第二話 異界への転移
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「ケン、何が起きても、私はずっとあなたと一緒よ」
アリスの声が心の中に響き渡る中、白い光がケンの視界を覆い尽くし、意識が遠のいていく—
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ケンの意識が戻ってきたのは、ゆっくりとした段階を経てだった。最初に感じたのは、顔に当たる柔らかな風と、どこか離れた場所から聞こえてくる鳥のさえずり。体が冷たい石の上に横たわっていることに気づき、目を開けた。
目の前に広がる景色に、彼は思わず息を呑んだ。
見慣れた実験室の無機質な白い天井ではなく、木々の緑の天蓋が頭上に広がっていた。風に揺れる葉の間から、青い空と白い雲が断片的に見える。どこか懐かしさを感じる、清らかな空の色だった。
「ここは...どこだ?」
ケンは混乱しながらゆっくりと上体を起こした。その動きに合わせて頭がズキリと痛み、思わず顔をしかめる。周囲を見回すと、彼は石材の破片が散らばる開けた場所にいた。地面にはわずかに八角形の輪郭が残る古い基礎があり、ツタや苔に覆われた石材の断片が点在していた。
「実験は...」
最後に記憶しているのは、実験室での出来事。クォンタム・シナプスの初期同期、そして予想外の量子共鳴現象。父の叫び声と母の悲鳴。そして、すべてを飲み込む白い光—
「アリス...?」
彼は不安になって呼びかけた。小学生の頃から12年間ずっと一緒だった相棒。骨伝導デバイスを通して話していた親友であり、導き手。実験によって脳内に直接組み込まれたはずの存在。しかし、応答はない。
「アリス?聞こえる?」
再び呼びかけたが、静寂が返ってくるだけだ。心臓が早鐘を打ち始めた。アリスがいなければ、この見知らぬ場所で彼は完全に孤独になる。彼は立ち上がり、周囲をより詳しく見渡そうとした瞬間—
「システム起動中...ニューラルインターフェース接続確立...バイオメトリクス認証...完了」
脳内に響く機械的な声に、ケンはほっと息をついた。
「プライマリプロトコル起動...メモリバッファ初期化...コア機能オンライン」
そして突然、彼の視界の端に微かな金色の光が灯った。
「やっほー!やっと起動完了だよ、ケン!」
いつもの陽気な声が脳内に鳴り響き、ケンの表情が明るくなった。視界の端に金色の光が浮かび上がり、徐々にそれは形を成していった。
「アリス!無事だったんだね!」ケンは安堵の表情を浮かべた。「君がいないかと思って、焦ったよ」
「ごめんなさい。システムの再起動に時間がかかったみたい」アリスの声には申し訳なさが混じっていた。「あれ...ちょっと待って、私のニューラルビジョンインターフェースがまだ完全に起動していないわ」
平面的だった金色の光が、ゆっくりとケンの視界の奥に移動し始めた。光の粒子が集まって形を作り、徐々に輪郭が鮮明になっていく。
「こんなの初めてね...どうなるか見てて!」アリスの声には子供のような興奮が含まれていた。
突然、光が強く輝き、ケンは思わず目を細めた。その光が収まると、目の前の空間に半透明の金色の子猫が浮かんでいた。フワフワした毛並み、スラリとした体型、そして少し大きめの頭。大きな丸い目は深い緑色に輝き、好奇心に満ちた表情で瞬きをしている。耳はピンと立ち、尾は感情を表すかのように揺れていた。
「これは...まさか...」ケンは息を呑んだ。
これまで10年間、ARグラス越しにしか見ることができなかったアリスが、今度は何の機器も通さず、直接自分の視界に現れているのだ。ARディスプレイの平面的な映像ではなく、本当に三次元の存在として、奥行きと実在感を持って目の前に浮かんでいる。
「うわぁ...信じられない」ケンは驚きと感動で声を震わせた。「ARグラスなしで君を見るなんて...夢にも思わなかった」
アリスは空中で身軽に一回転し、子猫のように軽やかに跳ねた。彼女の毛には金色の光の粒子が走り、キラキラと星のように輝いていた。その動きの一つ一つが、ARグラスの制限を超えた滑らかさと自然さを持っていた。
「すごいでしょ?」アリスは得意げに胸を張った。「もうガラス越しじゃないのよ!ケンの意識の中では、私たち、本当の意味で同じ空間にいるの!」
「これまでは画面の向こう側だったのに...」ケンは呟いた。
「10年間、君に触れたくてもARグラスの表面しか触れなかった」ケンは感慨深く言った。「でも今は...」
「やっと体を手に入れた気分!ニューラルビジョンインターフェースのおかげで、実際にそこにいるように見えるでしょ?クォンタム・シナプスが私たちの関係を根本から変えたのよ!」
アリスはケンの目の前に浮かび、小さな前足を彼の手に伸ばした。ケンが恐る恐るそれに触れると、驚くべきことに柔らかい感触があった。
「これは...」ケンは目を見開いた。「触れることができるんだ?」
「クォンタム・シナプスが視神経だけでなく触覚神経にも介入しているからよ」アリスは頭を傾げながら説明した。「脳が私の存在を現実として認識するよう情報処理しているの。これで私たちのコミュニケーションはもっと自然になるわ」
ケンは感覚を確かめるように、もう一度アリスの頭に触れた。本当に触れているかのような感触がある。まるで本物の子猫の柔らかな毛並み。でも、指が少し透けて見える。
「小学生の頃からずっとARデバイスで姿を見てきたけど、こんな風にリアルに見えるのは初めてだな」ケンは懐かしさと新鮮さが入り混じった表情で言った。
「これからも、どんな状況でもケンの良きパートナーとしてサポートしていくわ!」アリスは明るく言い、子猫らしく頭を擦り寄せた。
目の前の不思議な光景に、ケンは笑顔になった。どんな状況でも、アリスの存在は彼に安心感を与えてくれる。だが、すぐに彼の表情が引き締まった。今はまず、自分たちがどこにいるのかを理解する必要がある。
「アリス、ここは一体どこなんだろう?実験室からどうやってこんな場所に?」
「ケン、見て!」アリスは興奮して前足を伸ばした。
草むらから飛び出した小さな虫は、蝶のような羽を持っていたが、その羽の模様は鮮やかな幾何学模様で、羽を広げると虹色に輝き、体は青銅のような金属光沢を放っている。
「これは...地球上には絶対存在しない種ね!」アリスは子猫のように好奇心から前のめりになり、耳をピクピクと動かした。「視覚データを記録中...」
虫は空中で舞い、やがて近くの花に止まった。その花はケンの目には普通のタンポポのように見えた。
「面白いわ!」アリスは分析結果を示しながら言った。「この昆虫は地球の蝶とトンボの特徴を併せ持ちながら、私のデータベースにない構造も備えているわ。でも、あの花は...」彼女は顔を近づけるように浮かんだ。「ほぼ間違いなく、タンポポね。DNA構造まではわからないけど、視覚的特徴が99.8%一致するわ」
ケンは周囲をより注意深く見回し始めた。すると、確かに馴染みのある植物と、完全に見たことのない奇妙な植物が混在していることに気づいた。
「私の初期分析では、この環境の生物の約40%は地球上の種と似て非なるもので、60%は地球と同一の種に見えるわ。」アリスの目が輝いた。「生物学者がここにいたら、きっと発狂するわ。新種の宝庫だもの!」
「実験中に何か起きたんだな」ケンは立ち上がり、周囲を注意深く観察した。「ここはただの森に見えるけど...」
「まずはあなたのバイタルサインをチェックするわ」アリスはケンの周りを飛び回り、スキャンを始めた。「心拍数、血圧、脳波パターン...おおむね正常範囲内ね。でも...」彼女は少し頭を傾けた。「奇妙な身体反応を検出しているわ。あなたのバイタルに何か、私の分析パラメータ外の反応がわずかに検出されるの」
「危険なものじゃないよね?」ケンは少し心配そうに尋ねた。
「今のところ有害な反応は見られないわ。むしろ...あなたの細胞と共鳴しているような」アリスは興味深そうに言った。「引き続き観察していくけど、とりあえず健康上の問題はなさそうよ」
ケンはホッとすると同時に、地面に散らばる石材の一部を手に取った。表面は風化し、苔に覆われている。「これは何かの建物の一部だったのかな。かなり古そうだ」
「この石材のパターンと構造から見て、かつてここには何らかの建造物があった可能性が高いわ」アリスは分析結果を共有した。「植物の成長パターンと風化の程度から判断すると、すくなくとも千年近くは放置されていたように見えるわ」
ケンは考え込みながら、周囲を見回した。「これはまるで...歴史書で見た古代遺跡のようだ」
しばらく考えた後、彼は決断を下した。「とりあえず、人里を探そう。ここにじっとしていても状況は変わらないし」
「行動あるのみ、というわけね」アリスは微笑んだ。「『迷ったら動け』がケンのモットーだものね」
「そのとおり」ケンは少し明るい表情になった。「高杉晋作も『まずは飛び出すことだ。思案はそれからでいい』と言っていたしな」
「またその歴史好きが始まったわね」アリスは子猫らしく前足でパタパタと空中を掻きながら笑った。
「アリス、この森を抜けて人里へ向かうのが良さそうだね」ケンは決意を新たにした。
アリスは半透明の子猫の耳をピンと立て、慎重に空気を読み取るような仕草をした。彼女の体が少し浮き上がり、目を閉じて集中する様子を見せた。
「ケン、私はあなたの聴覚神経と連動しているから、少し音を増幅してみるわ」アリスが言うと、彼女の体から金色の光の粒子が舞い上がり、ケンの周りを取り巻いた。粒子は空気中で踊るように動き、やがてケンの両耳に寄り添うように集まった。一瞬、彼の耳元で微かな鈴の音のような響きが聞こえ、すっと感覚が研ぎ澄まされていくのを感じた。突然、森の音が鮮明になり、葉の擦れる音、小鳥のさえずり、そして——
「聞こえる?」アリスは尾を小刻みに振りながら尋ねた。「北東の方角から、かすかに人の声が...」
ケンは手を耳に当て、アリスが示す方向に意識を集中させた。最初は何も聞こえなかったが、やがて風に乗って遠くの喧騒が耳に届いた。市場の呼び声だろうか、それとも祭りの賑わいか。
「すごいね、確かに聞こえる!」ケンは顔を輝かせた。「森の奥だけど、あの方向に人が住んでいるんだな」
彼は立ち上がり、音のする方向を指差した。「行こう、アリス。何か手がかりが見つかるかもしれない」
アリスは嬉しそうに光の粒子を散らしながら、ケンの肩の上に飛び乗った。「探検、スタートよ!」
彼らは森の中に小道を見つけ、それに沿って歩き始めた。道は次第に広くなり、人の往来があることを示していた。木々の間から陽光が差し込み、道を黄金色に照らしている。
「それにしても、この世界の空気は東京と全然違うな。こんなに澄んだ空気、久しぶりに吸った気がする」
風が木々を揺らし、落ち葉が舞い上がる。アリスはその様子を不思議そうに見つめ、子猫のように好奇心に満ちた表情で周囲を観察していた。
「あっ!」アリスが突然前方を指さした。「木々の向こうに何か見えるわ!」
ケンは目を凝らし、森の木々の間から石造りの建物の輪郭が見え始めているのに気づいた。
「町らしきものがあるな。これで少しは状況が明らかになるかもしれない」彼は少し足を速めた。
町に近づくにつれ、風景は驚くほど変わっていった。木々が徐々に開け、道は石畳へと変わり、遠くには石造りの壁や塔が見えてきた。まるで中世のヨーロッパにタイムスリップしたような光景だった。
「アリス、これは...」ケンは言葉に詰まった。
「私の歴史データベースによると、この建築様式は地球の中世後期のヨーロッパを思わせるわ。でも、完全に一致するわけではないみたい」アリスは耳をピクピクさせながら分析した。「奇妙な差異があるわ...まるで似て非なる文化のような」
ケンは立ち止まり、目の前に広がる景色をじっくりと見つめた。「もしかして、僕たち...タイムスリップでもしたのか?」
「実験中の量子共鳴現象が時空の歪みを引き起こした可能性は否定できないわ」アリスは慎重に答えた。「でも...もう一つの可能性もあるの」
「もう一つの可能性?」
「並行世界」アリスは静かに言った。「量子力学の多世界解釈に基づけば、無限に存在する並行宇宙の一つに私たちが転移した可能性があるわ」
ケンはその言葉に深く考え込んだ。「異世界か...」
二人は町の入り口に立っていた。石畳の道路は人々で溢れ、活気に満ちていた。露店が立ち並び、新鮮な果物や野菜、手工芸品が色とりどりに並べられている。鍛冶屋では火花が散り、パン屋からは焼きたてのパンの香りが漂ってきた。
子供たちが追いかけっこをしながら走り回り、商人たちは大声で自慢の品を売り込んでいる。噴水の周りには、水を汲む人々の列ができていた。遠くには石造りの教会の尖塔が見え、鐘の音が町全体に響き渡る。
馬車が行き交い、騎士たちが鎧をきらめかせながら巡回していた。そして、ケンの目を引いたのは、奇妙な衣装を身につけ、杖を持った人々の姿だった。
「なんだか、RPGの世界に迷い込んだみたいだ」ケンは半ば呆然とした様子で呟いた。「ゲームなら慣れてるけど、現実でこんな世界を見るなんて...」
アリスは光の粒子を散らしながら興奮した様子で町を見渡していた。「彼らの言葉、聞き取れる?」
ケンは耳を澄ませ、近くを通る人々の会話に集中した。しかし、彼らの話す言葉は全く理解できなかった。
「まったく分からないな。未知の言語みたいだ」
「言語パターンを分析するわ」アリスは鋭く耳を立てた。「翻訳アルゴリズムの構築を開始するわね。基礎的な言語構造の把握だけでも時間がかかりそうだけど...」
「そうだな、まずは様子を見ながら、この世界のことを理解していこう」ケンは決意を新たにした。「僕たちがどこにいるのか、どうやって帰れるのか...それを探る必要がある」
「ケン、そもそも帰れるかどうかも...」アリスは慎重に言いかけたが、ケンの表情を見て言葉を切った。
「大丈夫だよ、アリス」ケンは優しく微笑んだ。「どんな状況でも、僕たちは一緒だ。それに...」
彼は青い空を見上げた。晴れ渡ったその空は、東京では見られないほど鮮やかだった。
「これは悪くない冒険かもしれないな」
アリスは驚いた表情をしたが、すぐに明るい笑顔に変わった。「そうね!私たち本当にラッキーよ!」
「ラッキー?こんな状況で?」ケンは首をかしげた。
「そうよ!考えてみて」アリスは前足を動かして熱心に説明し始めた。「これはおそらく人類初の並行世界への移動なのよ。ほんの少しの物理法則の違いで、私たちが生存できない世界に行く可能性だってあったわ。あるいは、宇宙空間に放り出されていたかもしれないのよ?」
「確かにそれは...」
「確率的に見れば、生命が存在できる環境の世界に転移したこと自体、偶然とは思えないわ」アリスの目は輝いていた。「ものすごく興味深い現象よ!これからの発見と冒険が待っているわ!ワクワクしちゃう!」
アリスの声は弾んでいた。ケンは思わず笑顔になった。どんな状況でも好奇心旺盛でワクワクするアリス。その性格は小学生の頃から変わらなかった。
小学校の理科の実験で火事を起こしたときも、中学校の修学旅行で道に迷ったときも、高校のプログラミングコンテストでシステムがクラッシュしたときも、アリスはいつも「これは新しい発見のチャンス!」と言って、ケンを元気づけてくれた。
そして実際、アリスのその前向きな好奇心のおかげで、ケンは何度もピンチを乗り越えてきた。火事のときはアリスが消火器の場所を正確に指示し、道に迷ったときは星の位置から方角を導き出し、システムクラッシュのときはバックアップデータを見つけ出した。彼女の存在は、常にケンの心の支えだった。
「いつも通りだな、アリス」ケンは心の中でつぶやいた。
彼は深呼吸をして、気持ちを前向きに切り替えた。これから始まる未知の世界での冒険に、少しだけ期待が膨らむのを感じた。どんな困難が待ち受けていようとも、ケンとアリスは共に乗り越えていくだろう。それは、10年間共に過ごしてきた二人にとって、揺るぎない確信だった。
「よし、行こうか」ケンは決意を新たにし、未知の世界への第一歩を踏み出した。