phase3-1
一人の女性が、ビルの立ち並ぶ繁華街を粛ヶと歩いている。きっちりとスーツを着こなし、一目で彼女がやり手の弁護士とか、検察官のような職業であることを想像させる出で立ちだった。
が、ビルに投影された巨大モニターから垂れ流される映像を見た瞬間、その印象は一瞬で霧散する。まるで雷にでも打たれたかのような顔は、刑事ドラマで探偵に真実を暴かれてしまった犯人の顔だと言ったらしっくりくるかもしれない。
――午後一時二十三分ごろ、Gー23地区に第一級ウイルスが進入。治安維持局が速やかにウイルスの封じ込めを行いました。
そんな素っ気ないキャスターの言葉とともに、いくつもの崩れた建物を撤去している保安隊の映像がモニターには映し出されていた。
「そん……な……」
Gー23地区には、一人娘の紗世を残してきていた。来週からテストだと言っていたし、おそらくあそこに留まったままだっただろう。
衝動的にストレージを使って自宅に電話をかける。しかしコール音さえ響かず、その回線は存在しないことになっていた。
これは、いったいどういうことだろう。三年前に父親を亡くし、これまで二人で頑張ってきたというのに。仕事だって、順調に進んでいたのに。こんなことがあっていいのだろうか?
――見捨てられた。
理由もなく、そんな感情が湧いてきた。星川紗季という人間にとって、紗世という一人娘は自分の全てと言ってよかった。
とにかく、家に帰らなければ。そう思って、紗季は駅に向かってふらふらと走り出した。
それからのことを、紗季はほとんど覚えていない。ただ仕事の帰りという惰性にぶらさがり、何も考えられずに電車に乗って、Gー23地区へと移動する。
隣のGー22地区まで来て、紗季はいろいろとおかしいことに気がつく。まず、駅の前にある停留所に、バスが来なかった。やれやれと思いながら、仕方なく徒歩で行くことにする。
が、そこに立ちふさがる者がいた。
「お待ちいただけますか? 星川夫人?」
紗季がはっとして顔をあげると、五人ほどの男が目に入った。黒いスーツに身を包み、いかにもお役所仕事に慣れていそうな顔をしていた。
「すいません、今急いでいるもので……」
「それには及びませんよ。今Gー23地区は厳重に封鎖されています。今日中にはすべて片づきますから、お待ちください」
その言葉に、紗季はさっと顔をこわばらせる。
この男たちは、自分がどこに住んでいるのか知っていたのだ。ウイルスの封じ込められた地区に住んでいることを。
紗季は、ウイルスの封じ込めについてあまりよくない噂を聞いたことがあった。ウイルスによって汚染された地区は、保安局によって封鎖され、ストレージを破壊される。だから、その時汚染された地区にいなかった人間は、その所有物を失うことになる。
しかし、そのことに関して裁判が起きることはない。所有物が保安局によって破壊されるのだから、国から何か救済措置があってもおかしくないのに。
そしてなにより紗季の夫は、ウイルスに汚染された地区から帰ってこなかった。
「ご理解いただけましたか? しかし、このままではご夫人もいろいろと納得はできないでしょう。ですから、ご夫人にはこちらに同行していただきたいのですよ」
紗季の本能的な部分が、警鐘を鳴らしていた。この男たちについていったら、何か取り返しのつかないことになりそうだった。
「心配には及びません、仕事は尽きないものですから。そういったことなら、一度事務所に戻らせていただきます」
そう言って紗季がその場を立ち去ろうとした瞬間、紗季の足が唐突に動かなくなった。
「な……」
見ると、男の手からは文字列のような光が湧き出ていた。
「そういう訳にはいかないのです」
男は、感情のこもらない声で言った。そのあまりに冷たい声音に、紗季は背中がぞわりとする感覚を覚えた。
「危ないっ!」
と、そこに甲高い声が響いたかと思うと、男たちが一斉にその場に膝を着いた。見ると、何かとても嫌な音を聞いたような苦痛の表情を浮かべている。
次の瞬間には紗季は左手を握られ、ものすごいスピードで引っ張っていかれた。
紗季が足を動かしていないのに、体は宙を滑ってどんどん街の路地裏へと進んでいく。突然のことで怖がってもいいはずなのに、紗季はなんだかほっとしたような気持ちになっていた。今手を引いている誰かよりも、あの男たちのほうがよっぽど危険な気がしたのだ。
やがてバラックみたいな倉庫へとたどり着き、紗季はそこで手を離される。そこで初めて相手の顔を見て、紗季は面食らった。
「理奈ちゃん!」
「しっ、気づかれたらまずいから……」
理奈はまじめな顔でそう言いい、紗季は思わず口を手で塞いだ。しかし次の瞬間の理奈は少し拍子抜けたような、ばつのわるい顔をしていた。
「いや……音を遮断するコード張ってたんだった。しゃべっていいよ」
そう言われても、とっさに何を言っていいのかわからなかった。
その代わりに脳裏をよぎったのは、あのコードの輝きだった。あの男が使ったのは本来現行犯に対して使われる、拘束用のコードだった。
「理奈ちゃん……なのよね」
「うん、そう。あなたのかわいい娘さんの、たぶん友達だよ。星川紗季さん」
「どうして、ここに?」
聞くと、理奈は感情のこもらない声で答えた。
「逃げてきたの。あのウイルス騒ぎの原因は、私にあるから」
「え……それって!」
「安心して。とりあえす、紗世は死んでない。もし死んでいたら、もっとも分かりやすい形で私はそれを知ることになる。いいや、それは違う……。絶対に知ることはできない、と言った方がいいかな」
「どういう……ことなの? 理奈ちゃんが、一級ウイルスの事件に関わってるって……」
「これを見て」
質問には答えず、理奈は空中に仮想のモニターを出現させて、こちらに突き出す。そこには、砲弾のようなものが次々と着弾し、火の手をあげる街が移っていた。
そしてそれは、紗季が慣れ親しんでいた。Gー23地区そのものだった。
「これって……」
「そう。G-23地区は確かに封鎖された。そして、『除染』が行われたの。ウイルスが感染していくのは、なにも建物のストレージだけじゃない。人にだって感染する。だから、人も『除染』の対象。
これも一つの産業なんだ。コードによって建物を破壊してしまえばいいのに、これによって儲かる会社があるから、こうやってミサイルが使われている」
「そんな……ことって。いったい、どういうこと? どうして理奈ちゃんはそんなことを知っているの?」
紗季が顔を青くして言うと、理奈は静かに目を閉じる。それから決心したように里沙を見つめ、口を開いた。
「これ以上知ることになれば、私は完全にあなたを巻き込むことになる。たぶん、紗世はそれを望んでいない。けれど、私にとっても、あなたが必要なの。
選んで。私は、これからあなたに平穏な生活を取り戻させる方法を知っている。けれど、これ以上知ったら、もう後戻りはできなくなる。真相を知って、〈街〉から追われる身になるか、それとも、普段の生活を取り戻すか……」
理奈は、まるで映画か何かのワンシーンのような台詞を言う。その内容は紗季の頭にはほとんどと言っていいほど噛み砕けていなかったが、一つだけわかっていることがあって、そして聞かなければならないことがあった。
「あなたに協力したら、私は紗世に会えるの?」
震える唇で吐いた言葉に、これまで努めて冷静だった理奈の瞳が、驚きに見開かれた。
そこは、星空の真っ直中だった。
辺りには光輝く文字列が溢れかえっていて、それらが複雑に絡み合い、移ろって幻想的な光景を生み出していた。
見ると、自分の体もその文字列の一つだった。この世界の全ては文字列で構成されていて、そこに例外はなかった。
目の前を横切った文字列に手を伸ばし、触れようとする。しかしそれは手が届くよりも先に、ガラスのように砕け散った。
途端、周りの景色も音を立てて崩れ始める。気がつくとそこには頭や胸を打ち抜かれた人々の骸が転々とあって、地面を赤く染めあげるのに忙しかった。そこにはあの友人の姿もあって、しかしそれを受け入れる訳にはいかない。
目の前の光景に、もうなんだか訳がわからなくなって、叫ぶ。
そんな自分の叫び声に、紗世は飛びあがるようにして目を覚ました。
「う……え?」
そこは見慣れた自分の部屋ではなくて、見たところキャンピングカーみたいなものの中だった。紗世はそのベッドに寝かされていたらしい。
紗世が寝ていたベッド以外にもいくつか寝られる場所はあるようだったけれど、ここには自分以外誰もいなかった。
変な夢だった。
そう思って、首を傾げる。いったい、どこからが夢で、どこからが現実だったのだろうか。
紗世はこれまで起こったことを、苦労しながらぽつりぽつりと思いだしてみる。けれど、それらはなんだか現実から離れすぎていて、実感が湧いてこなかった。そんなことがあった、と自分に言い聞かせてみても、感情がついてこなかった。
一度、紗世はこの感情を体験していた。この感情は、三年前、医者であった父親が帰ってこなかったときと、ほとんど変わらないように思えた。
「そういう……ことだったの……」
三年前、K地区で大規模なウイルス災害があった。コードによる治療を専門とする紗世の父は、その原因を調査しに単身G地区を離れて、そして、帰ってこなかった。
確証はないけれど、父が「誰に」殺されたのかを紗世は直感していた。いとも簡単に銃で撃たれた、友人の変わり果てた姿。その陰が、父親に重なる。
たぶん、お父さんはあの兵士たちに撃ち殺されたんだ……。
紗世が呆然としていると、不意にキャンピングカーのドアがノックされた。
「入りますよ」
「は、はいっ」
反射的に、返事をする。すると少しだけ間をおいて、男が入ってきた。二十代前半ぐらいの、まじめそうな顔立ち。公園で紗世たちに呼びかけた男だった。
「体に変わったところはないですか?」
男の第一声はそんな自分への気遣いだったけれど、なんとなく緊張して構えてしまった紗世は、なにも言わず首を振った。
「そうですか。それならよかった。〈街〉から外へと転送するために、どうしても意識を落とさなければならなかったのです。勝手にやって申し訳なかったとは思いますが……僕たちにはそれ以外に方法がなかったんですよ」
男が申し訳なさそうに話すのを見て、紗世は少しだけ緊張を弛緩させた。すると、いろいろと疑問が頭をもたげてきた。
「あの……ここは、どこですか?」
紗世が不意に言うと、男はゆっくりと頷き、丁寧に話し始めた。
「ここは、関東圏の〈街〉から北西に三十キロほど離れた奈川渡ダムの近くですよ。いろんな理由で〈街〉から離れた人たちが、身を寄せあって暮らしているんです」
「〈街〉の……外」
「そうです。あの時も言ったとおり、あなたたちを守るためには、そうするしかなかった」
男の言うとおりだった。もしあのタイミングで黒コートの少年が助けてくれなければ、紗世はとっくにこの世にはいなかっただろう。
「ああ、自己紹介が遅れましたね。僕は天寺拓人といいます。差し支えなければ、あなたの名前を教えていただきたいのですが……」
本当に物腰の低い男だった。紗世は拓人と名乗ったこの男が本当に公園で人々に呼びかけていたのかと、少しだけ疑問に思った。
「あ、はい。わたしは星川紗世っていいます。あの、助けていただいて、ありがとうございます」
自然と口から出た言葉だった。すると拓人の顔は何か信じられないものを聞いたように驚きに彩られる。
「ええっと、どうしたんですか?」
「ああ、いえ。勝手に〈街〉の外までつれてくると、怒る人もいるんですよ。実は、さっき挨拶してきた人がそうでしてね……」
苦い笑みを浮かべた拓人に、紗世もなんだかおかしくなって微笑を漏らした。
「どうでしょう。わたしもなんだか、状況がうまくつかめなくて……」
「それでしたら、ここを案内しましょう。ついてきていただけますか?」
「はい」
紗世が頷くと、拓人はやはりゆっくりとした動作でキャンピングカーのドアを開け、紗世を外へと導く。
乗りなれないキャンピングカーからおっかなびっくりで降りると、そこに広がっている風景に思わず息を呑んだ。
巨大なコンクリートの壁が、山の谷間にそびえ立っている。さっきまで意識に上ってこなかったのが不思議だったがけれど、ここでは水の落ちる音が絶えず響いていて、なんだかあの壁がとても偉大な存在に見えた。
「すごい……」
「ダムを見るのは初めてですか?」
紗世が頷くと、拓人は自慢げな声音で言った。
「このダムは、日本で三番目に高いダムなんですよ。その分こうやって使えるようにするにはとても時間がかかったらしいんですが、その甲斐あって、僕たちが生活するには十分な電力をまかなうことができているんです」
「本当に、〈街〉の外なんだ……」
聞いたことしかなかった前世代の遺物をこうして見て、紗世はここが〈街〉の外であることを実感した。紗世にとって外というのはこんな山々でなはくて、K地区やM地区のことだった。
と、拓人が不意にモニターを出現させた。
「……通信です。ちょっと失礼」
拓人は紗世に背を向け、小声でなにか話し出した。
「ああ、どうも。……そうですか……それなら、僕が行きましょう。……ええ、それではその方針で……」
拓人はモニターを閉じ、紗世に向き直った。
「すいません、ちょっと問題が発生したみたいです。すまないのですが、案内は他の者にさせていただきますね」
「え、あ……はい」
「確かこの時刻なら……夏希が空いていますね。あなたと同じぐらいの女の子ですよ。行きがけに連絡しますので、ここで待っていてください、よっ」
言うと、拓人は軽く屈みながら全身から僅かに文字列の光を出し、その一瞬後には三メートルも飛び上がっていた。
あっと言う間に遠くに飛んでいく拓人の姿に、紗世は口をぽかんと開ける。
「あれ……なんなんだろう」
拓人のあの跳躍といい、黒コートの少年の高速の疾走といい、あの人たちはなんだか人間離れしている。〈街〉の外の人間は、みんなああなのだろうか。
案内してくれる人に、聞いてみようか。拓人の言うには紗世と同じぐらいの年齢らしいから、聞きやすいかもしれない。
そういえば理奈はあの時、手をふれずに自分をビルから突き落とした。手からコードを出していたからコードの力なのだろうけど、どうやったらあんなことができるのだろう。
コードは物質やエネルギーを〈情報化〉する技術だ。エネルギーをコード化することで、うまく化学反応を起こして化学製品を作ったり、衝突によるエネルギーを消して物を保護したりできる。
けれど、あんなふうに使われているところは見たことがない。
紗世がそうして悩んでいると、不意に、甘い香りが漂ってきた。
なんだろうか。甘ったるいような、苦いような。これは……。
「ワッ!」
「ひゃあああ!」
突然後ろから肩を掴まれて、紗世は思わず飛び上がる。
見ると、紗世の後ろには眼鏡をかけた少女が立っていた。ふんわりとしたドレスみたいな長いワンピースを着ていて、セミロングの髪は茶色に染まっている。その姿に、紗世はさっきの臭いが何の匂いであるかとっさに理解した。
「あはは、すごーくいい反応するね。君」
「あ……あなたは?」
「あれ、拓人さんから聞いてないの? あたしは藤村夏希。夏希でいいよ」
少女、夏希はそう言って、にやにやしながらどこからか取り出したチョコレートの板をかじり始める。そう、あの匂いはチョコレートの匂いだったのだ。
「はあ、ええと……」
「君は、紗世ちゃんだっけ? んーとね、これからこのダムを案内するんだけど……何か質問が?」
唐突にきりかえされて、紗世はどぎまぎする。返答に窮していると、夏希はその笑みを少しすぼめた。
「ああ……さっきのね。多分、ちょっとした意見の相違ってやつ。紗世ちゃんみたいに〈街〉から救出されたんだけど、混乱しちゃって暴力的になった人がいたみたい。ま、拓人さんならうまくやるでしょ」
混乱、暴力的。確かに、あんな光景が目の前で繰り広げられたら、そうなるかもしれない。自分はどうだろう、と少しだけ考えてみて、けれど深く思考が根付く前にそれは霧散してしまった。
「ま、とにかく。案内するわね」
夏希はそう言うと、紗世の手をとって、強引に引っ張っていく。いろいろと唐突だったけれど、なぜだか嫌な感じはしなかった。