phase3-2
「そいで、ここが、あたしたちが毎日食べる野菜を作ってる温室栽培の施設。電気が使えるおかげで、使える機械がけっこうあるんだよね」
目の前には、学校の運動場がまるまる入りそうなぐらい巨大な空間が広がっていた。驚いたことに、それは紗世が中学生の時に社会科見学で見た、植物工場とかいう商品作物を作る施設と比べても遜色ない設備のようだった。
「こんなの、いったいどうやって……」
紗世がぽつりともらすと、夏希は難しそうな顔をした。
「んー。流石にいちからこんなものは作れないからねー。あたしたちが〈街〉の人間を助けるついでに、こういう機械ももらってくるんだよね」
「え?」
驚いて、夏希のほうを見る。紗世の視線をうけて、夏希は「あちゃー」とでも言いそうなばつの悪い顔をした。
「ま、まー、やってることは火事場泥棒と同じなんだけどさ。こちとら生活があるんだし……ま、まあ、それは置いといて、次いこ、次」
そう言って、夏希は紗世の手を引っ張っていく。
確かに、こんな立派な施設を作っていくなんて無理だ。それを街から盗んでくることに対して、彼らは後ろめたい気持ちがあるらしい。
紗世にはそれが悪いことなのか、どうとも判断がつかなかった。
それからダムの中を一通り回って、夏希は最後にダムの上にある変電施設に案内してくれた。
初対面なのにも関わらず、夏希はあっけらかんとした明るさで、紗世を緊張させもしなかった。気になるところといえば、今ではコード技術による医学の発達によってファッション以外の目的ではほぼ根絶したはずの眼鏡をかけていることや、ずーっとチョコレートの板をかじっていることぐらいだ。医者志望の紗世としては、糖尿病にならないかと心配になる。
夏希の案内がそろそろ終盤にさしかかってきたころ、不意に屋外から金属がぶつかり合うような、甲高い音が聞こえてきた。
「あー、たぶん信司くんと千慧ちゃんかな? いつもこの辺りで訓練してるんだよね。昨日作戦があったばっかりだっていうのに、せわしないなー」
紗世の表情を読んでか、夏希が説明する。
そのまま施設の外に出ると、少年と、少女が対峙している場面に出くわした。
少年のほうは、黒コートを着て、右手には銃か剣かもわからない奇妙な武器を持っている。間違いない、あのとき紗世を助けた……シンジと言う名前の少年だった。
少女のほうは小柄な体躯で、ショートの髪を紫色に染めているのが印象的だった。顔立ちからして、まだ中学生ぐらいに見える。
少女は手に持ったナイフを逆手に持ち、少年を睨みつける。中腰のその姿勢は、まるで獲物を見定めて今にも飛びかかろうとする猫そのものだ。
と、少女の上体がさらに沈み、縮みきったバネを思わせるほど力をためる。そのあからさまな戦闘態勢に、紗世は思わず身をすくめた。
次の瞬間、少年がその武器を振った。……まだ少女は動いていないのに、と思うと同時に、きんっ、とすんだ音が響く。
同時に、少女が飛びかかっていた。少年は滑るような挙動で少女のナイフから身を避け、武器を振るう。
そこからは、すごかった。少年の周りからはまるでそこから湧いて出るようにナイフが飛び出し、それを少年は見ることもなく弾く。それぞれの得物がさながら弾丸のような速度で舞い、ぶつかり合った。
紗世は、そんな人間離れした動きにただ唖然とすることしかできない。
決着は、意外な早さでついた。速すぎて紗世にはなんだかよく分からなかったけれど、気づいたときには少年と少女はその首筋にそれぞれの得物を突きつけあっていた。
「コンマ三秒ぐらい、私の方が早かったですね、師匠?」
「ああ、確かに。流石に刃物だけの戦闘じゃ、千慧には勝てないな……」
そんな会話を交わした後、少年はこちらで言葉を失っている紗世を目に留める。
「ああ、あんたか。確か……」
「星川紗世ちゃんよ、信司くん。君は名前知らないでしょ?」
夏希がすかさず紹介する。
「ええと、あなたは……?」
さっきの戦闘の動きは、〈街〉の兵士たちを一瞬のうちにのしてしまった、あの時の動きだった。紗世は少年が見せたあのあり得ない感情を宿した瞳をとっさに思い出し、どぎまぎしてしまう。
「ああ、俺は東信司。信じるって文字と司るって文字で、信司だ」
信司は特に気負うことなく、軽く自己紹介する。それに続いてか、隣にいる少女が声をあげた。
「私は、神田千慧です。紗世さんは、〈街〉から来たんですよね、ええと、いろいろと大変だと思うけど……」
そこまで言って、千慧と名乗った少女は言葉に詰まってしまう。いきなりおろおろし始めて、紗世はなんだか小動物を見ている気分になった。
「まあ、そんなに緊張しなくてもいいのよ? 千慧ちゃん。紗世ちゃんはあたしが責任持って案内するし。同じ〈街〉から追放されたような人なんだから、仲間ってもんよ」
「おまえが案内するってのは、けっこう不安だけどな」
夏希が少女を宥めるように話していると、信司が茶々を入れてきた。
「うるさいわね、あんたよりもマシってもんよ。あんたは無愛想すぎて、案内しながら相手を怖がらせるでしょ、この戦闘マニア!」
「なんだと! 俺だって殺気をぶつける相手は選ぶぞ!」
「それができてないから怖がられるんでしょうか、この覗き見野郎。ハッキングしないとこんな女の子にも勝てないくせに、あたしに口出しするんじゃない!」
「なんだと! ろくな頭脳労働もしてないくせに甘い物ばっか食いやがって、というかそのチョコレート立体映像だろ! どんだけ我慢が足りないんだよ!」
「ああー! 言ってはならんことを!」
突如として、信司と夏希の間の空気が、険悪なものになる。既に信司は得物をストレージにしまっていたけれど、さっきよりも殺気のようなオーラを放っているような気がする。その様子に、千慧もおろおろとするだけで何もできない。
「あ……あのう……」
紗世がいたたまれなくなって声を発すると、二人ともハッとしたような顔になる。
「あ、ごめんね。このバカが変なこと言うから、つい……」
「バカとはなんだ。とまあ……すまなかったな」
そしてそれぞれ謝罪の言葉を発する。どうやらすぐ喧嘩になる二人らしいけれど、仲が悪いわけではなさそうだ。
その様子にすっかり毒気を抜かれてしまったような紗世には、素朴な疑問を口にするだけの余裕ができていた。
「あの……さっきの戦いって……あれってコードを使ってますよね? 物じゃなくて、エネルギーをそのままストレージに入れるなんて、聞いたことがないんですけど……」
ここを案内される前から、気になっていたことだった。
「ああ、あれか。あれは、完全にエネルギーだけをストレージに入れているわけじゃないんだ。周囲にある空気とかにエネルギーを集結させて、それごとストレージに取り込んでいるってわけだ」
時間をおかず答えたのは、信司だった。夏希から「戦闘マニアめ」、それに対して「うるさい、機械オタク」という会話があったのはご愛敬だろう。
「あ、あと、わたしを助けてくれたのって、信司さんと、みなさんですよね……ありがとうございます!」
紗世が唐突に頭を下げたので、一同は驚く。紗世としては、信司や千慧の戦いを見て、本当にあの恐ろしい兵士たちから助けられたのだという実感が湧いての言葉だった。
「ほら、信司くん、こんなかわいい女の子に感謝されちゃったよ。何、照れてる、それとも惚れちゃった?」
「うるさい、黙れ。……まあ、礼にはおよばない。あんたはこれからここで暮らすんだし、長いつきあいになるんだ。あんたがここの集落に早くなじめることを祈るよ」
「はい!」
「おや、こんなところに集まってなにやってんだ?」
紗世が勢いよく頭を下げ、一同に柔らかな空気がたちこめたその時、あからさまに不真面目な声が飛んできた。
それにもっとも早く反応したのは、千慧だった。
「黙れ、お前が来ると新しい仲間が怖がる」
「え?」
唐突すぎる変化だった。さっきまであんなに敬語で、健気な女の子の印象を持っていたのに、その少年が来た瞬間、なにやら黒いオーラを漂わせ始めた。もちろん見えないけれど。
現れたのは髪を銀色に染め、学校の制服みたいな服を盛大に着崩した、ちゃらちゃらした雰囲気の少年だった。
「そう言うな、そう言うな。キャラバンの最前衛二人と、技術担当そろってて見に来るなってほうが無理ってもんだぜ?」
「そんなこと……」
「千慧、よしとけ。お前に紗世さんが怯える」
千慧がまさに鬼の形相で言葉を発そうとするのを、信司がたしなめる。そのとたん、千慧は顔を赤らめ、肩を狭くした。なんだか彼女の体全体が小さくなったような気がする。
「こいつは、金宮剛。信司くんとともに、紗世ちゃんみたいな〈街〉の人間を救出する役割を持っているの。あ、それと千慧ちゃんも今回〈街〉の兵士たちと戦ったんだよ」
夏希が懇切丁寧に説明してくれる。流石に信司が茶々を入れることはなかった。
「そういうことだ。なにかオレについて、質問はないかね?」
少年、剛はなんだか偉そうに聞いてくる。紗世は質問があるか聞かれて、とっさに一番気になったことを口にした。
「あの……どうして、左目だけ真っ赤なんですか?」
コードの力で光の反射を操り、色を変えることはできるだろう。でも、どうしてそんなことをしなければならないのか、紗世にはわからなかった。
「ほう、この目に着目したか。これはだな、オレがこのセカイに転生する六千六百六十六年前、四百四十四年もの死闘の末にセカイをすべる赤竜を……ぶはっ!」
なんだか長々とした台詞を読み上げるように言う剛は、しかし目にも留まらぬ早さで接近した千慧のアッパーカットによってにべもなく吹っ飛ばされた。
「何をする!」
しかし地上に叩きつけられる瞬間に受け身をとり、体勢を立て直す剛。
「お前の妄言なんか誰も聞きたくないよ! バーカ!」
そしてまたしても鬼の形相をした千慧が叫ぶ。
「フッ、やはりおまえとは千年の因縁を持つ宿敵のようだな……いいだろう、ここで決着をつけようではないか!」
「上等!」
そうやって勝手に自分たちの世界にのめり込んでいく二人。千慧がナイフを持ち、剛が右腕を構える。
「この邪神を封印した右腕の力、今見せてやろう!」
そしてあわや二人だけの大戦争が始まるかと思われたが。
「おい」
突然、千慧の持っていたナイフが消え、剛の右腕がだらりと下がる。
「なあ、ここに新しい仲間がいるのわかってるよな? 剛とか、紗世さんの目の前で、コードを解放した戦闘すんの? しかも、ここ変電施設だぞ?」
「やばっ! 信司くん本気で怒ってるふりをしてる!」
「えっ、な、な……」
「いいから! 三十六計逃げるに如かずっ!」
夏希が叫び、紗世の手を引いて変電施設へと引っ張っていく。後ろで断末魔とか懺悔の声が響いた気がしたけれど、恐ろしかったので聞かなかったことにする。
とはいえ、けが人が出るような惨事にはならないような気がした。
「ええと、そろそろいいかな?」
しばらくして、夏希がおそるおそる外に出る。紗世もそれに続いた。
そこには、黒コートの少年に向かって全力で土下座する、銀髪の少年と紫髪の少女の姿があった。
なんだかんだで三人ともけが一つなく、なんだかほほえましく思った紗世だった。
日も沈んだ、夜。信司たち「キャラバン」の前衛部隊の面々は、ダムの深部にある会議場に集まっていた。議題は、もちろん今回の〈街〉への潜入、救出作戦の反省と戦果報告である。
「それにしても奇妙だったのは、〈街〉の兵士のほとんどが、コードによる武装ではなく、銃器を持っていたことだね。僕たちが持っている情報から、〈街〉圏外で扱われる兵器が産業として成り立っていることは明らかだけど、完全にコードを使用しないものを前線で使うというのは考えられない」
拓人の言葉に、会議場に集まったかなりのメンバーが頷く。事実、エネルギーを効率よく使うための技術であるコードは、その兵器転用による威力の増強が著しいのだ。
「G地区だからと、なめていたのでは?」
メンバーの男が、発言する。それに対して、信司が手を挙げた。
「いや、ところどころ混じっていた『氷刃兵』は、手腕こそ外のやつらより劣っていたが確実に質の高いプログラムを持っていた。それで採算が合わなくなったってことも考えられるだろう」
それからいくつか意見が挙がったが、その理由が明らかになることはなかった。
「あの情報提供者の動向は?」
「『狂人』……かい? 彼、あるいは彼女は、あれ以降沈黙を保っているよ。夏希が端末を逆探知しようとしているけど、まったく隙を見せないし……相当頑固なセキュリティをはることのできる人物で間違いなさそうだ」
「少なくとも、ギガインフォ以上、か」
「革命の力を持った少女が、かの地にいる。救い出さねば、あなたがたに未来はない。でしたっけ? 我々は、それに失敗したのでしょうか?」
「それは分からない。しかし、『狂人』は今でもその回線を僕たちの端末から切り離そうとしていないんだ。これは〈街〉から内通者ですと言っているようなものだよ。でも、これはいっこうに途切れない。それだけの危険を犯して、しかし僕たちの手を離さないというのは、僕たちを信用に値する人物だと思っている証拠なんじゃないかな?」
『狂人』。一ヶ月前、突然信司たちのコードネットワークに入り込んできた正体不明のオペレーター。Gー23地区のセキュリティホールの情報をこちらに教え、とある人物の救出を遠回しに依頼してきた人物。この人物の協力がなければ、今回の作戦は立案することすらできなかっただろう。
「ということは、おれたちはその人物の保護に成功した、ということか?」
「それは……」
「オレに心当たりがある」
声を上げたのは、剛だった。
「星川紗世っていう娘だ」
思わず、信司は声を上げそうになる。あんな温厚そうな娘が、『狂人』の言う『革命の力』を持っているとは思えなかった。
「あいつは、オレの目をもってしても全くわけのわからんコードを持っていた。なんの効果があるのかも分からない上、しかもかなり巨大なコードだ。あんなものが一人の人間の中に入ってるなんて信じられなかったぜ」
「星川さんが、かい? 僕が合ったときには、そんなものを持っているような気負いとかストレスはなさそうだったけど……」
信司の思ったことを、拓人が代弁する。
「そうだ、あんなコードを持っていれば、常に自分のストレージを圧迫して、精神的にもきついはずだ。だが、そんなぞぶりもなかった。オレの見解としては、当人がそんなコードを持っていること自体に気づいていないと思うね」
「そんなにすごいコードなら、早く正体を確かめたほうがいいんじゃないか? 知らないで発動させたら、危険だろう」
別の男の発言に、拓人が意見する。
「いや、まだ救出した人たちは、信司が『処置』をしたとはいえ精神的に不安定な状態のはずだよ。暴発を防ぐ意味合いでも、いつもどおり迎えて、落ちいてから少しずつ様子をみた方がいい」
それから次の議題。
「それで、〈街〉から何らかの追撃は確認されたのか?」
「いえ、今のところ、機体の影やコードの発生は見て取れない。でも、警備は今までと同じようにお願いしたい」
拓人は、この集落の長ではない。だが、信司たちを初めとする戦力を持つ「キャラバン」の中では、確固たる地位を確立していた。実際に前線で活躍できるコードによる戦闘のプロであって、しかしその性格は温厚そのもの。人をまとめ上げ、衝突を防ぐという才能は、彼だけにしかないものだった。今や天寺拓人という人間は、この「キャラバン」に欠かすことができないと、信司は確信している。
それにしても、と信司は思った。『革命の力』という、おそらくはコードを持っているのが星川紗世という人間だとは。もし自分の力で『処置』を行っていなければ、今頃ショックでなにもできないような精神障害を負っていてもおかしくない、ごく普通の市民が。
もし、そんな力を自分が持っていたとしたら、そんな考えが頭をよぎって、しかしすぐにそんな考えは振り払った。力はあればあるほど、大きなことをなせる。けれど時としてそれは災厄になる。そんな力を自分が持ったら、なにが起こるかわかったものではない。
こんな、復讐心を持った人間では。
紗世は気分の悪くないため息をつきながら、ふかふかのベッドに背中から倒れ込む。最初に起きたのがキャンピングカーの中だったから、またあそこで寝るのかなと思っていたけれど、なんだかとてもいい部屋に住まわせてもらうことになった。ちゃんと箪笥もあるし、勉強でもできそうな机もある。
「なんか……申し訳なくなっちゃうな」
拓人さん曰く、今回救出した人たちはみんなこんな感じだから気にしないでください、だ。とはいえ、ベッドがふかふかなのは紗世としてもとてもうれしい。
大あくびをして、さてさっそく寝ようと、掛け布団をつかむ。そこで、自分が〈街〉で着てきた制服姿であることに気がついた。これではちょっと寝にくい。
と、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「はい!」
「紗世ちゃーん、夏希だよー! 入れてー!」
紛うことなき夏希の声だ。紗世は立ち上がり、ドアを開けて夏希を部屋へと通す。昼間あれだけしていたチョコレートの匂いはなりを潜め、なんだかそれだけで別人の印象をうける。
「ふふー」
それになんだか、えらく上機嫌だ。
「ねー、今紗世ちゃんが困ってること、当てちゃおうか。今、替えの服がない! そうでしょ!」
「う、うん。まあ」
紗世が頷くと、夏希は会心の笑みを浮かべて人差し指を突き出してきた。
「でしょ! だから、あたしがたっくさん服を持ってきたの! 紗世ちゃんってみたところスタイルいいし、かわいいし、きっと似合うと思うよ!」
「え、え? そう、かなあ?」
「そうなの! だから、覚悟しといてよねっ!」
「え、覚悟って……?」
聞き捨てならない言葉に、紗世は顔をこわばらせる。
「それは……自分の姿を見てからのお楽しみです!」
「え、ちょっと……やめ……」
その後、ほとんど着せかえ人形みたいに夏希に服を着せられて、紗世はすっかり目を回してしまった。
どんなのがあったかなんて……言いたくない。
「あのね……」
そのままの流れで夏希に髪を梳かされながら、紗世はほとんど無意識に呟いた。
「これまでのこと、全部夢だったんじゃないかって思うの。皐が殺されてしまったことも、銃を向けられたことも。わたしはずっとここに住んでいて、〈街〉で生きていた記憶は全部夢だったんじゃないかって」
夏希がはっと顔を上げたことで、紗世は自分がなにを呟いたか、意識に上らせた。それでも、呟きは止まらなかった。
「今が夢なんじゃないか、とも思う。でも、それはわたしを助けてくれた人たちがいるってことを、否定するの。夏希だって、こんなに近くにいるのに、夢だなんて思えないよ」
夏希が髪を梳くのをやめた。
「うん……。無理もないと思うわ。あたしは紗世みたいに軍に襲われたわけじゃないからわからないけど、そういう人、ずっと見てきたから」
「夏希はいつからここにいるの?」
口にしてから、まさか失礼じゃなかったかと思って、質問を取り消しそうになったのを、夏希が制した。
「言ったでしょ、あたしは別に軍に襲われたわけじゃないって」
そう言って、夏希はくすりと笑った。
「あたしはね、〈街〉ではハッキング犯なの。元々M地区に住んでいたんだけど、どうしてもG地区とかT地区のコードが使いたくなってね。ちょっと悪ふざけがすぎたのよ。
丁度三年前かな。ハッキング自体はうまくいって、G地区のコードはなんとか入手できた。けど、すぐにばれて、刑務所行き。そんで、〈街〉から追放されたってわけ」
「G地区のセキュリティを突破したの? それってすごい……!」
「誉められたことじゃないけどね。まあ、ばれちゃったし。そこで、あのバカに会ったのよ。あいつ、信司はあたしを連行した〈街〉の兵士たちを全員ぶっ倒して、ここまで連れてきたの。それで何て言ったと思う? 『あのままだったら、あんたは死んでた〛、よ。まったく配慮が足りないと思わない? あたしには何の力もないって言われているみたいでさ。そこでカチンときて、ぶん殴ってやったの」
夏希は少し邪気の入った笑みを浮かべる。演技もなにもない、心底楽しそうな笑みだった。
「あの時の顔は一生忘れられないわ。それから、あのバカとあたしはずっと冷戦状態。ま、昼間はあんな騒ぎになったのは、そのせいってわけ」
話終えたとばかりに、夏希は紗世の髪梳きを再開する。
「なんか……」
どこかで聞いたことのあるような話。そのテンプレとして、紗世は一つの仮定に至る。
「夏希って、信司さんが好きなの?」
急に、髪が引っ張られた。
「痛っ!」
「ああ! ごめんごめん。でもそれはないわ! だいたい、今の話でどうしてそんな解釈になるの!」
「だって、夏希ったらすごく楽しそうで……」
「はあ、まあいいわ。でも、信司くんのタイプは千慧ちゃんみたいな女の子よ。妹系ってやつ。見ていて危なっかしい女の子が特にね。その路線でいうと、紗世なんかけっこうストライクかもよ。ねえどう、ここはあのバカを貰っていただく方向で……」
「え、ええっ! そんなこと言われても!」
不意にあの青年にかばわれる映像が脳裏に浮かんで、紗世は顔を赤くし、あたふたする。それをたっぷり十秒観察してから、夏希はにやっとして言った。
「冗談よ。それにしても、紗世ちゃんって天然ねー。とってもわかりやすいわ」
「う……」
「ふふっ。まー、さっきの仕返しってことで。そろそろあたしも寝るわ」
そう言って、夏希は大きく伸びをする。それから散らかした服を手早くストレージにしまって、部屋から出ていく。
「いい夢、みられるといいんだけどね……」
「うん……」
ドアを閉め、誰もいなくなった部屋を振り返る。部屋の隅にある鏡に映っている自分の姿が見えた。長い髪をおろして、水色のふわふわなネグリジェを着ている自分。
丈が短いせいで、素足がほとんど外気にさらされている。初夏の気候で気温は高いといっても、いつも長いスカートをはくかソックスで足を守っている紗世としては、かなり心ともなくなってくる。
紗世は心なしか急いで布団にもぐり込み、壁に設置してあったストレージを操作する。すぐに部屋は真っ暗になり、自分の息づかいだけが意識に上ってきた。
夏希にも言ったけれど、本当に、これまでの出来事が夢のように思えてくる。でも、不思議なのは今自分がおかれている状況が夢なのではなく、これまで自分が生きてきたすべてのことが、夢だったのではないかと思うことだった。
混乱、暴力的。拓人さんの言った言葉が、反芻される。きっと、自分は混乱しているのだろう。
明日になったら、自分はどんな状況におかれているのか、うっすらとした問いが頭の中を満たし、それは深い睡魔が紗世を飲み込むまで続いた。