第11話 選んでしまった私
知りたい。
もっと奥まで。
この世界がどうなっていて、私がどこにいるのか。
この違和感は何なのか。
蒼介は、どうしてあんなふうに話せるのか。
知ってしまえば、戻れない。
そんなことは、とうの昔にわかっていた。
それでも――知りたいと思ってしまった。
その朝、教室に入ってすぐ、心優に挨拶をした。
「おはよー、今日ちょっと空ヤバくない?」
でも心優は、ノートから目を離さず、
「席着いてから話して」
ときっぱり言い放った。
え?と思った。
いつもなら「ね、こわいね〜」って笑ってくれる子なのに。
そのあとも無言でプリントを配って、机の上のペンをテキパキと片づけていた。
指先の動きが妙に機械的で、そのうえ自信があるように見えた。
昨日までの心優と、どこか違っていた。
逆に慎太郎は、ずっとぼんやりしていた。
プリントを手渡しながらも、どこか上の空で、「あれ……ごめん」って小さな声で謝ってきた。
「慎ちゃん、寝不足?」
と聞いてみると、
「ううん、なんか……自分が自分じゃない気がするってだけ」
と呟いた。
私は笑ったけど、慎太郎は笑わなかった。
昨日までなら、心優はちょっと迷ってから笑って、慎太郎は「ま、いいけど」って流していたのに。
ふたりの中身が入れ替わったみたいな気がした。
そんなふたりを見て、私は思わず言った。
「――ねえ、今日のクラス、なんか配役入れ替わってない?」
誰も笑わなかったけれど、それでも私は口にせずにはいられなかった。
その日は朝から、すべての情報が『すりガラス越し』だった。
アナウンスの声が割れて聞こえる。
文字が読めても、意味が入ってこない。
誰かの顔が、一瞬だけ知らない人とすり替わったように見える。
教室の時計は正しく動いているはずなのに、時間が進んだあとにすぐ巻き戻されるような瞬間が何度もあった。
見えているものと感じているものがずれている。
世界の論理が解体されかけている。
休み時間に窓際にいたとき、ふと目に映った風景が唐突に崩れた。
グラウンドの端が歪んでいた。
遠くの校舎の壁に、別の風景が重なって揺れていた。
窓のガラス越しに見えたはずの外が、まるでモニターのように『切り替わる』。
「……怖い」
声が、喉の奥に引っかかった。
一瞬、誰もいない教室にいるような感覚が走る。
自分がここにいるのか、それすら曖昧になった。
でも、そのとき。
「深呼吸、してみてください」
蒼介の声がした。
振り向くと、そこに蒼介がいた。
静かに、でも確かに私を見ていた。
「自分の呼吸がわからなくなったら、世界がもっと壊れた時に、自分を保てなくなるから」
私は言われるままに、吸って、吐いた。
空気が、体の中に戻ってきた気がした。
それだけで、ほんの少し『ちゃんとここにいる』と思えた。
「……蒼介って、すごいよね。こんなに世界が壊れてるのに平気そうで」
「平気ではないですよ。ただ、受け入れるようにしているだけです」
「ねえ、蒼介は……怖くないの?」
少しの間、沈黙が流れた。
「怖いですよ。でも、知りたいんです。この世界がどうなっているのか。自分がどこまで自分でいられるのか。それを知るために、ここにいるような気がしているんです」
私はその言葉を聞いて、思った。
この人と、もっと話したい。
この人の見ているものを、私も一緒に見てみたい。
それは、ただの興味とは違っていた。
私の中のどこか深い場所で、確かにこの人といたいという感覚が少しずつ膨らんでいた。
でも、世界は相変わらずへんてこだった。
空の色は薄いグレーのままだし、誰かの声は二重に聞こえる。
時計の針は、ときどき止まる。
それでも私は、自分で選んだ。
この世界を、ここにいる自分を。
私は、選んでしまった私なのだ。