phase2-1
「『世界』……か」
紗世はセンチメンタルな気分で、教室の窓から外を眺めていた。
外にはGー23地区の住宅街がずっと続いていて、星空は言わずもがな、ビルのひとつも見えない。
いったい、理奈はなにをしたのだろう。
昨日と似て、しかし決定的に違うその問いを、紗世はどうにも持て余していた。
昨日起こったことがあまりにも現実離れしていて、すべてが夢だったのではないかとも思う。けれどあの後、半ば放心状態で家に帰って、お母さんが今日の夜まで帰ってこないことを知ってがっかりした記憶もはっきりと残っていた。
そして、昨日とは決定的に変わったことが一つ。
紗世は教室の隅にある席に目を向ける。
そこに、瀬戸理奈という人物はいなかった。
紗世は今日何度目になるかわからないため息をつき、次の授業の為の準備を始める。
「あーらあら、どうしちゃったの? ため息なんかついて」
不意に声を掛けられ、その方向を見る。予想通り、少し呆れたような皐の顔がそこにあった。
「うん……」
いったい、どう言おうというのか。理奈がT地区出身で、彼女はそこから逃げてきて、そして紗世自身はなんだかよくわからないことをされたことを。
紗世は途方に暮れたが、その憂いはすぐに無用のものとなった。
ばん、と割れるような、ものすごい音が響いた。紗世と皐は弾かれたようにその方向を見、そして凍り付いた。
窓から見える市街地のあちらこちらから、炎と、煙が上がっていたのだ。
「火事っ!」
皐がそう叫び、紗世ははっとする。学校のすぐ近くの建物にも、火の手が上がっている。早く外に出なければ! こっちにも炎がやってくるかもしれない。
教室にいたクラスメイトたちが、驚いて教室から走り出す。廊下も階段も、すぐに生徒たちでごったがえした。紗世と皐もその中でもみくちゃにされ、なにがなんだかわからない状態になっていた。
そんな時、紗世はまたしても猛烈な違和感に襲われた。昨日までの違和感はすぐには答えの出ないものだったけれど、今回はそうでなかった。
「どうしてっ! 火事が起きているの!」
思わず叫ぶ。〈街〉にある建造物のすべては、その建物のストレージから出力されるコードに守られているのだ。たとえ隕石が落ちたとしても、そのエネルギーはコードに変換されるから建造物は守られる。だから、この〈街〉では火事など起こるはずがないのだ。
そう思っても、人の濁流は止まらない。いつの間にか皐ともはぐれ、紗世はよくわからないまま校舎から脱出した。
校庭には紗世と同じように生徒が集まっており、その中にぽつりぽつりといる教師たちが困惑した表情で突っ立っていた。
いろいろなものの焼けるにおいが、遠くから風に運ばれてやってくる。紗世は嗅いだことのないにおいに、思わずむせる。
と、市内全域にわたる放送のチャイムが響きわたった。生徒たちは、なにもかもわからぬ状態の中、必死にその音に耳を傾けた。
『関東治安維持局から、お知らせいたします。只今を以て、Gー23地区は一級ウイルスによる汚染地区として閉鎖を行います。近隣の地区のみなさまは、どうか近づくことのないよう、ご協力をお願いします』
今では記録にだけ残る防災訓練の時のアナウンスみたいな朗らかな声に、生徒たちの顔に雷に打たれたような衝撃が走る。
ウイルスといえば、ごくまれにK地区に発生するとても危険なコードのことだ。コードのネットワークを通して次々と人に感染し、その人の意図しない効果を身勝手に引き起こす。一級認定されるウイルスならば、簡単に人を殺すことだってできるのだ。
それが今、G地区に来ているという。前代未聞の出来事だった。そしてそれが何を意味するのか、生徒たちはニュースなどで見聞きしていた。
「うわああああ!」
一人の生徒が、叫び声を上げながらその場から走っていこうとする。それにつられるように、生徒の集団は瞬く間に混乱に陥った。
コードのウイルスの感染力は、自然に存在するウイルスの比じゃない。周りに張り巡らされているコードのネットワークによって、瞬く間に人々に感染していくのだ。
紗世は、混乱する集団のなかで、必死に考えを巡らせていた。なぜ、ウイルスはこの地区まで来てしまったのだろう。G地区のセキュリティを突破するのは、並大抵のことではない。それは、これまで一度もG地区にウイルスが進入したことがないという歴史が証明していた。
しかし、紗世の思考は鳴り響いた銃声によってかき消された。
見ると、先ほど走り出した生徒たちが、ばたばたと倒れていっていた。その先には銃器を構えた五人ほどの人たちが隊列を組んで端からこの校庭を制圧しようとしている動きが見えた。
おおよそ普段の生活では出すことのない変な叫び声を出して、生徒たちが倒れていく。その間近に迫った危機を感じて、紗世は悲鳴をあげた。
銃器が火を噴き、人が倒れていく。その波はついに紗世の前までやってきて、思わず紗世は目をつむった。
「やめろおおお!」
男子生徒の声が、断末魔のように響きわたる。そしてそれを否定するように、次の銃声が鳴り響いた。
が、命を削られて出る奇妙な叫び声は響かない。紗世が不思議に思って目を開けると、そこには紗世たちをかばうようにして立つ一人の少年の姿があった。
膝まで覆う丈の長い黒コートを羽織り、まっすぐに銃を持った男たちに向き合うその姿勢は、映画の中に登場する腕利きの警官か何かに見える。しかし半分だけ振り返ったその顔はまだ少しだけ幼さを残しており、紗世と同年代に見えた。
そして、右手には奇妙なものが握られていた。銃なのか、剣なのか、銃身に当たる部分が七十センチほどの刃になっていた。しかし、銃で言ったら腹にあたるその刃にはまるでノコギリの刃を大きくしたような「返し」がいくつもついている。しかもそれは刃の先へと向かっていて、刺そうにも刺しにくく、切ろうにも切りにくそうな形状だった。
突然現れた少年に、銃を持った男たちさしては驚くでもなく、ただ仕事を全うするとでも言うように、引き金を引いた。
響く銃声、しかし銃弾は少年に届く前に、消えた。
直後、少年の近くから湧くようにして数十発もの弾丸が放たれ、男たちへと向かう。
それらは男たちの元へと到達すると、勢いを失ってその場に落ちた。
「ちっ!」
少年は舌打ちすると、駆け出す。
その信じられない光景に、紗世は目を見張る。
はたから見たら、さながら超能力のようだ。けれど、紗世はどうしたらそんなことができるのかを知っていた。知っていて、驚愕した。
この少年は、あの男たちが放った銃弾をエネルギーごとストレージに収納し、そして打ち返したのだ。それは数十発と投げられた野球ボールを、一本のバットで打ち返すような芸当だ。
男たちもそれに気づいたのだろう。気をとりなおすように銃を向けたが、すでに少年は銃の懐までもぐりこんでいた。
青年が右手に持った「何か」を振るうと火花が走って、男の持っている銃が真っ二つに切れた。それから少年は黒い疾風のような恐ろしい速度で男たちの間を走り抜け、持っている銃を片っ端から切っていく。
男たちは、何が起きたのか全く分からないと言うように、少年の動きを目で追おうとして、しかしそれは叶わなかった。
銃をすべて無効化したことを確認した少年は、銃を切り刻んだその武器の先を、男たちに向ける。その引き金が引かれる度、男たちは音もなくその場に倒れ伏し、動かなくなった。
五人の男たちをたった一人でのしてしまった少年は、紗世たちの方に向き直ると、大声で言った。
「知ってるかもしれないが、こいつらは関東治安維持局の兵士たちだ。おまえたちは、こいつらの除染対象になっている。見つかったら、こいつらみたいに殺されちまう。
だから、逃げろ! 第五公園に、俺の仲間が脱出ポイントを作った。俺たちが兵士をくい止めているうちに、第五公園まで走れ!」
生徒たちは、目の前で人が撃たれたという目の前の事実を思いだし、そしてこぞって走り出した。
紗世もそれに習おうとして、しかしためらうように倒れている生徒たちを見て、息を呑んだ。
少しくすんだ、金色の髪。その倒れ伏した生徒は、皐だった。
「そんな……」
むせ返るようなにおいが、その友人の体から漂ってくる。紗世はそのにおいにむせ、気持ち悪くなって吐いた。
ほかの生徒たちは、少年から示された道に従うのに忙しく、撃たれた人たちを省みる暇などなかった。多くの生徒たちが、紗世のいる方向とは反対方向に走っていく。
皐の額には、小さな穴が一つ開いている。しかし後頭部は銃弾が出ていったせいでぱっくりと割れ、着弾の衝撃によってぐちゃぐちゃになった脳を晒していた。
紗世は皐の体を掻き抱いた。自分でも何をしたいのかも分からない。ただ、そうしなければならないような気がした。皐は、ここにいた。
「おい! そこのおまえ!」
紗世がそうして呆然としていると、先ほど兵士たちを倒した少年が、声をかけてきた。
「早く逃げるんだ。死にたいのか!」
「どうしてっ!」
紗世は、なんだかよくわからないうちに叫んでいた。
「どうして、皐がこうならなきゃいけなかったの!」
悲痛な叫びに、少年がはっとした。
「どうして……」
さっきまで自分の悩みを聞いてくれようとした友人が、こんなふうにならなければいけないのか。なにもかもが分からなかった。紗世にとって、この現実は受け入れ難かった。
怖かった。自分が何も知らないまま、こんな風に友人が変わり果ててしまうのが。
そっと、少年が腰を屈め、紗世が抱いている皐に手を触れた。すると瞬く間に皐の体は薄れ、代わりに文字列のような光が溢れて、少年の手へと吸い込まれていく。
「生きている生物は、コード化することができない。それはあんたも知っているだろう? 今、俺はあんたの知り合いをコード化して、ストレージに納めた。これがどういう意味か、分かるか?」
紗世は首を振った。そんなの、分かりたくなかった。
「どちらにせよ、あんたの知り合いはもうここにはいない。あんたが、ここに立ち止まっている意味はない」
少年は紗世の手を引き、強引に立ち上がらせた。
「だから、行け。死ぬんじゃないぞ」
そう言って、紗世の目をまっすぐに見つめる。そこに宿っている感情は、あまりにも矛盾したもので、しかしその意志の「強さ」は紗世がこれまで見てきた中でもっとも決定的なものだった。紗世はその意志に気圧され、その場にへたりこむという選択肢を失った。
「さあ!」
少年が指で第五公園の方向を示し、言う。紗世は糸で引かれるように、小走りでその方向へと走り出した。
知り合いが死んでしまうのは、いつだって悲しいことだ。もう幾度も経験しているせいでずっと慣れ親しんでいる感覚だが、それが悲しいことなのは変わりなかった。
十六、七ぐらいだろうか、子供と、大人の女性の中間にいる娘だった。煎茶色の髪を腰まで伸ばし、前髪を斜めに編み込むようにして顔にかからないようにしている。どちらかと言えば素朴な雰囲気で、もはや死語だが村娘という表現が合うかもしれない。それだけに、あのような体験は堪えるだろう。
自分がやったことは、問題の先送りでしかない。人間なら、知り合いの死体を目の前にして打ちひしがれないはずがない。だから、それを目の前から取り去ること。それだけで、その実感は薄れる。だが、いつかはその事実に向き合わなくてはならない。今は忙しいが、どこかで息をついたとき、先送りにした感情は人を襲う。
娘が小走りから大股での疾走をし始めるのを見届けてながら、少年はそんなことを考えていた。
「よう、ずいぶんとかっこつけたもんだな。信司さんよう」
と、そこにもう一人青年が現れる。髪を銀色に染め、学生の服みたいなスーツを着崩した、一言でいえばちゃらちゃらした雰囲気の青年だった。極めつけに、素では黒い瞳は、その左目だけ血のような赤色に輝いている。
青年、信司はわざとらしくため息を吐き、銀髪の青年を睨む。
「剛か。盗み見とは、相変わらず品がないな。そんなことをしている暇があったら、一人でもやつらを無力化してくれよ」
信司が言うと、銀髪の青年、剛はクククと不敵な笑い声をあげる。
「その台詞、そのまま返そう。実はだな、信司がお嬢さんを助けている間に、ここを包囲していたやつらをはったおしてやったんだよ。それも五小隊もだ」
それを聞いた信司はぐっと息をつまらせ、舌打ちをする。
「はあ、そりゃどうも。俺が言えたことじゃないが、あんたも無茶する」
と、信司たちのコードネットワークに通信が入った。
『こちら拓人、第五公園周辺の住民への避難通知があらかた終了したことを確認した。これより作戦は第二段階に入る。第五公園に兵士を誰一人として近づけるな。担当する防衛線は予定通りに張ってくれ。以上だ』
「了解!」
信司と剛が同時に返事をし、弾丸のような勢いでその場
から飛び立つ。ストレージにため込んだエネルギーを現実のものに戻し、自分の体に運動エネルギーとして付加しなければとてもできない芸当だ。
しばらくそうして空中を飛翔していると、逃げている住民を待ちかまえるようにして兵士たちが機関銃を構えているのが見えた。信司は一つ舌打ちをすると、ミサイルか何かのようにその間に割って入る。
「とまれえええ!」
ちょうど発射されていた銃弾をすべてストレージに収納し、片っ端から打ち返していく。しかし銃弾は先ほどのように兵士たちの体に到達すると、勢いを失ってその場に落ちた。
やはりだめか。この銃弾にはここの住民の『生存権』を踏みにじる権限があるのだから、打ち返せば効果があると思っていたのだが。
信司は弾丸を打ち返すことを完全にあきらめると、今度は自分が弾丸のような速度で兵士に肉薄し、手にした武器、『ブレイカー』をふるって次々と兵士たちの銃を切断していく。
銃を切断された兵士たちは、例外なくヘルメットの向こう側で驚きの声をあげる。そりゃそうだろう。こいつらの銃は自分が使用するコードによって守られている。コードによって保護された物体が、破壊されるはずがないのだから。
だが、物事にはすべて抜け道がある。この『ブレイカー』はその一つだ。
とかく、銃を切断されて驚いているうちに、『ブレイカー』の剣先を兵士に向け、引き金を引く。その度に、兵士はうっと小さなうめき声を上げ、その場に倒れる。
コード技術によって「正しい兵士」としての脳の構造を持っていたとしても、やはり想定外のできごとには対応できないらしい。銃の扱いに優れていて、人間をたやすく殺すことのできるやつらだけに、信司はこういうところのずさんさに眉をひそめざるを得ない。
まあ、自分はそこにつけ込んでいるのだが。
と、信司は背後に風圧を感じ、慌てて体を翻す。背中のすぐそばを何か鋭いものがが通り抜け、信司は寒気のような感覚を味わった。
「氷刃兵……」
思わず呟き、舌打ちをする。睨んだ視線の先には、鍔だけの刀のような奇妙な形状をした棒を持った兵士がいた。
兵士がその棒を振りおろすのを見て、信司はその直線上から離れるようにして飛んだ。その直後、すぐ横を猛烈な圧力が通過し、さっきまでいた地面に一本の線を刻みつけた。
間髪入れず、次々と不可視の斬撃が飛んでくる。信司はそれを紙一重でかわしたが、しかし反撃することができない。
何度目かわからない斬撃で、信司は体勢を崩す。ここぞとばかりにさらなる斬撃が飛んできて、反射的に『ブレイカー』で逸らそうとする。がきんっ、と金属がぶつかる嫌な音がして信司は正確に斬撃をとらえたと直感したが、しかし左肩に焼け付くような痛みが走った。
「一本の棒のように斬撃を繰り出している訳ではないのか……」
先ほどの現象から、信司はこの兵士が使う棒の機能をあらかた把握する。この兵士はあの棒から一直線上に刃を伸ばしているのではなく、あの棒の直線上に沿って空気中の「何か」を高速で飛ばしているのだ。
厄介……だが。
「〈外〉のやつらと比べたら、まだまだだな」
信司は不敵に笑うと、来る斬撃をぎりぎりでかわす。きわどい避け方になってきたが、しかし先ほどと違い、斬撃は信司にかすりもしなくなった。それから何度兵士が斬撃を飛ばしても、信司は体勢を崩す気配すら見せない。
「あんた、いいプロテクト使ってるな。見たことないプログラムだったから、時間がかかったよ」
涼しい顔でそう語りかける様子に、兵士も焦りを隠せなくなる。
それを見て取り、信司は斬撃を避けながらエネルギーのコードを解放して、兵士に一気に肉薄する。そのまま『ブレイカー』を横凪ぎにふるい、兵士の武器を両断せんとした。
対する兵士は慌てて棒を構え、そこから文字列のような光を発生させる。そうして『ブレイカー』が接触する瞬間、多量のエネルギーを解放した。
『ブレイカー』が、兵士の解放したエネルギーによって信司の手を離れ、宙を舞う。兵士はとどめとばかりに棒を振りかぶるが、そこに信司の姿はなかった。
「言っただろ? まだまだだって」
兵士の背後に回った信司は、当て身をするように拳を突き出し、そこから大量の文字列を流し込んだ。
兵士は多量の情報に脳を混乱させ、たまらずその場に倒れ込む。
それから、その場にいた兵士たちが当分目を覚ましそうにないことを確認すると、信司は住民たちへと振り返り、怒声をとばした。
「急げ! 俺たちは第五公園であんたたちを脱出させる。行け!」
住民たちが、はじかれたように信司が指さす方角へと走っていく。
「絶対に、守ってみせる……」
信司は呟くと、次なる標的を探して、弾丸のように飛び立った。