第四十二話 想い
しずくが目を見開く。そして、手元のカップをジッと見つめた。
「……マスターが淹れたコーヒーと同じ味がする」
その言葉は、俺が何よりも欲しい言葉だった。
喜びが全身を駆け抜ける。しかし、同時に歌原さんの偉大さを改めて思い知らされた。
「一緒か……十分な進歩だな」
「どうやったの? まだ人の好みに合わせた淹れ方はできないって言ってなかった?」
「ずっと、しずくのことを考えてたんだ」
「え?」
四六時中、しずくの存在が頭の中にあった。
寝ても覚めても、学校に行く前も、授業中も、ボーっとしてるときも……そして、コーヒーを淹れているときも。
「そして今日、分かった気がしたんだ。しずくの求めるものがさ」
俺はしずくの持っているカップに視線を向ける。
淹れ方は、何も間違えていなかった。大事なことは、小さな、本当に小さな一つの気遣い。
「豆の挽き方とか、焙煎度合いとか、そういう好みが違って当たり前の部分じゃなくて……『こうじゃないといけない』っていう固定概念を変える必要があったんだ」
マニュアル通りに淹れることにこだわっていた俺では、決して気づくことのできなかった答えに、ようやくたどり着いた。
「いつもと淹れ方を変えて、今回は《《お湯の温度を下げてみた》》。ほんのちょっとだけどな」
しずくはおそらく、猫舌なのだ。熱すぎるものは苦手で、よく冷まさないと飲めない。だけど、彼女の性格上、人が出してくれたものを冷めるまで放置することもできない。ならば、最初から飲みやすい温度で渡せばいいのだ。
コーヒーを放置すると、酸化して嫌な酸味が出てしまう。故に俺は、あらかじめ《《冷やしておいた》》カップにコーヒーを注いだ。
それは、普段なら絶対にやらない工程である。しかし、それでしずくが喜んでくれるなら、俺はマニュアルから外れることも厭わない。
「正直、その人に合ったコーヒーを見抜くなんて、俺には不可能だと思ってた。そりゃそうだよな。俺はその見抜く力を、特別な能力だと思ってたんだから」
大切なことは、人を想うこと。
歌原さんは、コーヒーに惜しみない想いを込めている。喫茶メロウに来てくれる人たちへの感謝、そして愛情という想いを。
気づけないわけだ。俺は客を客としてしか見ていなかったんだから。
綺麗事に聞こえるかもしれない。ただ、これが俺にとっての正解だった。それだけの話である。
「しずくを想い続けたからこそ気づけたんだ。本当にありがとう」
「……」
「……しずく?」
しずくは、ポロポロと涙をこぼし始めた。彼女は恥ずかしそうにして、その涙をすぐに拭う。
「ご、ごめん……なんか、純太郎にそう言ってもらえたことが嬉しくて」
再びカップに口をつけ、しずくは笑顔を浮かべる。
「ありがとう、私を想ってくれて」
感極まって、思わず俺も泣きそうになってしまった。懸命に涙をこらえる。きっと今の俺の顔は、ひどく格好のつかないものになっていることだろう。
俺にはまだ、しずくに伝えなければならないことがある。
不恰好でも、きちんと伝えなければならない。
「……しずく」
「ん? なあに?」
「俺は、君が好きだ」
俺がそう告げると、しずくは石像のように固まってしまった。
申し訳ないが、ここで言葉を止めるわけにはいかない。止まってしまえば、もう二度と口にできない気がするから。
「努力家なところも、真面目なところも、茶目っ気があって、からかい上手なところも、俺の話を根気強く聴いてくれるところも……もちろん、外見も、ぜんぶ好きだ」
しずくの特別になりたい。その気持ちを、ここですべて彼女に伝える。
そうしたいと思った。そうしなければならないと思った。
「ちょ……待って、ちょっと待って?」
硬直から回復したしずくが、自身の顔を手で覆う。
それから、しばしの沈黙が流れた。やがて指の隙間から俺の様子を伺った彼女は、諦めたように顔から手を離す。そして、俺を上目遣いで見つめながら、両手を膝の上に置いた。
「……私から言おうと思ってたのに」
「え?」
「私から告白しようと思ってたの! 私も純太郎が好き!」
しずくの叫びが、店内に響く。その態度は、まるで駄々をこねる子どものようだった。これを言うとしずくは怒るかもしれないが、そんな子どもっぽい姿すらも、俺には愛おしく見えた。
「私だって、それなりに覚悟決めて今日のデートに臨んだんだよ? でも水族館では楽しみすぎてチャンス逃すし、挙げ句の果てに先越されちゃうし……」
「な、なんか、悪かったな……」
「悪いと思うなら、私と付き合ってよ」
「え?」
「私の彼氏になってよ、純太郎」
そう言いながら、しずくは手を差し出してきた。
しずくの潤んだ双眸と目が合う。なんだ、結局いいところは持っていかれてしまったじゃないか。
「……ああ、喜んで」
そうして俺は、しずくの手を取った。
いつもの店、いつもの席、いつものコーヒー。
いつもと違うのは、俺たち二人の関係だけだった。