第三十五話 気づきたくなかった事実
「なるほどね……とりあえず、しずくちゃんが無事でよかったよぉ」
次の日のこと。
午後からシフトを入れていた俺は、歌原さんに事の顛末を話した。
最後まで聴き終えた彼女は、ヘラッとした笑顔を浮かべる。
「何事もなく終わったなら、それが一番。純くんもお疲れさまだよ」
「……ありがとうございます」
歌原さんには、感謝してもしきれない。
しずくを探しに行きたいという俺の身勝手を、彼女は一も二もなく受け入れてくれた。やはりこの人は、コーヒーの師匠としても、人としても、俺の一番の憧れだ。
「しずくちゃんはもう元気になったんだ」
「今日の朝にはもうバッチリだったみたいです」
「そっか、よかったねぇ」
「もうすぐ来ると思います。マスターのコーヒーを飲みたがってたので」
そんなことを話しているうちに、入口のベルが鳴った。
「こんばんは、純太郎、マスター」
活気に溢れた顔をしたしずくが、俺たちのもとへ歩み寄ってくる。
元気そうなしずくを見て、俺は改めて安心した。
「元気そうね、しずくちゃん」
「はい、おかげさまですっかり回復しました」
そう言いながら、しずくは力こぶを作ってみせる。
「若いわねぇ……私だったら多分あと三日くらい寝てると思う」
「マスターはそんな歳じゃないでしょ」
しずくがフォローするが、歌原さんの目はどんどん遠くなる。
「二人もきっと分かるわ……二十五を越えてから感じる、この体の重さがね」
「「……」」
なんとも言えないな、それは。
俺たちの沈黙をよそに、歌原さんはぱちんと手を叩いた。
「ま、冗談は置いといて。今日は快気祝いに、好きに飲んで食べて? 全部私のおごりだから」
「え、いいんですか?」
「しずくちゃんは純くんの大切な人だし、当然だよ」
俺としずくは、揃って頬を赤らめる。
確かに大切な人ではあるのだが、こうもはっきり言われると恥ずかしくなってしまうというか、なんというか。
「じゃあ……お言葉に甘えさせてもらいます」
「うんうん、遠慮しないでね」
歌原さんが、そっと俺の背中を押す。
どうやら、しずくについていけということらしい。
俺はその気遣いに感謝して、カウンターを出る。
「あれ、もうこっち来ていいの?」
「ああ、マスターが送り出してくれた」
「気を遣わせちゃったかな……?」
「あとでお礼を言えば大丈夫だよ」
ソファーに座り、しずくと顔を見合わせる。
ここ最近のしずくと比べると、やはりその顔は別人のようだ。一体、彼女の体にどれほどの疲労が溜まっていたのだろう。取り返しのつかないことが起きなくて、本当によかったと思う。
「……くどいかもしれないけど、色々心配かけてごめんね」
「しずくはやるべきことをやってたんだ。気にする必要なんてないさ」
「そう言ってもらえると、救われるなぁ」
しずくは、早速注文したアイスコーヒーを半分ほど飲んだ。
そしてすこぶる幸せそうな表情で、小さく息を吐く。
「ふぅ……そうそう、これが飲みたかったんだよね」
「美味そうに飲むなぁ」
「本当は撮影が終わってすぐ飲みたかったのを、今まで我慢してたからね……これがいわゆる達成感ってやつ?」
「ひと仕事終えたあとのコーヒーが美味いって話なら、俺もよく分かるよ」
それから俺たちは、他愛のない話を続けた。
しずくは今度、ドラマの打ち上げがあるらしい。高級ホテルでパーティーが行われるそうだ。高い料理をタダで食べ放題だと喜んでいる姿は、ちょっと子供っぽくて、微笑ましさで思わず笑みがこぼれた。
「……そうだ、純太郎とのお出かけの予定も立てたいんだけど……いいかな?」
「もちろん。まだ何も決まってなかったよな?」
「うん……一応行きたいところはあるんだけど」
「それは?」
「水族館。なんか涼しそうだし、癒されるかなって」
「おお……いいんじゃないか?」
涼しそうというのも、癒されそうというのも、どちらも分かる。
最後に行ったのは、小学校の遠足だったか。全然行ったことがないからこそ、興味がある。
「え、じゃあ水族館で決まりでいい?」
「ああ、異論はないよ」
「よかった……! じゃあ水族館で決まり! いつにしようか?」
「そうだなぁ……しばらくは仕事も控えめなんだっけ」
「うん、マネージャーが気を遣ってくれたんだ。今なら休みもこっちで決められるよ」
俺たちは互いに予定を確認し合った。
そして、とんでもない事実に気づく。
「「……テスト週間だ」」
意図せず声がハモり、俺たちは顔を見合わせる。
七月前半に待ち受ける期末テスト。
しずくの撮影の件ですっかり忘れていたが、ちょうど週明けからテスト一週間前になる。さすがに遊んでいる場合ではない。
「でも、テストが終わったら試験休みがあるよね?」
「ん? ああ、そのはずだけど」
「確か平日が休みになるんだよね? なら、出かけるにはちょうどいいんじゃない?」
「あ、確かに」
出かけるなら、平日の空いているときが一番いい。
こうして俺たちは、出かける日を試験休みに決めた。
浮き足立つ気持ちを隠すように、俺はコーヒーを飲み干した。