第6話 自分でいるってなんだろう
放課後、駅までの道を歩いていたら、後ろから「あなた」と声をかけられた。
「……あなた?って、私のこと?」
振り返ると、やっぱり蒼介だった。
相変わらず、しっかりと制服のボタンを一番上まで留めている。
彼はまっすぐにこちらを見ていた。
だけど、やっぱりどこか遠くを見ているみたいな気がした。
「ねえ、私は葵っていう名前があるんですけど」
「すみません。咄嗟に名前が出てこなくて」
「いやそれさぁ、私のこと覚えてないとかじゃなくて、もはや人類って意味で呼んだでしょ」
「ええまあ。昨日、観測者として少し面白い動き方をしていたので」
「……はあぁ?」
私は思わず笑った。
彼の言うことは、いちいちわけがわからない。
でも、時々ちょっとだけ刺さる。
――そしてなぜか、途中で引き返す気になれない。
「昨日の放課後、購買の前で立ち止まって自分の靴をあんなにじっと見ていたの、あなたぐらいでしたから」
「え、そんなところ見てたの?こわっ……」
「靴って、その日の一番最初に自分の意志で選ぶものじゃないですか。選んだことすら忘れてるのに、足元でずっと一緒にいる。それをあんなにしっかり確認するなんてなんか、面白いなって」
なんだそれ。
でも確かにその日、私はいつもと違う靴を履いてた。
玄関先で何となく『こっちじゃない方』を履いて、そのまま出かけた。
それって、本当に自分の選択だったのだろうか。
「……私らしさって、何だろうね」
ふと口をついて出た。
道路脇の段差に腰を下ろす。
彼は少しの間だけ、じっと立ったまま黙っていた。
そのあと静かに隣に座る気配がして、私は少しだけ姿勢を直した。
「『私』という記号は、主観が集まって形をなしたものです。過去の選択、この瞬間の反応、他者からの認識、それらすべての継ぎ接ぎが『私』です」
「……またそういう言い方する〜」
笑って返したけど、心の奥のほうでは、妙に納得している自分がいた。
「でもそれってさ、見方を変えたらめっちゃ他人に依存してるってことじゃない?私の中に、誰かからの見方が混ざってるってことじゃん」
「そうですね」
蒼介は、そう言って少しだけ目を伏せた。
「じゃあ、自分でいるってどういうこと?」
その問いには、たぶん答えがないんだろうなと思った。
でもそれでも一緒に考えてほしくて、ついぽろっと聞いてしまった。
彼は少しだけ考えてから、言った。
「……他人に同化されずに、言語化できないものを持っていること。それを、壊さずに持ち続けること。かもしれません」
その言葉は、まるで自分自身に向けているようにも聞こえた。
「蒼介は、それあるの? 壊さずに持ってるもの」
彼は何も言わなかった。
でもほんの一瞬だけ、空気が止まった気がした。
私はそこに気づかないふりをして、カバンからジュースを取り出した。
さっき、たまたま買ったやつ。
「はい。これ。のど乾いたでしょ?」
「いえ、特に」
「いーから! もらっといて」
無理やり押しつけたペットボトルを、彼は一瞬戸惑ったあと、静かに受け取った。
キャップを開けて、一口だけ飲む。
「……炭酸、苦手なんです」
「うそっ、そうなの?じゃあ次からメロンソーダはやめとく」
蒼介は、それには何も言わなかった。
だけど多分、ちょっとだけ笑ってた。
風が吹いて、制服のスカートがかすかに揺れた。
私たちはそのまま、しばらく何も話さなかった。
まだ名前のついていない感情だけを、胸の奥にそっと隠していた。