第1話 観測の始まり
倫理の先生が「自由意志ってあると思うか?」とか言い出したとき、クラス中の空気がふわっと止まった気がした。
この人いつも唐突なんだよな。
朝イチの授業でこれはきついって……。
私は、隣の席の子がこっそり開いてた数学の問題集を見ながら、(ないとは言えないよなぁ〜)と、ぼんやり考えていた。
ていうか、そもそも自分の意志を「あると思う?」って聞かれたら、大体「ある」って言うでしょ。
「……ないと思います」
前から二番目の席。知らない声だった。
「お、なんで?」
先生が嬉しそうに食いついた。
「環境と遺伝子と、時間軸上の初期状態によって、選択はすべて決定されているはずです。選べているように感じるのは、あくまで主観的な錯覚です」
誰?と思って顔を上げたら、黒髪で、やたら静かな男の子が前を向いたまま喋ってた。
目は全然合わない。
その場にいるのに、ひとりだけ別の場所に立ってるみたいな喋り方。
うわ、出た。理屈系男子。
「え、待って、それってさ」
気づいたら、私の声が出ていた。
「……じゃあ、今ここでわたしが、急に立ち上がって『ゲジゲジ虫!』って叫んだとしても、それも決まってたってこと?」
彼は振り返らなかった。
だけど、少し間を置いて、
「はい。そういう脳内反応が、この状況下では最も高確率だったというだけです」
……は?
「いやいや、なにその言い方。めっちゃつまんな」
笑いながら言ったら、近くの子もぷっと吹き出した。
「じゃあ、好きとか嫌いとかも、錯覚ってこと? 好きになったっていうのも、脳の誤作動?」
「誤作動とは言いませんが。好きと感じたことを、好きと認識する回路が働いてるだけで、それは自由な選択ではないです」
「……やば。めっちゃロボットじゃん。ねえ、それで生きてて楽しいの?」
――さすがに言いすぎたかな、と思ったけど、彼は微動だにしなかった。
ただ、ぽつりと言った。
「楽しいかどうかもまた、主観的な幻ですから」
……いやいやいや、私、これから一年間、このクラスでどうやって生きるの?
放課後。
教室に戻ってきたら、まだ彼が席にいた。
誰もいない教室で、窓の外を見ていた。
日差しの向こうに、グラウンドと、音のない部活の風景。
「……まだいたんだ」
声をかけた理由は、自分でもよくわからなかった。
たぶん朝の話が、なんとなくずっと引っかかってたんだと思う。
『主観的な幻』――。
言い方はむかついたけど、心のどっかがうっすらざわついたままで。
彼は振り返らなかった。
「ねえ、授業、全部あんな感じなの?」
「どんな感じですか」
「いや、なんか、『人間には自由なんかない』って、いきなり断言されたらさ。……なんかちょっと、傷つくじゃん」
すると、彼が静かに言った。
「傷つくという感情も、過去の経験と神経構造の結果です」
「うっわ、またそれ?」
「でも、それをあなたが『今、言い返してきた』という現象は、観測者としてのあなたの存在を定義しているものです」
「観測者って?……よくわかんないけど、つまり、私が『ここにいる』ってこと?」
そう考えた瞬間、自分の存在がふわっと浮いた気がした。
「……ってことは、私がここで、『あなたにムカついてる』って言ったら、それは観測者としての私が正しく機能してるってこと?」
「そうですね」
「……んー、じゃあまあ、いったん納得してあげてもいいかも」
そう言って、わたしは彼の机の端を軽くとんとんと叩いた。
すると彼は、ほんの少しだけ目を細めた。
笑った、わけじゃない。
たぶん、ほんのちょっとだけ、空気が揺れただけ。
でもそれだけで、私の中にあったざわつきは、なぜか少し静かになった。