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第八十話 エリーナ 師への報告

ミラベル町への帰還から数時間後、夕食を終えた私は商人ギルド本部へと向かった。

まもなく始まる公式報告会の前に、どうしてもイザベラ様に個人的にお話ししたいことがあった。

リバーデールでの一ヶ月の経験を、数字や成果だけではない、もっと深い部分で共有したかったのだ。


商人ギルド本部の扉を押し開けた瞬間、私の心臓は高鳴った。幾度となく通い慣れたこの廊下が、今日はなぜか特別に長く感じられる。

足音が石の床に響くたび、胸の奥で何かが震えていた。


イザベラ様の執務室の前で立ち止まり、深呼吸をする。

手にした報告書の束は完璧に整理されていたが、それでも一度、二度と確認せずにはいられなかった。

リバーデールでの一ヶ月が走馬灯のように蘇る。

あの緊張した計画委員会での瞬間、歴史資料を引用して両家の対立を解いた時の手応え、そして何より——自分自身の声で語った時の感覚。


軽くノックをして、いつものように「失礼いたします」と声をかける。


扉が開いた瞬間、私は息を呑んだ。


窓辺に立つイザベラ様の姿が、夕陽の光に包まれて浮かび上がっていた。


上質な深緑のドレスに身を包んだその姿は、まるで一枚の絵画のように美しく、一ヶ月強の時を経ても変わらず私の心を奪った。

栗色の長髪が実用的でありながら優雅な編み込みに整えられ、光の中で豊かな艶を放っている。

何より、あの鋭い観察力を感じさせる深い緑色の瞳が私を見つめた瞬間、胸の奥で雷に打たれたような衝撃が走った。


立ち居振る舞いの一つ一つが優雅で、まるで空間そのものが彼女を中心に調和しているかのようだった。

一ヶ月、私は成長したと思っていた。

でも、この瞬間、イザベラ様の前に立つと、やはり私はまだまだ遠く及ばない存在なのだと痛感した。

それでも、その圧倒的な美しさと存在感に憧れを抱く気持ちは、以前と変わらず私の心を満たしていた。


その深緑のドレス——上質な絹に施された繊細な刺繍が、夕陽の光の中で宝石のように輝いている。

私もいつか、あのような美しいドレスを身に纏いたい。

あのような優雅さで立ち居振る舞いたい。

ふと心の中で、自分がイザベラ様と同じドレスを着ている姿を想像してみた。

しかし、その瞬間、現実が冷たく押し寄せた。

いや、違う——外見の問題ではない。

本当に欠けているのは、あの揺るぎない自信、人を惹きつける知性の輝き、そして何より、どんな困難にも動じない内なる強さ——それらすべてが私には足りない。

同じドレスを着たところで、それはまるで子供が大人の服を借りて着ているような、滑稽な姿にしかならないのではないだろうか。

上質な花瓶に安っぽい造花を生けたような、痛ましい不釣り合い。


私は慌てて首を振り、そんな妄想を追い払った。


今はそんなことを考えている場合ではない。


「お帰りなさい、エリーナ」


振り返ったイザベラ様の微笑みに、私は思わず目頭が熱くなった。

一ヶ月前に見送ってくれた時と同じ、あの温かく、それでいて全てを見透かすような瞳。

しかし今回は、何かが違って見えた。

私を見るその眼差しに、以前にはなかった...まるで対等な存在を見るような光があるように思えたのだ。


「ただいま帰りました、イザベラ様」


私は報告書を机に置きながら、この一ヶ月の変化を簡潔に伝えた。

翡翠水路商業祭の定期開催決定、フォンターナ家とグリムウッド家の協力体制確立、そしてミラベル・リバーデール間の商業関係強化。

数字だけを見れば、確かに成功と呼べる結果だった。


「素晴らしい成果ね」イザベラ様は報告書に目を通しながら言った。「でも、エリーナ、数字以上に大切なことがあったのでしょう?」


その問いかけに、私の心は一瞬止まった。

やはりイザベラ様は全てを見抜いている。

私が一番話したかった、でも一番話すのが難しいことを。


「はい...実は」私は眼鏡を直しながら言葉を選んだ。「あの計画委員会で、初めて『エリーナ・レッドフィールド』として発言した瞬間がありました」


イザベラ様の手が止まり、緑の瞳が私をまっすぐ見つめた。


「あの時、私は頭の中で『イザベラ様ならどうするか』と考えました。でも、次の瞬間に気づいたんです。イザベラ様の真似をするのではなく、イザベラ様が教えてくださった『相手の本当の欲求を見抜く』という原則を理解し、私なりの方法で実践することが大切だと」


私は興奮を抑えながら続けた。


「両家の対立の背景を調べていく中で見つけた『水と木の祭り』の記録。あれは私の専門分野である古文書研究が活かされた瞬間でした。イザベラ様の交渉術とは違う、でも同じ目標に向かう私なりのアプローチでした」


イザベラ様は静かに微笑みながら頷いた。「それで、その時どんな気持ちだった?」


「怖かったです」私は正直に答えた。「でも同時に...まるで霧が晴れたような、澄んだ気持ちでもありました。自分の判断を信じて行動することの、重みと責任と、そして喜びを感じました」


机の向こうから、イザベラ様がゆっくりと立ち上がった。

そして私の前まで歩いてくると、いつものように肩に手を置いてくれた。

しかし、その手の温もりがいつもより対等に感じられた。


「エリーナ、あなたは本当に成長したのね」


その言葉に、私の目に涙が浮かんだ。

三年間、ずっと聞きたかった言葉。

でも今聞くと、それは単なる称賛ではなく、一人の商人として認められたという意味に聞こえた。


「でも、まだまだです」私は首を横に振った。「リバーデールで一人になった夜、何度もイザベラ様だったらと考えました。両親との再会の時も、イザベラ様の存在が心の支えでした。私はまだ、イザベラ様には到底及びません」


「エリーナ」イザベラ様の声が少し厳しくなった。「私に『及ぶ』必要はないの。あなたはエリーナ・レッドフィールドとして歩むべき道がある。私の足跡をなぞるのではなく、あなた自身の足跡を残していけばいい」


その言葉に、胸の奥で何かが弾けるような感覚があった。


「私も最初から今のようではなかった」イザベラ様は窓の方を見ながら続けた。「16歳で初めて外国商人と交渉した時、緊張で声が震えたわ。失敗もたくさんした。でも、一つ一つの経験が私を今の私にしてくれた」


「私にも...そんな日が来るのでしょうか」私は小さく尋ねた。


「もう来ているのよ」イザベラ様は振り返って微笑んだ。「リバーデールでの『翡翠水路の宝探し』の成功。あれはエリーナ・レッドフィールドという商人の最初の大きな足跡。そして、これからもっと大きな足跡を残していくでしょう」


私は報告書の最後のページを開いた。

そこには、私が新たに就任することになったミラベル・リバーデール交流部門部長としての今後の計画が記されていた。


「イザベラ様、私はこの新しい役職で、必ずミラベル町のために成果を上げます。そして...」私は一呼吸置いた。「いつか、イザベラ様と対等に語り合える商人になりたいです。師弟の関係を超えて、一人の商人として」


イザベラ様の目に、驚きと喜びが同時に浮かんだ。


「それは素晴らしい目標ね。でも、エリーナ、もうその第一歩は始まっているのよ。今のあなたの報告を聞いて、私は一人の優秀な商人と話をしているという感覚だった」


その言葉に、私の心は満たされた。

まだ道のりは長いけれど、確実に歩んでいる。

イザベラ様への憧れは変わらない。

でも今は、その憧れが私を前に押し進める力になっていた。


「ありがとうございます、イザベラ様。これからもご指導をお願いします」


「こちらこそ。あなたのこれからの活躍を楽しみにしているわ、エリーナ」


執務室を出る時、私は振り返ってイザベラ様を見た。

相変わらず美しく、知的で、憧れの存在。

でも同時に、私にとって到達可能な目標でもあるのだと、初めて感じることができた。


廊下を歩きながら、私は新しい部門の計画に思いを馳せた。

「リバーデールとの関係をさらに発展させ、エルミナ王国とドラコニア神聖国の二国間商業ネットワークを構築する。ミラベル町を西の拠点、リバーデール商業都市を東の拠点として、両国の商業関係を再活性化させる」壮大な計画だが、今の私なら実現できる気がした。


エリーナ・レッドフィールドとして。私自身の名前で。

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