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彼は今日も笑っている。

作者: 美言 つむぎ
掲載日:2026/05/16

「今日の夕飯何が良い?」

 お互い二十歳の時に付き合い始めてから5年、卒業後に一緒に住み始めて、2年になる恋人に声をかける。

 それでも返事はない。ここ最近は無視されている。

 前はすぐに食べたいものをリクエストしてくれたのに。

「じゃあ今日は麻婆豆腐にしよっかな」

 わざとらしく彼の好物をあげると、その言葉はシンとした部屋に思ったより大きく響いた。


「…いってきます」

 彼を残したまま、ドアを閉め、そのまま階段を降りて駐輪場に向かう。

 同棲するときに2人で選んだマンションの一室は、日当たりも良くてセキュリティもしっかりしてるけど、駅まで遠いのがネックだった。

 それでも、家賃が安いし、と駅まで自転車で通うことを決めた。


 片道自転車で10分の道のり。

 久しぶりで覚悟してた、夏の太陽が燦々と降り注ぐ日差しは、思っていたよりもそんなだった。

 ついこないだまでは夏の暑さにひいひい言ってたのに、今日はいつのまにか秋の空気だ。

 爽やかな風が肌を撫でて心地良い。


 会社に着くと、自然な風とは違う、クーラーの人工的な風が私の全身を覆う。

 今は涼しいけど、しばらくしたら寒くなりそう。

 席に荷物を置くと同じ部の後輩が話しかけてきた。


「あれ、美月みつき先輩!今日から復帰ですか?」

「うん。お休みもらっちゃってごめんね」

「それは全然大丈夫です。この時期は体調崩しやすいし…それより先輩痩せました?」

「え、そうかな?」

「なんかシュッてしてますもん。いや、痩せたっていうより疲れてる感じかな。なんか悩み事でもあるんですか?」

「うーん…」

「あ、彼氏さんですか?もうすぐ結婚って言ってましたもんねぇ。じゃあ今はあれだ、マリッジブルー的な」


 そう、実は私はプロポーズをされている。あの時は幸せだった。

 私の誕生日に、いつもは絶対行かないような高級レストランを予約してくれて、綺麗な夜景を見て、花束を渡されて…

「俺が一生幸せにするから…だから結婚して下さい」


 照れて赤くなっててそんなところも愛おしくて、胸がいっぱいで何も言えなくなって。

 それでも全力で頷いた私に向かって、笑いかけたあなたはどこにいってしまったのでしょうか。

 なーにが幸せにするだ。

 今はどんだけ話しかけてもスルーだってのに。


 ピロン、とスマホから着信音が鳴る。

 通知オフにしようとスマホを開くと、お店から『本日は指輪の受け取り…』とメールが来てる。

 そういえば今日は指輪の受け取りの日だ。


 2人で取りに行こうと話してたけど彼があの調子じゃ難しそうだ。

 仕方ない、1人で行こう。

 一応、彼に連絡しておく。

『指輪の受け取り今日だった。仕事帰りに取りに行ってくるね』


 ***


 仕事終わり、スマホを開いて、朝のうちに送ったメッセージを見ると相変わらず既読はついてない。

 はぁ、とため息をついてお店に向かう。

 あんなに楽しみにしてた指輪をこんな気持ちで受け取ることになるなんて思ってなかった。

 指輪だって2人で相談して、月と太陽がモチーフになってる指輪にしようって決めたのに。


 私たちが仲良くなったきっかけは、月と太陽だった。

 というのも、私の名前が美月で、彼は陽太ようたという名前だからだ。

 実は私と陽太は同じ高校だった。

 でも、高校時代は同じクラスになったことはないし、顔は知ってたけど喋ったことだってなかった。


 同じ大学に入って、たまたま取ってる授業が一緒で、顔見知りだったこともあり、喋ることが多くなったけれど、そこまで親しいというわけではなかった。

 陽太は明るくて、お調子者で、能天気で、どちらかというと相容れないタイプだとも思った。

 私の性格とあまりにも正反対すぎて。

 そんなある日突然、陽太に言われた。


「美月って、ほんとに月みたいだよな。一歩引いて、みんなを見守ってる的な」

「なにそれ、それを言うなら陽太の方が太陽でしょ、明るくてみんなを照らしてる感じ」

「…月はみんなに見てもらえるけど、太陽は誰も直視できない」


 その時の陽太は、なんだかいつもと様子が違ってみえた。

 いつもみたいにのっけらかんと笑ってるんじゃなくて、心の奥底に隠してたモノの仮面のが剥がれかかってるみたいな…触れてはいけない心の内側の柔らかい部分が、垣間見えてしまったかのような…脆くて、簡単に壊れて消えてしまうような気がした。


 だから次の言葉は、考えるより先に口をついて出てしまった。


「…でも、月は太陽のおかげで輝けるんだよ」


 この時の陽太の顔は、目をまん丸くさせて、まるで小さな子供のようだった。

 この日を境に私たちは、これまでどこかであった壁が壊れて、ありのままの姿で過ごせるようになって、付き合い始めるのも自然なことだった。


 大学を卒業したら、私も陽太も企業に勤めることが決まって、前より2人の時間が取れなくなるからと同棲を始めた。


 ***


 家に帰って、電気をつける。もうすっかり遅くなってしまった。

 今から麻婆豆腐を作っても、食べるのは日をまたぐ頃になりそうだ。

 疲れた体に鞭打って、夕食作りに取り掛かる。

 せっかくなら辛めの味付けにしよう。陽太は嫌がるかもだけど。

 麻婆豆腐は好きなのに辛すぎるのは嫌いってちょっと矛盾してるような気もするけどなぁ。


 ご飯も食べ終わって、お風呂にも入って、寝る前に、受け取った指輪を見ようとケースを開ける。

 2人分の指輪で、陽太のは少しサイズが大きい。

 内側には2人のイニシャルと日付が刻印してある。

 私の分の指輪を手に取って左手の薬指に着けてみる。


「…着けさせてくれるって言ったのに。ばか」

 今日お店に行った時もなんだか虚しかった。


「ねぇ、笑ってばっかいないで、いい加減返事してよ」

 左手の薬指に着いた、まだ馴染んでない指輪を一撫でして、陽太に向かって声をかける。



「私今日ひさびさに会社行ったんだけどさ。

 当たり前だけど、なんか世界は普通にまわってるんだなって。あっという間に時間も経ってたし。

 ほんと、なんでなんだろ…………」


 一生幸せにするって、言ったくせに。


 太陽ようたがいないと、わたしは輝けないって言ったじゃん

 私もうずっと真っ暗なの。怖い、寂しい



 なんで、死んじゃったの。



 呼びかけに返事がないのも、

 食べ物をリクエストしてくれないのも、

 メールに既読がつかないのも、

 一緒にお店に行けないのも、

 指輪を着けさせてくれないのも、

 今日まで私が会社に行けなかったのも、

 一生幸せにしてくれる約束を破ったのも、


 当たり前だ。

 彼は今日も、()()()()()()笑っているのだから。


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