路地
…助けて、
声が聞こえたような気がして、真由はぶるぶるっと首を振った。
嫌だ。認めない。
私に霊感はない。
疲れてるんだ、ほら、最近寝不足だし。
…たすけて、
それは、疲れ果てていて、今にも消えてしまいそうで、何かを諦める直前の人っていうのはこういう声を出すんだろうと思わせた。
例えば自分を守ることとか、生きようという心とかそういう人間にとって当たり前のことを。
真由ははっとして思わず足を止めた。
視線を右にやると、薄暗い路地のさらに薄暗いゴミの溜まり場に男はうずくまっていた。
薄汚れたつなぎの服、肩まで伸びたこげ茶色のぼさぼさの髪、血が滲んで痛々しい裸足の足。
その男は顔を上げ死んだ魚のような目で立ちすくむ真由を見やった。
「え」
見つめられて頭の中が真っ白になる。やっとのことで発したのがこの一声である。
その時だった。
普段は人気のないこの路地の少し先で、尋常ではない叫び声が聞こえた。
「探せ!確かにこの辺に逃げ込んだんだ」
ぱっとそちらに視線を向けると、数人の警官隊の迷彩服がすごい勢いで通り過ぎるのが見えた。
「何なの?」
真由は声を押し殺して問い詰めた。
「あなた誰なの?何してるの?まさか、……っ!」
男は今までの生気の無さが嘘のように勢いよく体を起こし、逃げようと考える隙も与えず真由の腕をがっしりとつかんだ。
叫びかけた真由の口を後ろから回した大きな手で強くふさぐ。
「聞いて」
離せ、とじたばたする真由の耳元で男がささやく。
「追われてる、どうにかして逃げたい。あんたを人質にとる」
なおも暴れる真由に男はため息をついた。
「殺したくはない」
その声に感情はなくて、どうしようもなく怖くなって、観念して動きを止めると、男は少し力を緩めた。
「いいか、頼むから」
男は真由を後ろから抱きかかえるようにしてじりじりと警官隊が走り去った方へ移動する。
「頼むから、もう放っておいてくれ」
つぶやいた最後の言葉は、どうやら自分に向けられたものではなさそうだったけど、なんとなく、本当になんとなく、触ったらはじけて壊れてしまうしゃぼん玉みたいな人だと思った。
一人の迷彩服が真由たちのいる路地を通り過ぎようとしてきれいな二度見をし、わあっ、というような声をあげた。背後で男が心なしか手の力を強める。
こちらから目を離さずに重々しい銃を向け、動くな、と威嚇しながら黒い小型の無線機をポケットから取り出した。
ぴっ
と通信を始める合図の小さな音がして隊員が無線機に向かって早口にまくしたてる。
「標的を発見、応援を要請します」
相手の声がざわざわと了解、と答え、また通信終了の合図がぴっとなった。
今じゃ技術が進歩して衛星情報で位置まで通信できるようになったのに、ぴっ、という通信音なんか鳴らすのはどういうわけだろう。
他人事のように考える。逃げ回る犯人に追手の存在をここですよって教えているようなものだろうに。
迷彩服の男は銃をかまえなおした。
「いいか、動くとその女ごと撃つぞ」
真由は耳を疑った。
「は」
後ろで男が少し間の抜けた声を出す。
「何、民間人、撃つの」
背後で自分を羽交い絞めにしている胡散臭い男より、警官の方に殺意があるのか。




