第四十五話 アフォガート
今年の夏は特に暑い。そんなことを、毎年のように言っている気がする。
実際、今年のほうが暑いなんて、気のせいかもしれないし、確かめるほど興味があるわけでもない。ただ、そんなふうに思ってしまうほど、今が暑いという話だ。
夏休みにもかかわらず、俺は汗だくになりながら、学校までやってきた。
ワイシャツの襟元をぱたぱたと動かしてみるが、そんなことで涼しくなるなら、毎年こうも苦労はしない。暑さでぼうっとする頭のまま、宿直室の鍵を開けた。
むわっとした熱気が廊下に溢れてきて、少し湿った畳の匂いがする。
こんなところに長時間いたら、茹でだこになってしまう。冷房が利くまで、なんの気なしに廊下をぶらぶらと歩くことにした。
グラウンドでは、こんな猛暑だというのに、野球部が熱心に練習している。それを応援するかのように、どこからか吹奏楽部の演奏が聞こえる。
あまりにも熱心な様子の彼らに、冷房の利いた部屋でのんびり過ごすつもりの俺は、なんだか罪悪感を抱く羽目になった。
とはいえ、ずっと廊下をぶらぶらしているわけにもいかない。心の中で彼らにエールを送りながら、宿直室に戻った。
扉を開けた途端、先ほどと打って変わって、心地のいい冷気が溢れてきた。彼らへの罪悪感は、いつの間にか優越感に変わり、それがまた、少し申し訳なくなった。
そもそもの話、帰宅部の俺が、どうして夏休みなのに学校にいるのか。
それはひとえに、恋人である神坂しずくのためである。
大人気モデルであるしずくは、仕事の都合上、欠席することが多々あり、遅れている授業がいくつかある。そこで、学校は彼女に対し、補習をしてくれることになった。
仕事の休みをもらった上で、わざわざ登校しなければならないのは、かなり気の毒だ。このままでは進級できないのだから、まあ、仕方のないことなのだが。
というわけで、補習終わりの彼女を労うために、俺はこの宿直室に待機しているのだ。
いつものように宿直室の簡易的なキッチンに立ち、鞄からあるものを取り出した。
この銀色で縦長の器具は『マキネッタ』と呼ばれるコーヒー器具である。
濃いコーヒー――――いわゆるエスプレッソを淹れるための器具であり、本場イタリアでは、どの家庭にもひとつはあるなんて言われている。
厳密には、このマキネッタを用いて淹れた飲みものは、エスプレッソではなく『モカ』というらしい。要するに、エスプレッソとは少し違う、エスプレッソ風のコーヒー、という扱いだとか。
ドリップコーヒーをメインに勉強しながらも、最近はエスプレッソにも興味がある。このマキネッタも、勉強のために購入したものだ。知れば知るほど、ドリップコーヒーとはまた違った技術や知識が必要だったりと、面白い世界が広がっていることが分かった。
マキネッタを使ったコーヒーの淹れ方についてだが、難しいことはひとつもない。
まず、コーヒー豆を極細挽きにする。この挽き目は、ドリップコーヒー用と比べると、圧倒的に細かい。下手したら、ココアパウダーくらいの粒度である。
使う豆の種類は、中煎りから、中深煎りくらいの焙煎度合いが理想だが、特に決まりはない。銘柄含め、その人の好みで選べばいい。
次に、底の部分を外し、決まった量の水を入れる。
そして、中央部分にあるフィルターに、極細挽きにした豆をセット。
あとはすべてをしっかりつなぎ合わせて、火にかける。
このとき、コンロの火力は、マキネッタの底からはみ出さない程度の弱火にしておく。
ここまで来たら、もう待つだけだ。火が使える環境が必要という条件はあるものの、やはり簡単だ。
しばらく眺めていると、宿直室の扉が開いた。そして、しなしなになったしずくが、おぼつかない足取りで入ってくる。
「疲れたぁ~……」
しずくは、俺の横を抜け、そのまま畳に倒れ込む。
「補習してくれるのはありがたいんだけどさぁ……詰め込みすぎだよ……頭パンクしちゃったよぉ……」
「お、お疲れ様」
ゾンビのように這いずるしずくに、遠慮がちに声をかけると、彼女は眠そうな目をこちらに向けてきた。
「純太郎ぉ……わざわざ来てくれてありがとねぇ……」
「あ、ああ……俺もしずくに会いたかったし」
「っ!」
しずくは目をかっと開くと、素早く体を起こした。
「ど、どうした?」
「純太郎って、ほんっとに私を喜ばせるのが上手だよね」
「そうかな?」
「うん。だって、今のでめちゃくちゃ元気出たもん」
そう言って、しずくはにっと笑った。
確かに、今さっきまで生気がなかったのが嘘のようだ。
「そうだ。それ何やってんの?」
しずくが、コンロを指差す。
俺が手招きすると、彼女は興味深そうにしながら、とてとてと近づいて来た。
ちょうど、マキネッタの上部から、コーヒーがこぽこぽと溢れ出していた。これは、底で熱されたお湯が、圧力によって噴き上がり、豆の層とフィルターを通して、溢れ出してきているのだ。
その様子を見て、しずくは目を輝かせる。
「わぁ⁉ 何これ⁉」
「しずくが疲れてると思ってさ。甘いデザートを用意してるんだ」
マキネッタから、ぷくぷくと音がして、コーヒーではなく空気が漏れてきた。それを見てから、火を止める。こうなったときが、抽出完了の合図だ。
「デザート? でもこれ、確かエスプレッソってやつじゃないの?」
俺は得意げに笑って、冷凍庫を開ける。そこには、あらかじめ用意しておいたバニラアイスが入っていた。
バニラアイスを器によそい、そこに出来立てのコーヒーをかける。
コーヒーがかかったところから、バニラアイスがじわりと溶けていく。白と黒が混ざり合い、器の底を満たしていく。
「あ、これって……!」
「ああ、アフォガートだ」
アフォガートとは、バニラアイスにエスプレッソをかけて食べるスイーツである。
名前の由来は、イタリア語で「溺れる」という言葉らしい。バニラアイスがエスプレッソに沈む様子から、そう名付けられたとか。
ちなみに、日本では『アフォガード』と、最後の言葉に濁点をつけて表記されることも多いが、濁点をつけないほうが、イタリア語の発音としては正しいようだ。
「すごっ! 食べるの初めてかも!」
しずくはゆっくり溶けていくバニラアイスを眺めながら、はしゃいだ様子でそう言った。
「っと、全部溶けちゃったらもったいないよね」
バニラアイスをスプーンですくって、底に溜まったエスプレッソに浸してから、口へ運ぶ。
すると、しずくは目をぎゅっとつむり、手足をぱたぱたと動かした。
「ん~~! 美味しい!」
その反応を見て、俺はほっと胸を撫で下ろす。
「冷たくて、ほろ苦くて、クリーミーで! 疲れた頭に沁みる~って感じ!」
「喜んでもらえたみたいでよかったよ」
ちゃっかり自分の分も用意して、一緒に食べることにした。
バニラアイスの優しい甘味と、エスプレッソの香ばしさとほろ苦さ。それらが見事に重なり合い、深いコクを生んでいた。時にくどく感じる甘味が、苦味によって調和され、いくらでも食べられそうなスイーツになっている。
「ふぅ……ごちそうさまでした」
あっという間に完食してしまい、しずくは寂しそうに器を眺めていた。
「ねえねえ、これってお店で出せないのかな?」
「うーん……無理ってことはないと思うけど」
なんたって、こんなに簡単なのだ。コーヒー豆は言わずもがな、バニラアイスだって、フロート系のドリンクのために、お店には常に用意がある。あとは、このマキネッタさえあれば、いつでも作れる。
――――ただ。
「歌原さんが気に入ってくれるかどうかだな」
ナポリタンや、チーズケーキなどのスイーツなら、俺も提案しやすい。何故なら、マスターである歌原さんは、料理が致命的なまでに苦手であり、結局作るのは俺だからだ。むしろ、俺が提案することで、喜んでくれることのほうが多い。
ただ、コーヒーを使ったデザートとなると、話は別だ。
数々のコーヒーを飲んで、舌が肥えているあの人が、果たして満足してくれるだろうか。
「まあまあ、まずは提案してみようよ! 駄目でもいいじゃん! そのときは、今日みたいに私たちだけで楽しめばさ!」
「……確かに、その通りだな」
俺がそう言うと、しずくは「でしょ?」と俺の肩をつついた。
「私も一緒に推すからさ。そしたら、マスターの印象もよくなるかもよ?」
「それはありがたい。よろしく頼むよ」
「もちろん!」
そう言って、しずくは胸を張った。なんて頼もしい。
しずくのおかげで、俺は以前よりもずっと、後ろ向きじゃなくなった。何があっても、彼女だけは味方でいてくれる。だから、頑張ってみようと思える。




