第12話 触れた時、私が戻る
世界の『かたち』が壊れていた。
黒板に書かれた文字が、見たことのない言語に変わっていた。
でも読み取れた。
意味もわかった。
だけど、それが「日本語じゃない」と気づいてしまった瞬間、頭の中で再び意味が崩れた。
廊下を歩いていたはずなのに、気づいたら校庭にいた。
靴はビショビショに濡れていて、手には教科書がなぜか五冊。
記憶が巻き戻されて、その上から別の場面が塗り重ねられたみたいだった。
誰かの顔が、誰かと入れ替わる。
いつもと同じ声で、違う言葉を喋る。
時計の針は天井に貼りつき、教卓が壁にめり込んでいる。
ノートを開くと、昨日書いたはずの字が点字になっていた。
でも指でなぞると、それはちゃんと『私』の筆跡だったと感じる。
もう、なにが現実なのかわからない。
「やめて、やめて、やめて……!」
私は頭を抱えて、床にしゃがみこんだ。
自分の声が、自分じゃない誰かの声に聞こえた。
(戻りたい、ちゃんとした世界に戻りたい)
そう思ったけれど、『ちゃんとした世界』がどんなだったのか、思い出せなかった。
そのとき、膝のすぐ横から声がした。
「混乱しているのは、案外世界のほうじゃないのかもしれませんよ」
蒼介だった。
彼は変わらず、あの落ち着いた口調で、床にしゃがみ込んだままの私を見ていた。
まるで最初からそこにいたみたいに。
むしろ、世界が崩れたことで『蒼介だけが残った』みたいな気さえした。
「世界は、あなたの見え方に合わせて動いています。見え方が変わったから、世界も別の姿を見せているというだけです」
「ちょっと黙ってて……!もう、頭の中がぐちゃぐちゃなの!」
思わず怒鳴った。
涙がにじんで、視界が歪んだ。
蒼介の姿がぶれて、背景と溶けそうになった。
そのとき。
静かにそっと、蒼介が私の背中に手を添えた。
ほんの少しだけ、ぬくもりがあった。
それだけで、ぐらぐらしていた世界の軸が、私の中心に戻ってきた。
「あなたは、まだ見失っていません」
「ただ、世界の見え方が少し変わっているだけです」
「でも怖いよ。こんなの私じゃないみたいで……」
「だったら、それがあなただと決めてしまえばいい」
蒼介の言葉はいつも決して優しくないのに、なぜか安心する。
この人は、たぶんもう何度も自分を見失って、何度も崩れた世界を見てきた人だ。
そう思った。
「もしかすると『今ここで焦っているあなた』も、昨日の世界からズレた誰かの夢なのかもしれませんね」
ほんの少しだけ、蒼介の口の端が意地悪そうに上がる。
「……ねえ、ほんとそういうとこやめて」
言葉と同時に、私は蒼介の袖をつかんでいた。
ちょっとだけ力を込めて、だけど優しく。
「……でも、ありがとう」
彼は返事をしなかった。
ただ、静かに微笑んだような気がした。
そのときだけ、私は確かに『ここにいる』と思えた。