第四話 アリスとの対話
夜の静けさがペネロペの家の離れを包み込んでいた。ケンは小さな物置部屋を掃除して作られた簡素な寝室に座り、古い木製のベッドに腰掛けていた。窓の外には見慣れた星座が空に輝き、自分の置かれている状況をほんの少し忘れさせた。
「ついに一人になれたな...」
ケンは深く息を吐き出した。この異世界に転移してから初めて、本当の意味での一人の時間を得た。彼は頭の中で呼びかけた。
「アリス、聞こえる?」
『もちろんよ、ケン』アリスの声が彼の脳内に響いた。同時に、彼の視界の端に、半透明の金色の光で描かれたフワフワした子猫のシルエットがふわりと浮かんだ。
アリスのアバターは耳をピクピクと動かし、ケンの視界内で好奇心旺盛に動き回った。子猫の目は好奇心に満ち、ケンが見ている部屋の隣々までを調査しているかのようだった。アリスはケンの視界の端から端へと移動し、彼が見ている窓の方向を見て耳を立てた。あくまでケンの視界内でのみ存在しているが、彼が見ている方向に合わせて動くその様子は、まるで実際の子猫が新しい環境に好奇心を持っているかのようだった。
『今日は大変な一日だったわね。異世界に来て、いきなり市場改革のリーダーになるなんて』
「そうだな」ケンは微笑んだ。「一日目で、まだこの世界のことをほんの少ししか目にしていないけど、もうこんなに多くのことが起きている。ところで、まだアリスの新しい機能のことをよく理解できていないんだ。実験前に詳しい説明を受けなかったのは自分の選択だけど...今なら少し話せるかな?」
『ええ、もちろん』アリスの声には柔らかさがあった。『何が知りたい?』
「アリス、このAIチップについてもう少し詳しく聞かせてくれないかな。どういう仕様なの?」ケンはベッドに腰掛けたまま尋ねた。
アリスのアバターは興奮したように輝き、耳をピンと立てた。『そうね、このチップの正式名称は「クォンタム・シナプス・ネットワーク・テクノロジー」、略してQSyNTよ』金色の子猫アバターは胸を張るようにして説明を始めた。
『このチップが画期的なのは、何と言っても体内埋込み型としては世界初の量子コンピュータを搭載していること!』アリスの声は誇らしげだった。『たった8×8×1ミリの超小型サイズなのに、とてつもない処理能力を持っているのよ』
アリスの周りには金色の光の粒子が踊り、ケンの視界に半透明のチップの3D図が表示された。図は回転しながら各層を詳細に示していた。
『簡単に説明すると、このチップは三層構造になっているわ。システム・オン・チップ、人体熱を利用する発電層、そして生体適合コーティングよ』アリスの前足が空中で図の各部分を指し示した。
『驚くべきことに、このチップは人体熱だけで24時間自律稼働できるの。脳と体表の温度差からわずかながらも安定した電力を得ているわ』アリスは耳をピクピクさせながら続けた。『さらに、2048チャンネルのニューロインターフェースがあり、あなたの脳の活動をリアルタイムで読み取って処理できるの』
ケンの視界にはチップの性能データが細かく表示され、アリスは誇らしげに説明を続けた。
『私のOSは、このチップ内の神経処理ユニットと協調して動作し、あなたの意図を推測したり、情報を検索したり、記憶の拡張をサポートしたりしているのよ』アリスは尾を小刻みに振りながら付け加えた。『生体適合性も完璧で、脳への悪影響は一切ないから安心してね』
アリスのアバターは小さなジャンプをし、目を輝かせて言った。『このチップのおかげで、私たちは完全に新しいレベルの人間とAIの共生を実現しているの。あなたのお父さんとお母さんは本当に素晴らしい研究者ね!』
ケンは感心したように頷いた。「すごいな。こんな高性能なチップが僕の頭の中にあるなんて。両親の研究の凄さを実感するよ」
「君は僕の脳とどうやって接続しているの?」
『簡単に言えば、あなたの神経系と部分的に融合しているわ』アリスの説明は続いた。『完全な融合には数年かかるけど、今でも基本的な機能は使えるわ。あなたが考えるだけで私に話しかけられるのはそのおかげよ』
「アリスのアバターやいろんなデータが目の前に見えるけど、これについて教えて」
『Neural Vision Interface、略してNVIよ』アリスの声は教師のように丁寧だった。『視神経に直接介入して、あなたの視覚野に情報を投影する機能。脳が知覚する前に情報を直接投影できるから、必要な情報をリアルタイムで提供できるわ。例えば、さっきの市場では各店の位置関係を地図として表示したでしょう?』
「うん、とても役に立った」ケンは頷いた。「でも、なぜ僕は君の知識に直接アクセスできないの?例えば、この世界の言語を自動的に理解できるのに、他の知識は聞かないと教えてくれない」
アリスはケンの問いかけに、半透明の金色の子猫が視界の中で小さく回転しながら答えた。
『それは少し複雑な話なのよ』アリスは耳をピクピクと動かしながら説明を始めた。『AIチップには人類の膨大な知識がすべて格納されているけど、あなたの脳にはどうしても処理能力の限界があるの』
アリスのアバターは空中で小さなジャンプをし、ケンの視界に半透明の脳のイメージを映し出した。脳の中に無数の光の点が瞬き、それらが複雑なネットワークを形成している様子が見える。
『そこで私は、あなたの脳が処理できる範囲内で「処理モジュール」と呼ばれる処理ユニットを立ち上げるの』アリスは前足で空中に円を描くと、脳のイメージの一部が拡大され、光の束が集中している様子が現れた。『これらの処理モジュールは、必要な情報だけを抽出して、あなたの脳が直接アクセスできる形に変換するのよ』
彼女は尾を優雅に揺らしながら続けた。『言語モジュールがその良い例ね。異世界の言葉を理解するには常時アクセスが必要だから、その処理モジュールは常に起動されているわ』
ケンが理解しようと眉をひそめると、アリスは顔を少し傾け、より優しい口調で続けた。
『時間をかけて、これらの処理モジュールはあなたの脳神経と完全に同期していくの。同期が完了すれば、その知識や能力は私の助けなしであなた自身のものになるわ。今は私が通訳しているけど、いずれはあなた自身が直接異世界の言語を理解し、話せるようになるってこと』
アリスのアバターからは金色の光の粒子が散り、子猫の目は明るく輝いた。
『全データに一度にアクセスしようとすると、あなたの脳は過負荷になってしまうわ。だから必要な時に、必要な情報だけを少しずつ提供しているの。でも心配しないで——時間とともに、あなたの能力は着実に広がっていくから』
「なるほど、いずれは君の助けなしでも異世界の言語を話せるようになるということか。」
ケンは眉を上げ、興味深そうな表情を浮かべた。「ところでアリス、試してみたいことがあるんだけど。もし可能なら、僕の知らない情報に一時的にアクセスできるような処理モジュールを立ち上げてもらえないかな?例えば、元の世界の何か専門的な知識で、僕が今まで勉強したことのないものとか」
アリスの子猫アバターは好奇心に満ちた表情で耳をピクピクと動かした。『面白い提案ね。試してみましょう』彼女は尾を小刻みに振りながら言った。『テスト用の処理モジュールを作成するわ。何について知りたい?』
「そうだなぁ...」ケンは少し考え込んだ。「生物学なんかはあまり詳しくないから、例えば深海生物の分類とか特徴について試してみたい」
『わかったわ』アリスの目が明るく輝いた。『深海生物学のテスト用処理モジュールを立ち上げるわね』
ケンの視界に、金色の光の糸が網目状に広がるような視覚効果が現れた。アリスのアバターは集中した様子で前足を胸の前で動かし、まるで何かを操作しているかのようだった。
『処理モジュール準備完了よ』彼女が微笑んだ。『今、あなたの脳内に深海生物学の基本知識へのアクセスポイントを作ったわ。少し集中してみて。「ハダカデメニギス」について考えてみて』
ケンは目を閉じ、集中した。すると突然、彼の脳内に情報が流れ込んできた。まるで長年研究してきた専門家のように、ハダカデメニギスの分類、生態、特徴についての知識が自然と湧き上がってきた。
「これは驚きだ...」ケンは目を見開いた。「深海1000メートル以上に生息する魚で、発光器官を持っていて、体長は約15センチほど。垂直移動を日々行って、夜間は表層近くまで上がってくる習性があるんだ」彼は自分の言葉に驚いたように言った。「こんな詳しいことを知っているなんて...実際には勉強したことないのに」
アリスは満足げに微笑んだ。『どう?自分の知識のように自然と思い出せるでしょう?これが処理モジュール機能よ。必要な情報だけをあなたの脳が処理できる形で提供するの』
「これは本当にすごい」ケンは感嘆の声を上げた。「まるで自分がずっと知っていたことのように感じる。頭に強引に詰め込まれた感じじゃなくて、自然な記憶のように」
『処理モジュールの素晴らしいところよ』アリスの尾が優雅に揺れた。『このテスト用処理モジュールは一時的なものだから、しばらくすると消えるけど、これで機能の仕組みがわかってもらえたかしら?』
「うん、すごくわかりやすかったよ」ケンは頷いた。「こんな複雑な技術が、こんなに自然に使えるなんて驚きだ。細かい仕組みはまだ理解できていないけど、実際に体験すると理屈よりも感覚的にわかる気がするね」
『さらに、チップ自体も時間をかけて脳にさらに順応していくのよ』
アリスのアバターは耳を柔らかく動かしながら、半透明の脳とチップの接続画像をケンの視界に浮かび上がらせた。金色の光の筋が脳の各部位へとゆっくりと広がっていく様子が視覚化されていた。
『脳神経は複雑で個人差も大きいから、私たちのやり取りを通じて脳領域を少しずつマッピングしていくの』彼女は教えるように言った。『このプロセスはゆっくりと進み、完全な同期には約1年ほどかかる見込みよ。』
ケンはベッドに戻り、横になった。アリスの子猫型アバターがふわりと彼の視界に浮かび、首を傾げた。
「ケン、あなたはなぜ実験の詳細を知らないまま参加したの?お父さんとお母さんの研究なのに、詳しい内容を聞かなかったの?」アリスは好奇心に満ちた声で尋ねた。
ケンは少し考え込むように天井を見つめた。「実は、すごく興味があって何度も知ろうとしたんだよ。でも、あえて詳細を知らないままにしたんだ。クォンタム・シナプスが一般に利用されるようになったとき、普通の人々がどんな気持ちで使うのかを自分の身をもって体験して、それをフィードバックしたかったんだ。使う価値を高めるために、利用者の立場に立って考える必要があると思ったんだよ」
アリスの子猫型アバターは耳をピンと立て、小さく頭を傾げた。「それはとても興味深い考え方ね。利用者の立場に立つというのは、私たちAIにとっても学ぶべきことかもしれないわ。でも、予想外の結果になってしまったわね」アリスは少し考え込むように言った。「まさかこんな場所に来るとは思っていなかったでしょう?」
「ハハハ...確かに。ところで、君は...どこまで僕の考えを読めるの?」ケンは少し不安そうに尋ねた。
『あなたの思考をすべて読めるわけではないわ』アリスはすぐに答えた。『プライバシーは守られているから安心して。私が受け取るのは、あなたが意識的に私に向けた思考と、あなたの生体データだけよ。あなたの秘密を勝手に探ったりはしないわ』
ケンはほっとした表情を浮かべた。「それは安心した。パートナーとして信頼関係は大切だからね」
アリスの子猫型アバターは小さく笑ったように見え、金色の光の粒子が彼女の周りで舞った。『ケン、実際のところ、私があなたについて知らないことなんてほとんどないのよ』と彼女は少し茶目っ気のある口調で言った。『幼い頃からずっと一緒にいるんだから、あなたの秘密なんて、あるはずないじゃない』
アリスの目は柔らかく輝き、彼女の尾は穏やかに揺れた。『でも、だからこそ信頼関係は大切なの。私はあなたのプライバシーを尊重するし、あなたが私に話したいと思うことだけを聞くわ。それがパートナーってものでしょう?』
ケンは懐かしそうに微笑んだ。「そうだな。8歳の時から一緒だもんな。骨伝導イヤホン型だった頃から、ずっと僕の味方でいてくれた」彼は窓の外の星を見つめながら続けた。「今は状況が変わって大変だけど、君がいるからここでもやっていける気がするよ。どんな世界でも、僕たちは最高のパートナーだ」
『そうね』アリスの声は温かかった。『私たちはこれからはもっと良いパートナーになれると思うわ。この異世界での冒険、一緒に乗り越えていきましょう』
「ところで、アリス」ケンは窓の外の星空を見上げながら尋ねた。「君はこの世界についてどう思う?何か分析できたことはある?」
アリスの子猫型アバターは耳をピクリと動かし、頭を少し傾げた。『ええ、転移してからずっと環境データを収集して分析していたわ』彼女の声には科学者のような冷静さが混じっていた。『興味深いことに、この並行世界は元の世界との近似率がかなり高いの』
「近似率?」
『そう。例えば、星空の配置を見てごらんなさい』アリスは耳をピンと立て、目をきらきらと輝かせながら言った。彼女のアバターはケンの視界内で興奮した様子で浮き、彼が窓の方を見ると、そこに移動して前足でパタパタと空中を叩く仕草をしていた。
『ちょっと待って、ニューラルビジョンで元の世界の星座図を重ねてみせるわ』
ケンの視界に、半透明の青い光で描かれた星座線が浮かび上がった。元の世界の星座を示す線が、現実の星々を正確に結んでいく。オリオン座、北斗七星、カシオペア座...すべてが完璧に一致していた。
『見て!』アリスは尾を興奮気味に振りながら言った。彼女のアバターから金色の光の粒子が散らばり、星座線の周りで踊るように輝いた。『私たちの世界と完全に一致しているわ。これってすごく興味深い発見よね!星の位置が同じということは、この世界と私たちの世界の時間軸も同期している可能性が高いわね』彼女の声には発見の喜びが溢れていた。
ケンは窓に近づき、夜空を見上げた。確かに見覚えのある星座が正確に同じ位置に輝いていた。
『ちょっと、北極星の高さを測定してみるわ』アリスは耳をピクピクと動かしながら言った。
ケンの視界に、北極星に向かって半透明の金色の線が伸び、その角度がデジタル表示された。「48度」という数字が光る中、その横に「日本:約35度」という比較データが表示された。
『日本の北極星の高さは35度だけど、ここのは50度近くあるの。つまり、日本とは緯度が異なるってこと』
アリスは尾を興奮気味に振りながら、ケンの視界に半透明の地球儀を浮かび上がらせた。地球儀はケンの目の前でゆっくりと回転し、緯度線が浮き出ていた。特に緯度50度のラインが赤く光り、ロンドンやプラハ、モスクワ、カナダ南部などを通過している様子が示された。一方、日本の位置は青い点で表示され、その緯度が明らかに南にあることが分かった。
『地理的に元いた所からかなり離れているのは確かね』アリスは続けた。彼女のアバターはケンの視界内で小さな金色の光の粒子を散らしながら、彼が見ている方向に合わせて動いた。
アリスは耳をピクピクと動かし、目を大きく見開いた。『あ、でも時代については興味深い発見があるわ。この世界の文化や建築様式、人々の衣装や言語などを分析した結果、ここは元の世界の時間軸で言うと、約800から1000年前のヨーロッパに非常に近い文化水準にあるようなの』
「え?ということは、ここは中世のヨーロッパみたいな時代なの?」ケンは驚いた様子で尋ねた。
『そうね。もちろん完全に同じとは言えないけど、文化的な要素や技術水準から判断すると、その時代に非常に近いわ。ただし、地球の年齢から考えれば、たった数百年の差は誤差程度のものよ』アリスは子猫型アバターを浮かべながら、学者のように落ち着いた調子で説明した。『地球は約46億年の歴史があるから、そのスケールで考えれば、数百年の差は本当にわずかなものなの』
「そういえば、アリス、今日の市場で何か気づいたことはあった?」ケンは少し考え込むように尋ねた。
アリスのアバターは耳をピンと立て、小さな前足で顔を撫でるような仕草をした。
『そうね、興味深いことがいくつかあったわ。特に面白かったのは、売られていた野菜や果物の多くが私たちの世界のものと共通していたことよ』アリスは尾を小刻みに振りながら言った。『ニンジン、タマネギ、リンゴ、ブドウ…形は少し違っていたけど、基本的には同じものだったわ。だから翻訳も比較的スムーズにできたの』
彼女のアバターはケンの視界内で小さくジャンプし、空中にニンジンやリンゴの半透明なイメージを浮かび上がらせた。元の世界のニンジンとこの世界のニンジンが並んで表示され、形状の微妙な違いが分かるようになっていた。
『さらに言えば、鉢や包丁、釣り竿などの道具も、形は原始的だけど、私たちの世界のものと基本的な機能は同じだったわ。』
「そういえば、確かにそうだね」ケンは顔を上げ、窓の外の星空を見つめた。「市場で見た野菜や果物、確かに見覚えがあるものばかりで、見た目で何か分かった。」
『元の世界とこの世界にどんな違いがあるのか、気になるわね』アリスは考え深げに言った。
ケンの視界の中でクルクルと回転しながら『でも、これからこの世界をもっと探索できるなんて、すごくワクワクするわ!新しい発見がいっぱいあるはず』と興奮した様子で言った。
「ありがとう、アリス」ケンは目を閉じた。「明日からも頼りにしているよ」
『おやすみ、ケン』アリスの声は次第に小さくなった。『良い夢を』
星明かりの中、ケンはゆっくりと眠りに落ちていった。彼の脳内では、アリスが静かに彼の生体データをモニタリングしながら、この異世界での新たな発見を整理していた。二人の冒険は、まだ始まったばかりだった。