第五十一話 交錯する水と木
リバーデールの朝は、水面を伝う光の煌めきから始まる。二河交差亭の食堂では、ケンたち一行が早朝から集まり、今日の商業ギルドとの会談に向けた最終確認を行っていた。
「今日の会談、緊張するわ」エリーナは手元の資料を整理しながら言った。「レオナルド・メリウェザーはリバーデール商業ギルドの中でも特に影響力のある人物です」
ソフィアはお茶を一口すすりながら尋ねた。「リバーデールの商業事情について、もう少し詳しく教えていただけますか?」
エリーナは眼鏡を直し、準備していた資料を取り出した。「リバーデールの商業は二つの大きな商家によって支配されています。フォンターナ商家とグリムウッド家です」
「フォンターナとグリムウッド?」ケンは興味を示した。
「はい」エリーナは資料を開きながら続けた。「フォンターナ商家は約350年前の街の創設期から存在する古い名家です。主に水運業と染料取引を支配しています。一方、グリムウッド家は比較的新しく、約200年前から木材業と精密機械製造で台頭してきました」
ルーカスは朝食のパンをかじりながら首を傾げた。「二つの家は仲が良いの?」
「いいえ」エリーナは頭を振った。「長年にわたる対立関係にあります。フォンターナ家は伝統を重んじ、グリムウッド家は革新を追求しています。この対立がリバーデールの商業における大きな課題なのです」
エリーナは内ポケットから上品な刻印が押された二通の手紙を取り出した。「これはウィリアム・スターリング様からいただいた紹介状です。彼は両家と長年の友好関係があるとのことで、直前に私に託してくださいました」
「なるほど」ケンは考え込むように言った。「『市場巡りの旅』の実施には、この二つの家の協力が必要になるわけだ」
トーマスが静かに口を開いた。「リバーデールの商人たちは古くから独立心が強く、相互協力よりも競争の精神を重んじてきました。『市場巡りの旅』のような協力モデルは、彼らの伝統的な価値観とは相容れないかもしれません」
「だからこそ、私たちの役割が重要なんです」エリーナは決意を込めて言った。「両家の協力を得られれば、リバーデール全体の商業モデルが変わる可能性があります」
ケンは立ち上がり、窓から見える水路の景色を眺めた。朝の光に照らされた水面は、まるで金色に輝いていた。
「ミラベル町での成功例を示すことが、きっと説得力になるよ」ケンは振り返って微笑んだ。「協力することによって、全体としての利益が増えたことを強調しよう」
ソフィアが頷いた。「フォンターナ家には伝統的な協力精神の観点から、グリムウッド家には効率と利益の観点からアプローチするのが良さそうね」
エリーナは安堵の表情を浮かべた。「ありがとうございます。みなさんと一緒だと心強いです」
「よし、行こう」ケンは力強く言った。「レオナルドとの約束の時間まであと1時間ある。準備は万全だね」
彼らは朝食を終え、商業ギルドへの出発準備を始めた。エリーナは最後にもう一度資料を確認し、深呼吸をして心を落ち着かせた。この任務は彼女にとって大きな挑戦だが、イザベラの信頼を裏切るわけにはいかないという決意が彼女の背中を押していた。
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リバーデール商業ギルドの本部は、二つの河川の合流点を見下ろす丘の上に建っていた。白と金を基調とした壮麗な建物は、その高い塔に金色の鳥「アルビオン」を掲げ、街の象徴となっていた。
一行が玄関に到着すると、正装した受付係が丁重に出迎えた。「ミラベル町からの使節団の皆様、お待ちしておりました。レオナルド様がお待ちです」
彼らは広い大理石の廊下を通り抜け、本館最上階のレオナルドの執務室へと案内された。室内は落ち着いた色調で統一され、中央には大きな円卓が置かれていた。窓からはリバーデール全体の景色が見渡せた。
「ようこそ、ミラベル町からの使者の皆さん」
レオナルドは60代半ばと思われる白髪の男性で、鋭い目と温和な笑顔を併せ持っていた。彼は立ち上がって一行を迎え入れた。
「ドラコニア神聖国の神官と共に来られるとは珍しい組み合わせですね」レオナルドは興味深そうに言った。
エリーナは一歩前に出て、しっかりとした声で挨拶した。「ミラベル商人ギルド特使のエリーナ・レッドフィールドと申します。本日はお時間をいただき、誠にありがとうございます」
彼女はミラベル商人ギルドの正式な信書を差し出した。レオナルドはそれを受け取り、印章を確認してから開封した。
「イザベラ・フォーサイスからの親書ですか」彼は興味深そうに目を通した。「彼女との取引は常に刺激的ですね」
トーマスもドラコニア神聖国からの正式な挨拶を述べた後、ケンが『市場巡りの旅』について説明を始めた。
「私たちがミラベル町で始めたこの取り組みは、個々の商人が対立するのではなく、協力することで全体の利益を高めるという考えに基づいています」
ケンはミラベル町での実施状況と成果について詳しく説明した。売上の増加、来訪者数の拡大、そして何より商人たちの間に生まれた新たな関係性について力を込めて語った。
レオナルドは熱心に聞き入り、時折質問を挟んだ。彼は特に具体的な数字と、実施後の変化に関心を示した。
「なるほど、興味深い取り組みです」レオナルドは説明が終わると言った。「ちょうど商業ギルド創立200周年の記念祭が目前に迫っており、何か特別な企画を探していたところです。この『市場巡りの旅』は絶好のタイミングかもしれません」
「200周年の記念祭ですか?」ケンは興奮した様子で尋ねた。
「ええ、あと約10日後に予定しています。リバーデール中から商人が集まる大きなイベントです」レオナルドは説明した。「もし『市場巡りの旅』を記念祭の一環として実施できれば、素晴らしい目玉企画になるでしょう」
エリーナが少し心配そうな表情で言った。「10日での準備は可能でしょうか?」
「リバーデールは商業の街です」レオナルドは自信を持って答えた。「200周年記念祭のために、すでに商人たちは準備万端です。あとは方向性を定めるだけ。特に適した場所もあります。しかし、リバーデールは少し事情が異なります。ここでは二つの大きな商家が商業を支配しています。フォンターナ家とグリムウッド家です」
エリーナが頷いた。「はい、両家についての情報は収集しております。また」彼女は内ポケットから二通の手紙を取り出した。「ウィリアム・スターリング様からの紹介状も持参しております」
レオナルドは目を見開いた。「スターリングからの紹介状ですか?」彼は興味を示した。「彼とは古くからの付き合いがあります。実に興味深い」
「彼らの協力なしには、どんな商業イニシアチブも成功しません」レオナルドは続けた。「しかし、両家は長年対立関係にあります。特に最近は『翡翠水路』の開発をめぐって意見が対立しています」
「翡翠水路ですか?」ソフィアが尋ねた。
「ええ、リバーデールの中心部を流れる水路の一つです。フォンターナ家は水運としての利用を主張し、グリムウッド家は周辺の商業開発を進めたいと考えています」
レオナルドは立ち上がり、窓から見える街並みを指し示した。「見えますか?あの緑がかった水の流れる地域です。小規模な店が多く、観光客にも人気のある場所です」
「その翡翠水路での『市場巡りの旅』の実施は可能でしょうか?」ケンが提案した。「ちょうど記念祭に合わせて特別企画として実施できれば」
レオナルドは眉を上げた。「面白い発想です。しかし、そのためには両家の許可が必要になるでしょう」彼は考えを巡らせた後、決断したように言った。「両家に会ってみるべきです。私から紹介状を書きましょう。今日の午後、フォンターナ家とグリムウッド家を訪問してはどうですか?」
エリーナは即座に頷いた。「ぜひそうさせていただきたいです。スターリング様からの紹介状もございますので」
レオナルドはさらに二通の手紙を書き、自らの印章で封をした。「これで会えるでしょう。そして明日、ここで両家を交えた計画委員会を設定しましょう。『市場巡りの旅』についてさらに議論し、記念祭に向けた準備を進めるために」
「素晴らしい」トーマスが言った。「ご協力に感謝します」
「もう一つ」レオナルドはエリーナに向けて言った。「イザベラからの手紙によると、あなたはしばらくリバーデールに残り、商業ギルドの連絡窓口を担当するとのこと。その間は商業ギルドがしっかりサポートします」
「ありがとうございます」エリーナは丁寧に頭を下げた。「皆さんがドラコニア神聖国へ向かった後も、リバーデールとの関係強化に努めさせていただきます」
ケンは微笑んで言った。「私たちも約二週間ここに滞在し、『市場巡りの旅』の準備と実施をサポートします。その後ドラコニア神聖国の首都アルカディアに向かい、帰りにまたここに立ち寄る予定です」
会談を終え、一行は商業ギルド本部を後にした。エリーナは手に持った四通の手紙を見つめ、これからの挑戦に身が引き締まる思いだった。
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フォンターナ家の「青い館」は、リバーデールの運河沿いに建つ5階建ての壮麗な建物だった。青い大理石で装飾された外壁は水面に映り込み、まるで建物全体が水の中から浮かび上がってきたかのような印象を与えた。
玄関では執事が出迎え、レオナルドとウィリアムの紹介状を確認すると、彼らを広間へと案内した。内部は水の流れをモチーフにした彫刻や装飾で満ちており、どこからともなく水の音が響いていた。
「お待たせしました」
静かな声とともに現れたのは、ジュリアン・フォンターナだった。62歳の彼は、銀髪を優雅に後ろで結び、濃い青色の上品な服装をしていた。その眼差しには、長年の商人としての鋭さと品格が宿っていた。
「ミラベル町とドラコニア神聖国からのお客人とは珍しい」彼は穏やかに言った。「レオナルドの紹介状によれば、『市場巡りの旅』というコンセプトについて話し合いたいとのこと」
エリーナが丁寧に頭を下げて応えた。「はい、フォンターナ様。ミラベル町で成功している商業モデルをリバーデールにもご紹介したいと思い、お時間をいただきました」
彼女はウィリアムの手紙も差し出した。「また、ミラベル商人ギルドのウィリアム・スターリング様からの親書も預かっております」
ジュリアンの表情が和らいだ。「ウィリアムか。彼とは昔からの知り合いだ。かつて彼の父とは良い取引をさせてもらった」彼は丁重に手紙を開封し、目を通した後、ゆっくりと頷いた。
ケンがミラベル町での取り組みについて説明を始めると、部屋の奥のドアが開き、二人の男性が入ってきた。
「私の息子たちです」ジュリアンが紹介した。「長男のロレンツォと次男のアレッサンドロです」
長男ロレンツォは36歳で、父親そっくりの厳格な表情を持ち、伝統的な貴族風の服装をしていた。一方、33歳の次男アレッサンドロはより現代的な装いで、好奇心に満ちた目で一行を見ていた。
ケンが説明を終えると、ジュリアンは静かに椅子に座り直した。「興味深い取り組みですね。しかし、我が家は350年以上にわたり、伝統的な商業方法で繁栄してきました。なぜ今、変化が必要なのでしょうか?」
ロレンツォが同意するように頷いた。「商人は競争によって切磋琢磨するものです。協力は甘えを生むだけではないでしょうか」
エリーナは緊張しながらも、落ち着いた声で答えた。「フォンターナ商家のような名門が、伝統を重んじることは当然のことと存じます。しかし、『市場巡りの旅』は実は古来からある『祭市』の精神を現代に蘇らせたものなのです」
彼女はミラベル町の古い祭りの記録について語り、商人たちが協力して来訪者をもてなす伝統が、かつてはエルミナ王国全体に広がっていたことを説明した。
「水運業で栄えるフォンターナ家にとって、訪問者が増えることは直接的な利益になるのではないでしょうか」エリーナは丁寧に提案した。「特に200周年記念祭という特別な機会に、フォンターナ家の歴史と伝統を多くの人に知ってもらう絶好の機会になります」
アレッサンドロが興味を示して前のめりになった。「具体的にはどのような形で実施するお考えですか?」
「翡翠水路を中心にした試験的実施を考えています」ケンが答えた。「水路沿いの店を巡るツアーを企画し、各店の特色を活かした体験を提供するのです。記念祭の目玉企画として」
ジュリアンは指をからませて考え込んだ。「翡翠水路ですか…あの地域はグリムウッド家も利害関係を持っています。彼らはこの話にどう反応しましたか?」
「これからグリムウッド家を訪問する予定です」トーマスが答えた。
ジュリアンはゆっくりと頷いた。「わかりました。明日の計画委員会で改めて話しましょう。準備期間は短いですが、200周年記念祭に向けて考慮する価値はあります。ただ、グリムウッド家が関わるなら、我々も慎重に判断せざるを得ません」
会談を終えて外に出ると、アレッサンドロが彼らを追いかけてきた。「少しお話してもよろしいですか?」彼はケンたちに近づいて小声で言った。「実は私は『市場巡りの旅』のようなアイデアに強い関心があります。父や兄は伝統に縛られていますが、時代は変わりつつあります。明日の会議では、どうかあきらめないでください。記念祭まで時間は限られていますが、私たちの水運ネットワークを活用すれば、準備は十分に間に合うはずです」
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グリムウッド家の「森の館」は、リバーデールの丘の上に建つ木と石を組み合わせた独特の建物だった。内部に入ると、精巧な木彫りの装飾と、どこからともなく聞こえる時計の音が訪問者を迎えた。
オスカー・グリムウッドは54歳で、鋭い目と決断力を感じさせる態度が特徴的だった。彼は時間通りに現れ、効率的な挨拶を済ませると、すぐに本題に入った。
エリーナはレオナルドとウィリアムの紹介状を差し出した。「オスカー様、レオナルド様とミラベル商人ギルドのウィリアム・スターリング様からの親書をお持ちしました」
オスカーは素早く目を通し、特にウィリアムの手紙には少し長く目を留めた。「スターリングからの推薦とは珍しい」彼は少し驚いた様子で言った。「彼は目利きがいい。時間は限られていますので、要点を簡潔に説明してください」
ケンとエリーナは交互に『市場巡りの旅』の概念と効果について説明し、特に記念祭での実施が持つ意味を強調した。オスカーは時折メモを取りながら熱心に聞き入っていた。
説明が終わると、息子のフレデリック(29歳)と双子の娘たちクラリッサとコーネリア(共に23歳)が加わった。
「効率と利益の観点から見れば、確かに興味深いモデルです」オスカーは評価するように言った。「特に記念祭に合わせた特別企画として、顧客の滞在時間と満足度を高め、全体の消費を増やすという点は合理的です」
双子の一人クラリッサが質問した。「来訪者のデータはどのように収集し、分析していますか?」
もう一人のコーネリアも続けた。「そして、各店舗の特色をどのように調整しているのですか?重複を避ける仕組みが気になります」
エリーナとケンは質問に丁寧に答え、ミラベル町での具体的な事例を紹介した。グリムウッド家の面々は実務的な関心を示し、特に技術的な側面に興味を持っているようだった。
「翡翠水路での試験的実施を考えているとのこと」オスカーが言った。「あの地域はフォンターナ家も関与していますが、彼らの反応はどうでしたか?」
「彼らも検討すると言っていました」ソフィアが答えた。「特に記念祭に向けた準備という点では前向きな反応でした」
オスカーは腕を組んで考え込んだ。「フォンターナ家が参加するのであれば、我々も検討の余地はあります。彼らの水運と我々の技術を組み合わせれば、10日という短期間でも面白い結果が出るかもしれません」
双子のコーネリアが不満そうな表情で言った。「なぜフォンターナ家の判断を待つ必要があるのですか?我々から始めればいいのに」
「ビジネスは感情だけでは決められないのだよ」オスカーは娘に諭すように言った。「明日の計画委員会で改めて検討しましょう。そこでの議論を楽しみにしています」
会談を終えて外に出ると、フレデリックが彼らに声をかけた。「『市場巡りの旅』にぜひ時計技術を組み込みたいと思います。来訪者に小さな時計を持ってもらい、店を訪れるごとにスタンプを押す。そして全ての店を巡ると記念品がもらえる、というようなシステムはどうでしょうか」
「素晴らしいアイデアですね」ケンは目を輝かせて言った。
「明日の会議で提案してみます」フレデリックは笑顔で答えた。「父は頑固ですが、良いアイデアは認める人です。記念祭までの短期間で実現するために、我々の工房はフル稼働させることができますよ」
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翌日午後、リバーデール商業ギルド本部の大会議室に両家の代表者たちが集まった。長いテーブルの両端にはフォンターナ家とグリムウッド家が対峙するように座り、中央にレオナルドとケンたち一行が位置していた。
レオナルドが会議の開会を宣言した。「本日は『市場巡りの旅』の試験的実施について議論するために集まりました。特に創立200周年記念祭での目玉企画として検討したいと思います。まずはミラベル町からの使者に詳細を説明していただきましょう」
ケンとエリーナが改めて計画の概要を説明し、具体的な実施方法を提案した。翡翠水路を中心に、水路に面した店舗と周辺の工房を巡るツアーを組み、各店の特色を活かした体験を提供するというものだった。
説明が終わると、ジュリアン・フォンターナが口を開いた。「商人は競争によって磨かれるものです。協力というのは、本来の競争精神を弱めることにならないでしょうか」
オスカー・グリムウッドが反論した。「効率性を考えれば、一定の協力は論理的です。しかし、水運優先の計画では片手落ちになります。我々の技術や工房も同等に扱われるべきです」
議論はすぐに過熱し、古い確執が表面化し始めた。ロレンツォ・フォンターナとフレデリック・グリムウッドの間で言葉の応酬が始まり、会場の雰囲気は一気に緊張した。
「あなたの家族は常に我々の革新を妨げてきた」フレデリックが声を上げた。
「あなた方の『革新』とやらは、リバーデールの伝統を踏みにじるものだ」ロレンツォが返した。
レオナルドが間に入ろうとしたが、議論は制御不能になりつつあった。
エリーナは会場の緊張感の中で、心臓が激しく鼓動するのを感じていた。両家の対立が予想以上に深く、彼女の初めての特使任務が失敗に終わりそうな危機感が彼女を襲った。
「イザベラならこの状況をどう打開するだろう?」
その思いが頭をよぎった瞬間、エリーナは自分自身に問いかけた。イザベラの行動を真似るだけでは、真の解決にはならない。彼女はイザベラの出発前の言葉を思い出した。
「『イザベラならどうするか』と考えるのは簡単。でも、その先を見てほしい…なぜ私がそうするのか、その判断の裏にある原則は何か…」
エリーナは自分の内側を見つめ始めた。イザベラは常に相手の本当の欲求と、表面化していない共通点を見出すことで交渉を成功させてきた。彼女の真似をするのではなく、その原則を理解することが大切なのだ。
「私に何ができるだろう?イザベラには私にはない交渉力があるけれど…でも、私には私の強みがある」
彼女の心の中で、思考が整理されていった。「私の強みは…記録と言語、歴史の知識…」そして突然、答えが浮かんだ。彼女には両家について調べた歴史的記録があった。対立する両家の過去に、協力の事例を見出せるかもしれない。
「これが私の解決策。イザベラがここにいなくても、私には私なりの道がある」
彼女は震える手で文書ケースに手を伸ばした。「イザベラは私を信じてここに送ってくれた。彼女は私にこの状況が来ることを予測していたからこそ、『自分の直感と判断力を信じて』と言ったんだ」
勇気を出して立ち上がるまでの数秒間、彼女の心はさらに激しく鼓動した。「失敗したらどうしよう…」という恐怖が一瞬よぎったが、それを振り払った。「イザベラが私を選んだのは理由がある。私にも価値がある。私の判断を信じよう」
ケンは状況を見て立ち上がろうとし、同時にソフィアが資料を取り出し始め、ルーカスも不安そうな表情で身を乗り出した。三人とも、このままでは会議が台無しになると考えていた。
しかし、その瞬間、ケンはエリーナの表情の変化に気づいた。彼女は文書ケースを見つめ、何かを決意したような眼差しを向けていた。ケンは静かに手を伸ばし、ソフィアの腕に触れて彼女の動きを止めた。同時に、ルーカスに向かって小さく首を横に振った。
「待って」ケンは二人に向かって小声で言った。「エリーナさんに任せよう」
ソフィアは驚いた顔でケンを見たが、彼の確信に満ちた表情を見て静かに頷いた。ルーカスは不安そうに「でも...」と口を開きかけたが、ケンが再び首を振り、エリーナを見るよう目配せした。
彼らはエリーナを見た。彼女は深呼吸し、緊張で少し震える手で眼鏡を直していたが、その目には決意の光が宿っていた。
「彼女の瞬間だ」ケンは二人に向かって囁いた。「見守ろう」
一瞬の沈黙があり、エリーナが立ち上がった。
深呼吸し、彼女は声を振り絞った。「一言よろしいでしょうか」
議論が突然止み、全員の視線がエリーナに集まった。その重圧に一瞬たじろぎそうになったが、彼女の心はもう決めていた。これが彼女の瞬間、彼女の試練だった。
「私はこれまでリバーデールの商業史を研究してきました」彼女は眼鏡を直しながら言った。その声は最初こそ小さかったが、次第に力強さを増していった。「特に、両家の関係について調べていた時に興味深い記録を見つけました」
エリーナは文書ケースから古い羊皮紙を取り出した。「これは100年前の大洪水の際の記録です。この時、フォンターナ家とグリムウッド家は協力して街を救いました」
エリーナは記録の内容を読み上げ始めた。
「記録によりますと、100年前の大洪水は三日三晩続き、リバーデール史上最悪の災害となりました。第一日目の夜、フォンターナ家の当主ルチアーノが水運業で使用していた大型の平底船12隻を総動員し、水没した下町地区から住民を避難させました。しかし、船だけでは対応しきれない状況でした」
エリーナは古い羊皮紙をめくり、続けた。「その時、グリムウッド家の当主エドガーが工房の職人たちと共に、木製の仮設橋を一夜で建設したのです。フォンターナ家の代々受け継がれてきた水流読みの技術で最も安全なルートを選定し、グリムウッド家が当時開発中だった精密な『水位測定器』で刻々と変化する水位を監視しながら、住民2000人を安全に高台へ避難させました」
「第二日目には、フォンターナ家の高級染料製造に使用していた大きな貯蔵タンクを空にして、清潔な飲み水の供給に転用しました。一方、グリムウッド家は避難所となった丘の上に、組み立て式の木造建築技術を駆使して仮設住宅を夜通しで建設しました。この迅速な対応は後に『一夜の奇跡』と呼ばれるようになります」
「そして復興時には、フォンターナ家が水運ネットワークを活用して他の都市から資材や職人を船で運び、グリムウッド家が精密機械技術を応用した新しい建築工法と、洪水に強い街づくりの設計を提供しました。この協力により、リバーデールは以前よりも美しく、より災害に強い街として生まれ変わったのです」
エリーナは記録を閉じながら付け加えた。「記録の最後には、両家の当主が共同で植えた記念の樹のことが書かれています。『水と木が支え合うように、我らの家も永遠に協力し合わん』という誓いの言葉と共に。その樹は今でも商業ギルドの中庭に立っているそうです。そして、この協力の精神は、後に両家の寄付によって建設された『商人橋』にも受け継がれているのです」
さらに彼女はドラコニア古語で書かれた古い商業協定の一節を原語で引用した。「『水と木は相互に支え合い、商人の繁栄を約束する』」
エリーナは続けた。「この言葉は両家の創業者たちの共同宣言だったことをご存知でしょうか。彼らはかつて、互いの強みを理解し、尊重し合っていたのです」
会場は静まり返った。エリーナは少し勇気づけられて続けた。
「『市場巡りの旅』は競争を排除するものではありません。むしろ、共通の基盤があることで、各商人がより自分の強みを発揮できるのです。フォンターナ家の水運と美しい染料、グリムウッド家の精密技術と時計が、来訪者に異なる魅力を提供できます」
エリーナは具体的な例を挙げ始めた。「例えば、フォンターナ家の船で翡翠水路を巡り、グリムウッド家の時計でツアーの時間を管理する。各店で得られるスタンプを集めると、フォンターナ・ブルーで染められた布とグリムウッド家の小さな時計のセットがもらえる…」
彼女のアイデアが具体的になるにつれ、会場の雰囲気が変わり始めた。アレッサンドロ・フォンターナが立ち上がった。
「彼女の言う通りです。我々の祖先は対立だけでなく、協力の価値も知っていました。今こそ、その知恵を思い出すときではないでしょうか。特に200周年記念祭という特別な機会に」
グリムウッド家の双子の娘たちも賛同の声を上げ、コーネリアが具体的な提案を始めた。「私たちの精密時計技術を活かした案内システムを作れます。各店舗の位置と特徴を記した小型の機械式ガイドブックです」
クラリッサも続けた。「そして、来訪者のデータを分析することで、次の改善に活かすことができます」
長老たちは驚きながらも、若い世代の熱意に耳を傾け始めた。エリーナは最後に言った。
「両家が持つ伝統と革新の力を組み合わせることで、リバーデールの商業はさらに発展するでしょう。『市場巡りの旅』は、その第一歩に過ぎません。かつての創業者たちのように、互いの強みを活かし合う道を選んでみてはいかがでしょうか。特に200周年記念祭という特別な機会に」
一瞬の沈黙の後、ジュリアンとオスカーが顔を見合わせ、ゆっくりと頷き合った。
「若い人たちの意見を聞くべきかもしれんな」ジュリアンが言った。
「確かに、協力することで新たな可能性が生まれるかもしれない」オスカーも同意した。「記念祭までの期間は短いが、我々の資源を集中させれば実現可能だ」
レオナルドが再び司会を引き継ぎ、妥協案を提案した。「翡翠水路での試験的実施を行い、両家の代表者を計画委員会として任命してはどうでしょうか。『翡翠水路の宝探し』という企画名でいかがでしょう」
会議は具体的な計画の検討へと進み、フォンターナ家からはアレッサンドロ、グリムウッド家からはコーネリアが委員となることが決まった。そして「翡翠水路の宝探し」という名前で、10日後の商業ギルド創立200周年記念祭で試験的な「市場巡りの旅」を実施することが正式に決定した。
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会議後、レオナルドはエリーナに近づいてきた。「見事な交渉でした、レッドフィールドさん。両家をここまで協力させるのは至難の業です。イザベラ・フォーサイスは優秀な使者を送ってくれました」
エリーナの頬が赤く染まった。「ありがとうございます。まだまだ学ぶことばかりですが」
フォンターナ家のアレッサンドロが彼女に小さな包みを手渡した。「感謝の印です」彼が言った。中を開けると、フォンターナ・ブルーで染められた上質な布の小片が入っていた。「我が家では特別な取引相手にのみ贈るものです」
グリムウッド家の双子も興味津々で彼女に声をかけ、「計画委員会で一緒に働くのが楽しみです」と言った。
宿に戻る道すがら、ケンとソフィアはエリーナの活躍を称えた。
「素晴らしかったよ、エリーナさん」ケンは心から言った。「あなたの言葉がなければ、あの会議は決裂していたかもしれない」
「ありがとうございます」エリーナは小さく微笑んだ。「でも、これは皆さんのおかげです」
トーマスが穏やかに言った。「この10日間で『翡翠水路の宝探し』を成功させ、その後、私たちはドラコニア神聖国へ向かいます。エリーナさんはここに残り、商業ギルドとの関係強化を続けてください」
エリーナは決意を込めて頷いた。「はい。みなさんがアルカディアから戻ってくるまでに、リバーデールとミラベル町の強固な商業関係を築いておきます」
彼女は心の中でイザベラに感謝していた。単なる「イザベラのコピー」になるのではなく、自分自身の判断で行動することの大切さを教えてくれたのだ。
その夜、エリーナは宿の窓辺に立ち、リバーデールの水路に映る月明かりを見つめながら日記を書いた。
「今日、私は初めて『イザベラのコピー』ではなく、エリーナ・レッドフィールドとして行動した。恐怖で足がすくみ、『イザベラなら』と考えた瞬間、彼女の本当の教えを思い出した。困難な状況を予測し、私に『自分自身の直感と判断力を信じて』と言っていたのは、まさにこの瞬間のためだったのだと気づいた。
私は自分の強み——言語能力と歴史への関心——を活かして、両家の間に橋を架けることができた。自分の考えを信じ、立ち上がる勇気を持てたのは、イザベラが私を信じてくれていたから。私がリバーデールに残りみなさんがアルカディアに向かう間も、この経験を活かして商業関係の強化に努めよう。この旅が終わる頃には、もっと強く、もっと自分自身になっているだろう。そして、より価値のある助手になれるはず」
彼女は日記を閉じ、満足気に微笑んだ。明日からは「翡翠水路の宝探し」の準備が始まる。彼女の成長の旅はまだ始まったばかりだった。