第7話 いたはずの声
朝教室に入ったとき、いつもよりほんの少しだけ空気が薄いような気がした。
春の終わりかけ。
窓を開けたら、湿気とほこりと花の匂いが混じった風が、カーテンをわずかに揺らした。
「……一人、少なくない?」
それに最初に気づいたのは心優だった。
席に着いてから教室をぐるっと見渡して、眉をひそめる。
「どした?」
「なんか……席、空いてるよね?最初から?」
私はちらっと教室の左後ろを見た。
たしかに、ひとつだけ机と椅子がぽつんと余っている。
でも、誰のものだったか思い出せなかった。
机の横には何も掛かっていない。ロッカーも空。
それなのに、椅子の脚の先には埃の跡があって、つい最近まで誰かがそこにいたことを示していた。
「転校……したっけ? いや、そんな話聞いてないし」
心優が日直ノートをめくりながら言う。
ページの端に書かれた日直の名前は、昨日と今日で空白のままになっていた。
チャイムが鳴る。
それに合わせて、みんなが静まり返る。
それだけで、さっきまでの違和感が一瞬だけ薄れた気がした。
授業中、ずっと気になっていた。
ノートの端に思い出せない名前を何度も書きかけて、やめた。
「たぶん……佐藤、だったような。いや、違う。そんな名前、クラスにふたりもいないし」
隣の蒼介は、教科書を広げたままずっと空を見ていた。
黒板も先生も見ないまま、ただ窓の外の雲の動きを追っている。
私は小声で言った。
「ねえ、あそこ、誰か座ってなかったっけ?」
蒼介はゆっくりと顔をこちらに向けた。
「どこですか?」
「左後ろ。窓側の四列目。……いや、気のせいだったらごめん」
しばらく、蒼介はその机を見つめたまま、何も言わなかった。
空調の音が、規則的に天井から降ってくる。
白い蛍光灯の光が、机の角で静かに反射した。
「観測されなくなっただけ、かもしれませんね」
ぽつりと蒼介が言った。
「……それってつまり、『いなくなった』ってこと?」
「存在を保証する観測者が不在なら、定義は失効します」
「じゃあ、覚えてる私は……観測者、ってこと?」
「まだ、『その存在を保っている人間がひとりだけ残っている』状態、ですかね」
蒼介の声は、いつもより少しだけ乾いていた。
空気に混じって、夏が近づく気配がした。
黒板のチョークが、かすかに擦れる音が響いた。
――クラス全員に配られたプリントは、昨日までは確かに全部で39枚だった。
なのに、今日は38枚しかなかった。
「……昨日は絶対に39枚だったよね?」
私は声に出して、誰にも届かないことがわかってるのに言った。
座ったまま、プリントを見続けることをやめられなかった。
その夜、日記を開いて何かを書こうとした。
でも、何度ボールペンを握っても、言葉が形になることを拒んだ。
たしかにいたはずの誰かが、私の記憶の中から、静かにポロポロとこぼれ落ちていった。