ヴァニエルの後悔(1)
「くそ……なんで俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ……」
俺は下町のギルド酒場の薄暗い便所で、床にべったりと付いた吐瀉物を必死にブラシで擦っていた。冷たい水と洗剤の泡が、俺の手にしつこく付着し、かつて王家に認められた男だった俺の誇りが、今や嘲笑われるように薄れていく。
「おい、ヴァニエル! 掃除が終わったら次は皿洗いだ! そんなサボってる暇があったら、しっかり働けよ!」
店主であるバルドの厳しい声が、俺の耳に突き刺さる。バルドは額に深い傷を刻んだ大柄な男で、いつも俺たち下働きを容赦なく叱責する。
その言葉に、俺は苦々しい思いを抱えながらも、頭の中であの日の輝かしい記憶を振り返った。あの頃、俺は王族に近い存在として期待され、将来を嘱望されていた。冷たい水と洗剤の泡に手を浸すたびに、あの日の記憶が胸を締め付ける。あの日、俺は誇り高く、王家に認められる存在だと思っていた。だが、あの瞬間、俺はすべてを失った。
卒業パーティの大騒動が転機となり、俺は連行され、裁判にかけられた。不敬罪、王女への暴行未遂、そして魔法具・魔法学コンテストの贈賄未遂。幸い、未遂に終わった罪に関して被害はほとんど出なかったが、俺個人には多額の罰金が科せられ、さらに魔法剣士の資格も剥奪された。魔力がやや多すぎるという理由で、魔力制御の腕輪を装着させられたのも、今ではただの屈辱だ。
一方、両親は贈賄や横領の罪で、領地と爵位を剥奪された挙げ句、なんと逃亡。結果、残された俺と妹のリリアーネは、逃げ場もなく王都のはずれに追われ、やっとの思いで住み込みの仕事を探し、今に至る。
ここで働く毎日は、過去の栄光の残像と共に、常に心に暗い影を落としている。バルドの厳しい叱咤激励、そして、どこかで自分が本来の自分であった頃の誇りにさえ届かない現実――そのすべてが、今の俺を苦しめ続ける。
「なんで俺は……」
俺は呟く。心の中では、かつての自分に対して怒りと後悔が渦巻いている。
あの頃、俺は自信に満ち溢れていた。王家に認められ、魔法剣士としての誇りを胸に歩んでいたはずなのに、あの日の愚かさがすべてを台無しにした。あの裁判、あの罰金、そして魔力制御の腕輪――すべては、俺があまりにも高慢で、欲望に溺れていた結果だ。
俺は自分を責め、悔しさに震える。鏡に映る自分の顔を見るたびに、あの頃の輝きを思い出し、どうしても涙がこぼれ落ちそうになる。しかし、その涙を見せることすら許されない。俺は、ここで生きるために、強くあらねばならない。
それでも、どうしても、心の奥底では自分が何者であったのか、そして何故、こんな下働きに転落してしまったのかという疑問が拭えない。俺は、一度は夢見た未来――王家に認められた男としての誇りある日々――が、今や遠い幻と化してしまったことに、ただただ悔しさを感じる。
「おい、ヴァニエル!」
バルドの厳しい呼びかけが、俺の内面の混乱に一瞬の現実を突きつける。だが、俺はその声にも応じず、ただ静かに、しかし確固たる決意を胸に、作業を続ける。
この惨めな現実の中で、俺は何度も自問する。
「本当に俺は、選ばれし者だったのか? あの高慢な自分は、何を信じていたのか?」
その問いは、今も俺の胸に痛みとして刻まれている。かつての俺は、王族にふさわしい存在だと信じ、未来への希望を抱いていた。しかし、その信念は、虚飾と不正に裏打ちされたものだった。
俺は、あの日の過ちが、無数の闇の取引と裏切りによって築かれたものだと知っている。そして、その一つ一つが、今日の俺を苦しめる重荷となっている。
「俺は、もう二度と同じ過ちを犯さない……」
そう誓いながらも、胸の奥にある後悔と虚無感は、消えることなく残る。
酒場の薄暗い空間、掃除の合間にふと見上げた天井の隙間から差し込む微かな光。それは、俺にとっての唯一の希望のようなものだ。
「いつか、必ず……」
俺はそう自分に言い聞かせ、手を動かしながら、次の仕事へと取りかかる。
番外編執筆開始しました!
最初はヴァニエルの「その後」の番外編です。




