第9話 私の知らない選択肢
朝、教室のドアを開けた瞬間、足が半歩だけ止まった。
空気の密度が、ほんの少しだけ違っていた。
湿気の入り混じった春の匂いが、いつもより淡く、遠く感じた。
誰かが机を引いたときの音がやけに柔らかく響いて、床の反響が弱かった。
カーテンの揺れ方も、光の入り方も、少しだけズレていた。
まるで数センチ、空間の軸が傾いたみたいな違和感。
私はそのまま自分の席まで歩きながら、何が変わったのかを探していた。
机の位置?
黒板?
掲示物?
廊下側の掲示板に貼ってあったはずの行事予定表が、なぜか黒板の横に移動していた。
しかも、書かれていた行事のひとつの「文化祭準備期間」が、昨日見たときよりも一週間早くなっている気がする。
「……そんなはず、ないよね?」
小さく呟いて、自分の机に鞄を置く。
机の木目の模様が、前よりも濃くなっているように見えた。
でも、誰にも話したらいけない気がして、黙って座った。
そのときだった。
教室の隅で、黒い塊がゆっくりと動いた。
私は、反射的にそちらへ目を向けた。
――猫。
短毛の、つやつやした黒猫。
教室の奥、掃除ロッカーの近くで、尻尾を揺らして床を歩いていた。
黒い背中。しなやかな脚。
ピンと立った耳と、鈍く光る目。
「……え?」
思わず声が漏れた。
その猫は、昨日までは――長い毛を揺らした、茶色い猫だった。
記憶ははっきりしている。
あの柔らかい毛を触ったときの感触。
袖に残った、ふわっとした匂い。
なのに。
「まる、またそこいるのかよぉ〜」
慎太郎の声が教室の前方から響いた。
その声に、私は違和感を覚えた。
いつもの慎太郎なら、もっと声が大きかったはず。
もっとキビキビした調子で、何かと仕切っているような口調だった。
でも今日は、なぜか妙に力が抜けていて、間が長い。
「黒猫って神秘的でいいよね!」
心優のその声にも、引っかかるものがあった。
彼女の笑い方はいつももっと控えめで、空気に溶けるような声だったはずなのに。
今日は明るく、よく通る。
ほんの少しだけ。
ふたりとも、昨日までのふたりと何かが違っていた。
誰も、何もおかしいと思っていない。
私の中にだけ、昨日と今日の世界の境目がくっきりと残っていた。
放課後、蒼介に声をかけた。
「……ねえ。まる、黒かったっけ?」
蒼介は教科書を閉じて、静かにこちらを見た。
「そうですね。黒猫でしたね」
「違う!昨日までは茶色だった。毛、長くて、やわらかくて。私、ちゃんと覚えてる。触った感触も、残ってる」
「……」
蒼介は一瞬だけ、目を伏せた。
その仕草で確信した。
彼は気づいている。
「……でも、もう誰も覚えてない。心優も慎太郎も、最初から黒だったって言う。プリントにも、先月のアルバムにも、黒猫のまるが写ってた。なんなのこれ……ねえ、蒼介、知ってるんでしょ?」
少し強くなった声に、蒼介はほんのわずかに目を細めた。
「……これ以上は、関わらないほうがいいですよ」
その言葉だけが、静かに、空気を切った。
「え?」
「あなたは、まだ戻れる。まだ『元いた世界』に、ちゃんと足を置ける。これ以上進めば、何を失うかわからない」
「なにそれ……脅し?」
「忠告です」
蒼介の目は、揺れていた。
でもその奥にあったのは、どこかで諦めたような、遠くて冷たい光だった。
「じゃあ、蒼介は……もう戻れないってこと?」
「観測しすぎた人間は、世界に定着できなくなることがあります」
「意味わかんないよ、それ……」
私は笑うしかなかった。
でも、その笑いはすぐに消えた。
黒板の前にいた黒猫が、いつの間にかいなくなっていたから。
誰も気にしていない。
でも、その気配はたしかにここにあった。
私は、自分の制服の袖をそっと嗅いでみた。
――昨日と同じ、『やわらかい茶色い毛の匂い』が、微かに残っていた。