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第七十五話 霧の中の戦い

朝の清々しい光が木々の間から差し込み、街道に柔らかな斑模様の影を落としていた。東の空から昇る太陽が、まだ残る夜露を金色に輝かせている。ケンたちを乗せた二台の馬車は、リバーデールからミラベル町への帰路、最終日を迎えていた。


「今日の夕方には、ミラベル町に到着します」カーターは手綱を握りながら言った。「この峠を越えれば、あとは平坦な道ばかりですよ」


一台目の馬車にはケン、ソフィア、ルーカス、オリビア王女、リリアが乗っていた。二台目にはエリーナと彼女の両親が乗っていた。


ケンは窓の外を眺めながら、これまでの旅を振り返っていた。マナ波動理論の実証、エルミナとドラコニアの関係改善、リバーデールでの商業祭の成功...思い返せば、これほど短期間でこれほど多くのことが起きたのは驚くべきことだった。


「考え事?」オリビアがケンに声をかけた。


「ああ、少し」ケンは微笑んだ。「短い間に、随分といろんなことがあったなと」


『ケン!』突然、アリスの声がケンの頭の中で鋭く響いた。『数値解析が異常値を示しているわ。両側の森からマナ波動パターンが急上昇中!これは明らかに上級魔法の形成過程よ!』


ケンの視界の中央に半透明の赤い警告表示が浮かび上がった。「マナ異常検知:両側20m圏内」「敵性波動パターン:攻撃魔法」「警告:炎氷術濃縮型」「猶予:3秒」の文字が点滅している。地図表示には左右の森から一直線に伸びるオレンジ色の矢印が示され、それが馬車の位置で交わる様子が視覚化されていた。


同時に、リリアの表情が変わった。彼女の鋭い眼差しが左右の森に向けられた。


「大火球系の魔法だ!」ケンは叫んだ。


「伏せて!」リリアが叫んだその瞬間、森の両側から巨大な火球が馬車に向かって飛来してきた。


森の両側から飛来してきたのは、直径が1メートルを超える巨大な炎の塊だった。深紅の炎が高密度に凝縮され、中心部は白熱し、外側には渦巻くような紋様が走る上級魔法の特徴を持っていた。空気を裂くような音と共に火球は旋回しながら馬車へと迫り、通過する空気さえも熱で歪ませていた。通常の防御魔法では防ぎきれない熱量と破壊力を秘めており、接触した物体を一瞬で灰にする威力を持っている。


リリアは警戒態勢に入っていたかのように、すでに詠唱を始めていた。「テンペスタス・ラピダ!」


彼女の言葉と共に、緑がかった風のエネルギーが彼女の周囲に現れ、瞬時に拡大して馬車全体を包み込んだ。この魔法は嵐の力を利用した緊急防御魔法で、多層構造の風の障壁が外部からの攻撃を受け止め、力を分散させる効果がある。上級防御魔法の中でも最も効果的な緊急展開魔法の一つだ。


火球は防御壁に当たって爆発し、障壁の外側で赤と緑のエネルギーが激しく衝突した。衝撃波が馬車を揺らしたが、リリアの魔法は確かに彼らを守っていた。


「みんな、大丈夫か?」ケンが素早く確認した。


ソフィアとルーカスは頷いたが、オリビアの表情には緊張が浮かんでいた。リリアは依然として防御魔法を維持していた。


カーターは手綱をしっかりと握りしめ、馬たちを落ち着かせながら、座席の下から護身用の短剣を取り出した。彼の眼差しには、かつての国境警備隊員としての冷静さが戻っていた。


アリスはケンの意識から飛び出し、金色の光の粒子で形作られた小さな猫の姿で空中に現れた。彼女は身につけた視覚能力を最大限に活用し、感知範囲を急速に拡大させて霧に覆われた周囲の状況を詳細にスキャンしていく。


「マナ波動パターンを検知しているわ」アリスは全員に聞こえるように宣言した。「後方に4つの人影を確認。右側の森に2人、左側の森に2人。それぞれ5メートル程度の間隔で配置されている。全員武装しているわ」


同時に、ケンの視界には半透明のマップが表示され、敵の正確な位置が赤い点で示された。距離、装備、さらには心拍数まで詳細に表示されている。


「前方に4人、後方にも4人。2人ずつのペアが前後左右に配置されて、完全に包囲されている」ケンが補足した。


「馬車を霧で覆います」リリアは素早く判断し、テンペスタス・ラピダを維持したまま次の魔法を詠唱した。「ネブラ・ラテンス(霧遁術)!」


彼女の魔法は周囲の水分を操作して急速に濃い霧を生み出した。この霧は通常の霧より密度が高く、光を遮断する性質も持っているため、視界を完全に奪う効果がある。わずか数秒で、馬車の周囲30メートルは不透明な白い霧に包まれた。


カーターは状況を即座に判断し、手綱を引いて馬車を停止させた。「この状況では進むのは危険だ」


ケンはリリアに向かって言った。「僕とルーカス、ソフィアで外の敵を排除する。リリア、オリビアの護衛をお願いします」


リリアは一瞬迷ったように見えたが、すぐに頷いた。「わかりました。馬車の防御は私が担当します」


ケンとルーカスはすぐに自分たちの剣を準備した。それはマーカス・ヴァルドから贈られた剣だった。


「ソフィア、エリーナと両親をこちらの馬車に移動させてくれないか」ケンは頼んだ。「より安全に守れる」


ソフィアは頷いた。「わかったわ」


「この状況では、敵も視界を失っているはず」アリスが分析した。「彼らは互いの連携も取りにくくなっている。これを利用できるわ」


ケンはルーカスに近づいた。「まず後方右側の2人組を同時に無力化する。君が手前の敵、僕が奥の敵を担当だ」


「わかった、兄貴」ルーカスは緊張しながらも、決意を固めた表情で応えた。


「手前が南東22メートル、奥が南東28メートル、6メートル離れて周囲を警戒しているわ」アリスがケンに報告した。


リリアが全員に向かって声をかけた。「テンペスタス解除まで、10秒」


緊張が馬車内に走った。


「5...4...3...2...1...解除!」


リリアのテンペストシェルが解除されると同時に、ケンとルーカスは霧の中へと飛び出した。


ケンは目を閉じ、アリスと共に習得したスパティウムの魔法を発動した。瞬間的に、霧に包まれた周囲の状況が頭の中に鮮明に映し出される。白と黒のコントラストで現れた構造にアリスの画像生成が色彩を与え、まるで霧がないかのように周囲を完全に把握できた。


右側の森に潜む二人の敵の姿が、木々の陰に隠れていても手に取るように見える。手前の敵は背中をこちらに向けて立ち、奥の敵は少し警戒して左右を見回している。


『ルーカス、手前の敵は背中をこちらに向けて完全に無警戒よ』アリスがルーカスに正確な位置を伝えた。『19メートル先、大きな樫の木の根元。剣を下ろしていて、仲間の様子を気にしているわ』


『奥の敵は25メートル、少し右に移動中』ケンは自分のターゲットを確認しながら、スパティウムで捉えた詳細な位置をもとに最適な接近ルートを計算した。


二人は霧の中を静かに進んだ。ケンの空間認識能力により、足音を立てそうな枝や石の位置まで正確に把握できるため、完全に無音での移動が可能だった。


『両方とも射程内。後10メートル』アリスの声が二人の耳に届く。『ルーカス、あなたの敵は今、仲間の方を向いているわ。完全にこちらに気づいていない。絶好のチャンスよ』


ルーカスは剣に風のマナを集中させ、グレイソンから学んだ技を準備した。剣の周りにわずかな空気の揺らぎが見え、マナが極限まで圧縮されていた。


ケンは「コンバットモード、起動」と心の中で呟いた。


ケンの瞳孔が一瞬収縮し、全身の感覚が研ぎ澄まされた。AIチップが神経系に指令を送り、筋肉の反応速度と精度を最適化する。時間の流れがわずかに遅く感じられるようになった。


ケンはルーカスに向かって手信号を送った。3本指を立て、2本、1本、そして拳を握って合図した。


二人は同時に霧の中へと飛び出した。


視界の効かない霧の中、完全に不意を突かれた敵たちは反応できなかった。ルーカスの剣が風の力を纏って一閃すると、敵の太ももと剣を持つ腕に深い切り傷を負わせた。敵は痛みで剣を落とし、悲鳴を上げた。


同時に、ケンも自分の標的に接近し、まだ状況を把握できずにいる敵の剣を自分の剣で弾き飛ばしながら、左手で「フルゴフィスト・メディウム」の魔法を発動。相手の胸に掌が触れると、青白い電流が走り、敵は意識を失った。


戦闘開始からわずか10秒で、右側の敵2人は無力化された。


その時、馬車の中でオリビアが次第に落ち着きを失っていた。「私も役に立ちたい」彼女は突然立ち上がった。「魔法の訓練は受けている。ただ見ているだけなんて...」


彼女の翡翠色の瞳には決意と焦りが交錯していた。父王から受け継いだ責任感と、幼い頃から刻み込まれた王族としての矜持が彼女を突き動かしていた。ただの飾りではなく、真の王族として民を守る者でありたい——その思いが胸の奥で燃えていた。閉ざされた宮殿の中で優れた魔法使いになるために費やした幾千もの時間が、今この瞬間のためだったとばかりに。


加えて、ケンたちが危険を冒して国家間の架け橋となろうとしている姿を目の当たりにし、自分だけが守られる存在であることへの居たたまれなさも感じていた。彼女の心の奥には、「王女だから」という理由で常に制限され保護されることへの、小さくも確かな反発があった。


「王女様、危険です」リリアは必死に止めようとした。「私の命と引き換えでも、あなたの安全を守ることこそが私の誓いです」


「リリア」オリビアは真剣な眼差しで彼女を見た。「あなたは私の剣であり、盾でもある。だけど、私の檻ではない」彼女の声には揺るぎない決意があった。「私たちが共に立ち向かうのよ」


「オリビア様!」リリアは仕方なく彼女の後を追った。「せめて私の近くにいてください」


一方、ケンとルーカスがまだ右側グループの敵を拘束している最中、仲間の悲鳴を聞いた左側の森に潜んでいた敵2人が、状況を察知して霧の中から二人に向かって駆けつけてきた。


「左側のグループが移動中!」アリスが警告した。「2人とも武装している!こちらに向かっている!」


その時、ソフィアはエリーナと両親をケンたちの馬車へと移動させていた。


「何が起きているのですか?」エリーナの父親が震える声で尋ねた。


「襲撃です。でも心配しないで、私たちが守ります」ソフィアは落ち着いた声で答えながら、素早く地面に手をつき詠唱した。


「バルワリス・ミノル!」


ソフィアの魔法で地面から岩と土が盛り上がり、高さ2メートル、幅3メートルほどの頑丈な防壁が馬車の前方に形成された。


霧の中から、左側グループの2人の敵がケンとルーカスに同時に襲いかかってきた。一人は手練れの傭兵らしく、ケンに向かって鋭い攻撃を繰り出してくる。もう一人はルーカスを狙って迫った。


ケンと対峙した敵は無駄のない動きで素早い剣戟を繰り出した。訓練された殺気立った眼差しで、一切の隙を見せずにケンへと迫る。


ケンはコンバットモードの効果で、敵の動きが僅かにスローモーションで見える中、絶妙な間合いを取って攻撃をかわした。敵の剣先が頬を掠める程度の距離で、最小限の動きで回避を続ける。


一方、ルーカスも同時に別の敵と対峙していた。この敵も熟練の傭兵で、表情を変えることなく巧妙な剣技を繰り出してくる。無言で迫る殺気に、ルーカスは身を引き締めた。


2対2の戦闘が霧の中で展開される。ケンとルーカスは背中合わせになりながら、それぞれの敵と一進一退の攻防を続けた。


ケンの敵が渾身の突きを放った瞬間、ケンは体を僅かに捻り、敵の懐に滑り込んだ。その一瞬の隙を逃さず、左手で「フルゴフィスト・メディウム」を発動し、敵の胸部に掌打を叩き込んだ。


青白い電流が敵の体を駆け抜け、敵は意識を失って倒れた。


ほぼ同時に、ルーカスはケンとの練習で身につけた型を思い出し、敵の攻撃パターンを読み取った。風のマナを剣に集中させ、敵の剣を受け流しながら反撃の機会を狙った。


敵が大振りの攻撃を仕掛けてきた瞬間、ルーカスは素早く踏み込んで敵の剣の腕を切りつけた。敵は痛みで剣を落とし、その隙にルーカスは剣の柄で敵のみぞおちを強打した。


「うぐっ...」敵は息を詰まらせ、そのまま気絶して倒れた。


「後方の敵4人、全て無力化完了」ケンが報告した。


「兄貴、俺が無力化した敵を拘束しておくよ」ルーカスが言った。「馬車の方をお願いします」


ケンは馬車に戻り、リリアとオリビアの姿を見て一瞬驚いた。


オリビアはケンを見つめて、決意を込めた声で言った。「私も戦える」


「前方にまだ敵がいるわ」アリスが告げた。「魔法使いを含む4人、北西方向に散らばっている」


「オリビア、前方8メートルに魔法使いがいるわ」アリスが告げた。「魔法の詠唱を始めている」


オリビアは深く息を吸い込み、背筋を伸ばした。彼女の瞳が一瞬青く輝き、周囲の空気がわずかに振動し始めた。両手を前に出し、指先から繊細な光の波紋が広がる。


「ソノプルサス」


その言葉を発するとき、彼女の心には鮮明な記憶が蘇っていた。15歳の冬、王宮の秘密の訓練場で、リリアと二人きりで過ごした厳しい日々。「音の波動は目に見えませんが、その破壊力は侮れません」リリアの冷静な指導が耳元で響く。何度も何度も失敗を繰り返し、壁に刻まれた標的は微動だにしなかった。


「感覚で捉えるのです、王女様。頭で考えるのではなく、マナリムから直接感じるのです」


十七日目の夕暮れ、オリビアはついに悟った。音は空気の振動であり、それは水面の波紋と本質的に同じだと。流波術の才能を持つ彼女にとって、波動はすべて繋がっていたのだ。指先から放った青い光の波紋が初めて標的に届いた瞬間、練習用の石像は内側から粉々に砕けた。その時リリアが見せた満足げな微笑みは、彼女が見せる感情表現の中でも特に稀なものだった。


「素晴らしい、オリビア様。これが『ソノプルサス』、音波衝撃の真髄です」


彼女の唇から名前が発せられた瞬間、空気そのものが共鳴するような低い振動音が生まれた。オリビアの指から放たれた青白い波動の輪が、霧を切り裂きながら疾走する。波動は進むにつれて収束し、鋭い矢のような形に変化した。


濃霧の中で音波が可視化され、青い光の筋が空間を貫いた。強力な音響エネルギーが集束した波動は、ターゲットに命中すると同時に爆発的に解放される。大気を揺るがす鈍い衝撃音と共に、霧の中から喉を潰されたような悲鳴が聞こえた。音の振動は敵の体内に侵入し、内部から組織を震わせ、平衡感覚を完全に破壊する。


霧の中で一瞬、人影が宙に浮いたように見え、続いて重い物体が地面に叩きつけられる音が響いた。オリビアの指先からは、魔法の余韻として微かな青い光がまだ漂っていた。


ケンは感心したように言った。「見事な魔法でした、オリビア」


オリビアは少し自慢げな表情を浮かべながら、優雅に振り返った。「王宮での訓練の成果よ」


「リリア」アリスが素早く情報を伝えた。「今倒れた敵の右側13メートル地点に、まだ二人の敵がいるわ。どちらも武装している」


リリアは一瞬オリビアを見つめ、明らかに迷いの色を浮かべた。王女の側を離れることへの強い抵抗が、彼女の表情に現れていた。


「リリア」ケンが理解を込めた声で言った。「僕とアリスでオリビアを守る。君を信じているように、僕たちも信じてくれ」


「この状況では、敵を素早く無力化することが王女様の安全に最も重要です」アリスも支援するように付け加えた。「私たちが完全にカバーします」


オリビアはリリアの迷いを察し、優しくも毅然とした声で言った。「リリア、私は大丈夫よ。あなたの力を存分に発揮してきて。それが今、一番私を守ることになるわ」


リリアは短く頷いた。戦術的判断として、残敵を放置することの方がはるかに危険だと理解していた。「お願いします」


彼女の声には、オリビアを他者に託すことの重みが込められていた。


リリアは音もなく霧の中へと消えていった。


しばらくすると、霧の向こうから微かな水音が聞こえてきた。まるで小川のせせらぎのような音だったが、それは明らかに人工的な水の流れの音だった。続いて、風が唸るような低い音が短く響く。


「アクアバインド...」誰かの呻き声が霧を通して届いた。


水が何かに纏わりつくような音と、もがく様子が伝わってくる。そして再び風の音。今度は二つの方向から同時に響いた。


数十秒後、リリアが二人の敵を引きずりながら霧の中から姿を現した。「この者たちは投降しました」


彼女の捕らえた男たちは恐怖に満ちた表情で、武器を捨てていた。手足には水で作られた縄のようなものが巻きついており、完全に身動きが取れない状態だった。リリアがどのようにして一瞬で二人を同時に無力化したのか、誰にもわからなかった。


「ソフィア」ルーカスが馬車の後方から声をかけた。「縛るためのロープを持ってきてもらえるか?無力化した敵を確実に拘束したい」


「わかったわ」ソフィアは馬車に向かい、荷物の中からロープを取り出してルーカスに手渡した。


その後、ソフィアが馬車に戻ろうとしたその時だった。


「待って!」アリスが金色の光を激しく散らしながら警告した。「最後の敵が移動している!西方向30メートル、隠れていた魔法使いよ!」


彼女の小さな体が緊張で震えている。「マナ波動が急激に上昇中!大型魔法の詠唱を開始したわ!」


「ソフィア、危険よ!」アリスの声が響いた瞬間だった。


それは直径1メートルを超える炎の塊で、霧を一気に蒸発させながら、破壊的な速度でソフィアに向かって飛来した。


空気そのものが火球の通り道で焦げ、光と熱のエネルギーが衝撃波を伴って押し寄せる。周囲の植物が一瞬で茶色く変色し、砂利道の小石さえも火球の熱で赤く染まった。グロブス・イグニス・マクシムスの威力は通常の火球の三倍以上あり、直撃すれば防御魔法なしでは致命傷を負う危険性があった。


「西方向30メートルから強力な魔法攻撃!」アリスが警告した。


ケンは瞬時に反応した。コンバットモードで高められた感覚が、飛来する火球のマナ波動パターンを捉えていた。彼の視界にはAIチップが投影する半透明なデータが浮かび上がり、目の前の脅威をリアルタイムで解析していた。


円形のマナメーターが視界の左側で危険な赤色に点滅し、現在出力が200%を示している。中央には「波動パターン解析中...」の表示が一瞬現れ、続いて「逆位相パターン生成完了」「相殺必要出力:240%」へと変わった。右側には二つの波形が表示され、一つは火球の波動、もう一つはその鏡像となる逆位相の波形だった。


『ケン!240%の出力が必要よ!現在値では40%不足している!』アリスの声が頭の中で響いた。


ケンは迷わず決断した。マナリムの奥底に眠る予備のマナを無理やり引き出す感覚で、これまで経験したことのない領域へと出力を押し上げる。


『40%上乗せ...危険だけど、やるしかない』


視界のマナメーターが警告の赤から危険な紫色に変わり、240%まで一気に跳ね上がった。同時に「警告:安全域超過」「リスク:高」の文字が点滅し始める。


ケンは集中し、アリスが提供するパターン通りに自身のマナを調整した。焦点を合わせた視線の先に、飛来する火球の波動構造までもが見えるようになっていた。彼は手のひらを向け、意識の中で逆位相のマナパターンを構築する。


マナが彼の体内から腕を通り、手のひらへと集中していく感覚。その流れに意識を重ね、アリスの助けを借りて波動の形を完璧に制御した。手のひらから放たれたのは、見た目には通常の赤い炎だったが、その内部構造は飛来する火球と正確に逆位相になっていた。


二つの魔法が空中で衝突した瞬間、強烈な光が閃いた。火球のすべての波動性質がケンの魔法と完全に打ち消し合い、熱も炎も爆発も生じることなく、ただ光のエネルギーだけが解放された。それは一瞬の閃光を生み出し、すぐに消え去った。


視界の端では「マナ同調率:99.8%」「相殺成功」という表示が緑色に点滅していたが、すぐに「マナ残量:危険」「マナ消耗:深刻」の赤い表示に変わった。240%という安全域を大幅に超えた出力は、ケンの体に想定以上の負荷をかけていた。


「うっ...」ケンは突然激しいめまいと吐き気に襲われ、膝を地面についた。40%のオーバードライブによる反動が全身を駆け抜け、一時的に視界が揺らいだ。あまりにも大量のマナを一度に消費したことに加え、安全域を超えた無謀な出力が神経系にダメージを与えていた。


「ケン!」ソフィアが心配そうに駆け寄った。


「大丈夫...だと思う」ケンは額の汗を拭いながら、息を整えて答えた。「無理に魔法を使った...安全域を超えていたから、反動が想定以上に激しい」


「これを飲んで」ソフィアはケンの前に膝をつき、瓶の栓を開けて差し出した。「マナ回復の調合薬よ。体内のマナ循環を正常化させる効果がある」


彼女の翡翠色の瞳には心配と同時に、的確な判断を下す冷静さが宿っていた。


「副作用は軽いめまいだけ。マナ枯渇には特に有効なはず」ソフィアは続けた。「私の調合した薬だから、品質は保証する」


ケンは素直にその薬を受け取り、一気に飲み干した。薬は口の中でわずかに甘く、喉を通る際にひんやりとした感覚が広がった。


数秒後、ケンの体内で乱れていたマナの流れが徐々に安定し始めた。激しい吐き気とめまいが和らぎ始めた。


「ソフィアの正面15メートル!魔法を放った敵がいる!」アリスが叫んだ。


ソフィアは立ち上がり、霧の濃い中を慎重に進み、敵の影がかすかに目視できる距離まで接近する。ポーチから小さな青い瓶を取り出しながら、霧越しに見える人影の正確な位置を見極めた。


ソフィアは素早く源素阻害剤を投げた。小瓶が霧の中で割れ、青みがかった粉末が空中に広がった。この特殊な調合薬はマナの流れを一時的に阻害する効果があり、魔法使いの能力を大幅に低下させる。


「効果範囲は直径5メートルよ」ソフィアが伝えた。「当たったわ!」


霧の中から抑えたうめき声が聞こえた。源素阻害剤が目標に命中し、効果を発揮したのだ。


「魔法使いの波動が急速に弱まっているわ」アリスが確認した。「源素阻害剤の効果で、少なくとも数時間は魔法が使えないはず」


しかし、その直後、源素阻害剤を受けた魔法使いが怒りに満ちた表情で姿を現した。彼の魔力は阻害されていたが、その分だけ物理的な攻撃に転じようとしていた。手には剣が握られている。


「魔法が使えぬなら、こうするまでだ!」男は憎悪の目でソフィアを睨みつけた。


ルーカスはその時、制圧した敵を縛り上げるため、ソフィアから15メートルほど離れた場所にいた。霧の中で距離感が掴めず、ソフィアの正確な位置を把握できていなかった。


「危ない!」


ルーカスの叫び声が霧を切り裂いた。目の前には、源素阻害剤を投げたソフィアに向かって、霧の中から黒い人影が剣を振りかざして飛び出していく光景があった。


時間が引き伸ばされたように感じる極限の恐怖状態で、ルーカスは必死に駆け出そうとした。しかし、距離が遠すぎる。このままでは間に合わない。


ソフィアは敵の接近に気づき、慌てて後ずさりしようとしたが、足が石につまずいて転倒してしまった。地面に倒れた彼女の上に、憎悪に歪んだ顔の男が剣を振り上げて迫る。


ケンは咄嗟にソフィアを助けようと立ち上がろうとしたが、240%という危険な出力を使った反動が全身を襲った。膝に力が入らず、立ち上がろうとした瞬間に再び地面に膝をついてしまう。マナ枯渇による深刻な体力低下が、彼の身体機能を著しく阻害していた。


「くそっ...体が...」ケンは歯を食いしばりながら、もう一度立ち上がろうと試みたが、激しいめまいと筋力の低下により、思うように動けなかった。


その瞬間、ルーカスの脳裏に鮮明な記憶が蘇った。


雪に覆われた森の中。5歳の妹エマが魔獣に襲われたあの日。自分は恐怖に凍りつき、何もできずに立ち尽くしていた。エマの小さな手が自分に向かって伸ばされていたのに、体が動かなかった。


『お兄ちゃん...助けて』


エマの最後の言葉が頭の中で響く。そしてそれは、今度はソフィアの声に変わった。


『ルーカス...』


ソフィアと過ごした日々の記憶が瞬間的に駆け巡る。


馬車の中で剣と薬草について言い合った日。「男の人って、武器を手にすると途端に子供になるのね」と呆れたような声で言いながらも、その目は優しかった。「私の方がもう少し上品だったはずよ」と意地を張る姿。そして最後には三人で笑い合ったあの温かい時間。


満月祭で竜隊の指輪を「子供のおもちゃ」と言いながらも、自分が恋を叶える薬草を買っていることをからかわれて頬を赤らめた時の可愛らしさ。「学術的な興味で買っただけよ!」と必死に言い訳する姿。


リバーデールの魔法具店で目を輝かせて夢中になっていた時の純粋な喜び。「こういう品物は簡単に見つからないのよ」と言いながら、まるで子供がお菓子屋に入ったように嬉しそうだった表情。


旅の中で少しずつ見せてくれた素直な笑顔。厳しい言葉の奥に隠された優しさ。そして何より、いつも自分を一人の人間として尊重してくれる温かさ。


もう二度と。もう二度と大切な人を失うことはできない。


剣が振り下ろされようとしたその瞬間—


ルーカスは必死に駆け出そうとした。しかし、距離が遠すぎる。霧で視界が悪く、正確な位置も掴めない。


15メートル。


自分とソフィアの間の絶望的な距離。


時間が止まったかのように感じられる中で、ルーカスは自分の無力さを痛感していた。霧が視界を遮り、正確な方向さえ分からない。どんなに駆けても、どんなに急いでも、物理的に間に合わない。


「間に合わない...」


ルーカスの口から絶望の言葉が漏れた。


エマを守れなかった12歳のあの日の無力感が、今また彼を襲った。目の前で大切な人が危険にさらされているのに、自分はただ立ち尽くすことしかできない。


ソフィアの翡翠色の瞳に映る恐怖と諦めの色。振り下ろされる短剣の軌道。そして、それを止められない自分の無力さ。


「ソフィア...」


ルーカスの声は震えていた。絶望に歪んだ彼の表情に、涙が浮かんでいた。

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