闘メンバーの半数が行くみたいですから、どうとも言えませんね」
千慧がごはんで頬を膨らませながら言う。こうして見ると、リスか何かの小動物を連想させる。こんな少女が、この集落で一、二位を争うナイフの使い手だとは、とても思えない。
「まー、拓人も行くみたいだし、問題はないでしょ」
夏希が緊張感の欠片もない声で言うので、まあそのとおりなのだろう。実際に〈街〉の兵士と戦っているところを見ている紗世としても、信司が負けるという事態が思いつかない。
「それよりさー、新入りが来るとしたら、どんな子なんだろうね? あたしとしてはやっぱりかわいい子が……」
「夏希さん、それ二度目。寝ぼけすぎですよ」
そんな他愛のない会話を聞きつつ、紗世も新しい住民が来たらどう接することができるだろうと考えた。
それはなぜか、とても難しいことのように思える。自分がなぜこんなに早くこの場所になじめたのか、不思議なぐらいだった。
時刻は深夜零時。
信司たち「キャラバン」の戦闘部隊は、古びた木造の邸宅を囲み、コードによるネットワークを使って通信をしていた。
『情報の通りだな。見た目ではただの廃墟だが、人の出入りがある。目撃証言の人物も数人確認できた。間違いないだろう』
メンバーの一人の男が言うと、剛が不真面目そうな声を不快そうに歪め、言う。
『なんてったってな。ロリコンどもの根城ってやつだ。手加減する理由はないってもんだぜ』
『御託はいいが……まあ剛の言うとおりだ。ここでは罪人を留置する余裕も、裁く機関もない。計画通り、途中にいるやつらは全員問答無用で抵抗力を奪え。幹部の連中は情報を聞き出してから殺す。いいな?』
そして信司の言葉に、全員が頷く。いまから信司たちは、未成年者に売春をやらせている、〈街〉だったら確実に違法な売春宿を襲撃する。
ただの水商売なら、勝手にやってろと信司は思っている。しかし、この場所で子供はなによりも大事な存在だ。そのような存在の未来を奪いかねない行為は、絶対に許すことができない。
それに、ここには留置所も裁判所もない。放っておけば、いつかは無法地帯になってしまうだろう。だから信司たちは、そのような犯罪行為が行われていれば、できるだけ正すようにしている。警告だけで終わればいいのだが、今回はそういうわけにもいかなかった。
『剛ではないけど、作戦会議で話したとおり、正直言ってここはすごくひどい場所だ。偵察しに行った僕としては、彼らは僕たちとは考えが違うと思っているよ。子供を人質にするかもしれないから、対処には気をつけて。
それじゃあ、みんな。くれぐれも冷静にね。突っ走って、孤立することのないように』
『了解』
拓人の声に全員が返し、突入が開始される。
信司の役割は、囮だ。しかし、囮であると同時に、本命の突撃要因でもある。その方法は、至って簡単だ。
信司は、無駄に大きい邸宅の扉の前に立つ。
「さて、せいぜい暴れさせてもらおうか」
『やりすぎないでくれよ……彼らだって、どんな身の上なのかもわからないんだから』
「ああ」
正面から、堂々と突入すること。それが信司と、姿と気配を完璧に消した拓人のやることだった。
作戦は、極めて順調に行われていた。邸宅は地下へと続いており、細い通路からはこの異変に気がついた男たちが、次々と飛び出してきては、へっぴり腰で刃物や銃を突き出してくる。信司はそれぞれに『ブレイカー』の引き金を引いて無力化していく。
通路からアリの巣かなにかのようにある個室から、様々な声が聞こえてくる。男の荒い声、やけに高い、女の声。または、客にたいしてセールスでもするような、物腰の低い声。信司はそれを聞く度、痛いほど『ブレイカー』を持っている手を強く握った。
信司は個室になっている場所は後回しにして、太い通路を通っては、怒号を飛ばす。
「全員武器を捨てて手を挙げろ! ここは今夜限りでぶち壊すぞ! 出てこい!」
うろ覚えのマフィア相手な刑事ドラマの台詞を、できるだけ怒気を込めて叫ぶ。とはいえ、そんな言葉で降伏するほど相手は素直ではなく、出てきた人間は皆こちらに敵対するばかり。そして例外なく、『ブレイカー』の前に倒れ伏した。
まれに見えないところからナイフや銃弾が飛んでくる。しかし、それらは信司のストレージに仕舞われる運命にあった。
「う、動くな!」
曲がり角を通過した直後、目の前に立ちふさがる者がいた。その男はまだ年端もいかない少女を盾に取り、その首筋にナイフを当てている。
「動くと、こいつの命はないぞ!」
男の言葉に、人質にとられた少女が痛ましいほど怯えた表情になる。
「……くそ野郎が」
男と少女、どちらも殺したくなる衝動が湧いてきたが、信司はそれを押さえ、しかし躊躇なく『ブレイカー』の引き金を引いた。
男と少女が意識を失って倒れた直後、戦車にでも積まれていそうなほど巨大な砲弾が、信司めがけて飛んできた。
「やばっ!」
信司は慌てて手をかざすが、しかし砲弾は信司に到達する前に真っ二つに切断され、瞬時に凍り付いた。直後、砲弾を放ってきた男が、後ろから何かに打たれたかのように体をのけぞらせ、倒れた。
『拓人か、感謝する!』
『もっと仲間を頼りなよ。斥候をするぐらいの時間は入れてくれ!』
『ああ、了解!』
本当はあの程度のものなら造作なくストレージに収納できたのだが、それはあえて言わなかった。
信司はとにかく叫びまくり、敵をおびき出し、『ブレイカー』の餌食にしていく。
『それにしても、手応えがない』
『信司が言っても、何の説得力もないよ!』
『……心外だな。だがこれまで出てきたやつらは、コードを使ってもせいぜい物を速く飛ばすぐらいしかしてこなかった。たまに砲弾とかを使ってくるが、それにしたって数が少なすぎないか?』
言いながら、引き金を引く。
『おう、信司さんよう。東口と北口は押さえたぜ。裏口ってのはどうしてこう戦力が集中するんだろうな? 十分もかかっちまった』
不意に、剛から連絡が入ってきた。
『上出来だ。脱出しようとするやつは一人も逃すな。こっちは中で大暴れしてるから、さぞかし獲物がかかるだろう』
『そりゃいい。オレの右腕がうずくってもんだ』
すでに邸宅は包囲済み。信司たちが狙っているここの幹部たちは、逃げるか中で待ち受けているかのどちらかだ。
信司はさらに発見した男に『ブレイカー』を向け、引き金を引く。
「これだけでノックダウンというのも味気ない。もっと抵抗してくれればいいんだが」
『僕としては、抵抗してくれないほうがいいんだけど? それより、そろそろ中心部に着くんじゃないかな。交渉は当初の予定通りやるから、これから僕は手を出すのを控えるよ。くれぐれも用心してくれ』
『了解だ』
信司はいやと言うほど上げていた声を潜め、周囲に隠れている人間がいないか探るためのコードの出力に神経を傾ける。このコードの効果はコード受容網を持っている人間を問答無用で見つけだすものだ。
その範囲を広げると、にわかに信司の足下に電子回路のような幾何学的な模様が青白く光る線によって描き出される。
『この先の部屋に十二人いる。真ん中に一人、そいつを取り囲むように十一人だ。これは、露骨なほど罠だな』
『玉座で待っていようっていう魂胆だね。まあバラバラに逃げられるよりはやりやすいかも』
信司の検索結果に、拓人がそう評価する。
『いいだろう。化かし合いってやつだ。拓人の活躍に期待させてもらおう。タイミングは任せたぞ』
『やれやれ、本当は穏便な交渉になればいいんだけどね』
二人で十二人の集団へと突っ込んでいくというのに、信司と拓人はほとんど緊張感を持っていない。
『突入だ』
信司はこの邸宅の心臓部であろう扉を、できるだけゆっくりと、大きく開く。
「ずいぶんとやってくれたわね。これじゃあ、せっかく掴んだお客さんも逃げてしまうわ」
待っていたのは、赤の女王。そう形容したらなかなかしっくりくるであろう、三十代ぐらいの女性だった。でっぷりと太った体を、赤いソファに乗せている。その衣も、部屋の調度品も、ほとんどが赤を基調としたものだった。
「ずいぶんと若い坊だこと。でも噂は聞いているわ。奈川渡ダムの集落の、最強の戦士ですってね」
「そんな風に知られているとは、光栄だな」
こういう駆け引きはあまり得意ではないが、なんとなく相手に合わせることにする。
「こんな場じゃなかったら、話ぐらい聞きたいのだけど、どうやら坊やたちはそんな雰囲気じゃなさそうね。何か目的があるのでしょう? 言ってごらんなさい」
いきなり本題を切り出してくる。長々と話しをしてこちらの油断を誘ってくると思っていたのだが、何が狙いだろうか。
「端的に言えば、取り締まりだ。別に水商売自体をつぶそうってわけじゃない。ここでは、快楽以外の意味を持たないからな。
だが、それが未成年の子供なら別だ。いろいろと調べさせてもらったが、〈街〉から救出されたばかりの子供をさらってきてるらしいじゃないか。しかも、強制的にだ。そんなことをしたら、そいつは心に一生消えない傷を負うことになる。このセカイで、子供にそんな傷を負わせる可能性のある行為は、許すわけにはいかない。
ここの営業は、今日をもって終了だ。あんたのところの子供は、俺たちが責任を持って集落にて保護する」
信司ができるだけ感情を押さえて言うと、女王はつまらなさそうに唸った。
「それは、坊やが従っている集落のリーダーの意向かしら。ずいぶんと勝手なことを言うのね」
「ほう、勝手、とは?」
「あの子たちはね、〈街〉から逃げ延びたのはいいものの、誰にも拾ってもらえなかったのよ。そこであたしたちは、食事を与え、寝床を与えたってわけ。ここでの仕事は、その代償ってわけさ」
「そしてあんたたちは、ここにくる客から食料やモノを融通してもらうってわけか。よくできたシステムだな?」
「坊やこそ、よくわかってるじゃないか。つまり、あたしたちがやってるのは、立派な人助けだよ」
そこまで喋らせて、信司は鼻を鳴らす。
「分かりやすい言い訳だな。だが、あんたのところで働くことで、その子供たちができたはずの職業訓練やコードの扱いが、できなくなるだろう。それは断じて受け入れることはできない。絶対にだ」
女王が、にやりと顔を歪める。
「そこまでのものかね。べつに、それによって種がつけられるとか、そんなことは起こらないんだ。この〈街〉の外のセカイではね。つまり、あたしのところで働く子たちは、なんの被害も……」
「快楽はッ!」
唐突に、信司が叫ぶ。
「すべての意識される感覚のなかで、最優先で選択される感覚の一つだ。感情すら上回る。それは、自身の選択によって得るものだ。思考や行動は、自分がきもちいいと思える瞬間のためにある。快楽は動物の原始的な、自分に対しての褒美だ」
女王は、唐突に語り始めた信司に、唖然として黙っている。
「それを、他人から強制的に与えられる苦しみというのを、あんたは考えたことがあるのか!」
バンッ、と、信司は近くにおいてあったイスを蹴りとばす。
『おいっ、信司!』
見かねた拓人が、姿を消したまま信司をたしなめる。信司はそれ以上行動をするのを止めたが、目は女王を睨んだままだった。
「それは、誰かの受け売りかい?」
「あんたには関係ない」
信司がつっけんどんに言うと、女王は大げさに腕を上げて見せた。
「まあいい、それがあんたの本心ってわけかい。それで、ここを壊滅させる、と。だけどね、一人だけでどうにかできるほど、世の中甘くないんだよ」
女王が言うと、入り口から死角になっている場所から次々と銃を持った男たちが出てくる。
「この男たちは、みんな熟練したコード使いさ。この人数差では、どうにもならないよ。それに……」
出てきた男の一人が、不意にナイフを何もない場所に投げる。ナイフはそのまま地に落ちると思いきや、何もない中空で突然何かにぶつかったように止まり、ぽとりと落ちた。
「そこに誰かがいるってことも、すでに分かっているんだ。光化学迷彩のコードなんて、うちの業界じゃしょっちゅう目にするからね」
信司はそれを聞いて、息をのむ。女王は、笑みを深くした。
「さてね、観念しな、坊や。あたしを敵に回したことを後悔しながらぶっ飛んでいくんだね」
女王は勝ち誇ったような笑みと声音で、信司を絶望させようとする。
それに対して、信司は気の抜けたような笑みを漏らした。
「どうしたね?」
「いや……」
信司は『ブレイカー』を地面に置き、両手を上にあげた。
降伏の姿勢。
女王がその行為にさらに顔を笑みに歪める。
「ここまで作戦がうまく行くと、いっそ清々しいと思ってな」
信司が言った瞬間、信司に銃を向けていた男たちが、一斉に力を失ったように倒れた。
「なにっ!」
一拍遅れて、倒れた男たちの後ろから、信司たちの仲間が姿を現す。
「初めから、あんたは詰んでたんだよ。これで、あんたに情状酌量の余地はなし。しかるべき処置を行うってわけだ」
そのように信司が言っても、なぜだか女王は動揺するそぶりを見せない。
何かまだ切り札を持っているのだろうか。
「まったく、すばらしい手際だね。坊やがそうやって無駄話をしている間に、仲間をこの部屋に入れていたのか。こいつは降参だね。しかるべき処置ってのは、つまりあたしを殺すってことだろう?」
「話が速いな」
「裏社会ってのは、そんなものだよ。坊や。最後に、一つ、言わせてくれるか?」
「何だ?」
女王は、追いつめられているということを歯牙にもかけない余裕の表情で、口を歪めた。
「あんたみたいな童貞に、そんなことをとやかく言われる筋合いはないってもんだよ。帰ったら女の一人や二人……」
女王が言い終えないうちに、信司は一瞬のうちに女王の目の前まで移動し、『ブレイカー』の刃を首に突きつけていた。
「図星かい。ということは、あんたも誰かに犯されたことがあるってことか。それも、あんたの逸物以外のモノをね」
その言葉に、信司の中のなにかが、はじけて消えた。
信司の体中から異常なほどの殺気が発せられ、沈黙が、重苦しく部屋を満たした。信司たちの仲間も、戦闘でも見ることのない信司の異常な状態に、言葉を発せないでいた。
「ああ、みんな」
やがて、信司が口を開く。なんの感情もこもっていない、氷のような声だった。
「ちょっと、俺。我慢できそうにない」
瞬間、信司の腕から、足から、立っている地面から、大量の青白い光が発せられる。光は瞬く間に部屋中を覆い、文字列へと形を変えていく。さながら、この部屋が文字列でできたプラネタリウムになったようだった。
「おおおおお……!」
絞り出すように、信司の口から音が迸る。それは怒りを燃え上がらせるようで、しかし悲しみに打ちひしがれているような、ちぐはぐな印象を一同に与えた。
最初の変化は、その場に倒れている男たちに起こった。
さっきまで気絶して、ピクリとも動かなかった彼らが、にわかに体を痙攣させ始める。声こそ漏らさないが、それが苦しみによる反応であることは誰の目から見ても明らかだった。
次いで、いたるところから絶叫が響き始める。それは、殺人鬼に出会ったような単純な恐怖ではなく、その正体が全くわからない化け物に出会ったような、もっと根元的なところから来る怯えによるものだった。
「ひいっ!」
唐突に現れた形なき叫喚地獄に、女王もその表情を恐怖に染める。信司がおもむろに女王へと歩みを進め始めると、それは絶叫となり、そして行動になった。
女王は突き放すような動作で手をかざし、コードを無茶苦茶に発生させる。ナイフが、銃弾が、とにかく武器となるものが信司に向けて牙を剥くが、それらは信司に届く前に消失する。
信司は女王の目の前まで歩みを進め、睨みつける。その目は人間のそれではなく、ワニのような、ただ獲物を狩ることを考えるものの目だった。
「す、す、すまなかった! あたしが知っていることはなんでも喋る。あたしはこのあたりの裏商売のことなら、何でも知ってるんだ! ここのお客が喋ってくれるからね。全部喋る! だから命だけは……!」
女王の言葉に、信司の瞳が一瞬だけ、揺れた。
「なあ、そうだろう! あんたたちには、その情報が必要なはずだ。だからあたしが……ガッ!」
が、信司はその直後、『ブレイカー』を女王の胸に突き刺していた。
「忘れてたよ」
氷のような、冷たい声。
「俺たちの目的は、情報を吐かせてから、殺すことだったんだ」
「な……!」
『ブレイカー』から、大量のコードが女王へと流れ込んでいく。女王はそれを驚愕の表情で凝視し、そして電撃でも食らったかのように全身を痙攣させ、白目を剥いた。
少しして、信司が『ブレイカー』を引き抜く。そこからは血の一滴も流れず、『ブレイカー』も硬い金属光沢を放っていた。
全てが終わってから、信司が大きくため息を吐く。
「信司……」
拓人が姿を現し、信司の肩に手をおく。
誰も、喋ることができなかった。「キャラバン」のメンバーは信司が何をしたのかあらかた知っていたが、しかしそれが本当に行われたことを、うまく信じることができなかったのだ。
やがて、拓人がためらいがちに口を開く。
「みんな、予定とはだいぶ違う結果になったけど、これから、僕たちがやらなければならないことをやろう。信司がどの程度手加減できているかわからないから、全ての部屋をあたってほしい。ここにいる子供たちに、少しでも未来を与えなくちゃ」
信司を除いて、全員が頷いた。
「それと、信司」
拓人が呼びかけるが、信司は返事をしない。
拓人が訝しげにその目をのぞき込むが、そこには、なんの感情も宿っておらず、ただうつろな穴があるだけだった。
「信司?」
拓人がもう一度名前を呼んだ直後、その体がぐらりと傾き、倒れる。あわてて拓人が信司をつかみ、支えた。
「おいっ! 信司! おい!」
仲間たちが必死にその名前を呼ぶ中、信司は意識を手放した。