第三十三話 おやすみ
タクシーに乗り込み、しずくの家に向かう。
座席に深く体を預けながら、俺は彼女のほうを見た。
「……少し寝てていいぞ。ついたら起こすよ」
「いいの?」
うつらうつらとしていたしずくは、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。彼女の家まではなかなか距離がある。このまま起きているのは、さすがにしんどいだろう。今は少しでも休んだほうがいい。
「寝にくいなら、肩でも貸そうか? それはそれで寝心地悪いか……」
「ううん、純太郎の肩がいい」
「え?」
気づいたときには、すでにしずくは俺の肩に頭を預けていた。
相当疲れていたのだろう。間もなく静かな寝息が聞こえてきた。
ふわりと、しずくの香りがした。
普段つけている香水なのか、しずくからは薔薇のような香りがする。
香りと、その体の温もりと重みが、彼女がここにいるんだという安心感を与えてくれる。
稲盛さんから連絡があったとき、俺は自分の足元が崩れていく感覚を覚えた。しずくがどこかへ行ってしまう。強い焦りで、俺の心はぐちゃぐちゃになりそうだった。
だからしずくを見つけたときは、本当に、本当に安堵した。結果として、ほとんどが仕込みだったからよかったけど、そうじゃなかったときのことを考えると、今でも背筋が凍る。
――――とにかく、無事でよかった。
俺はしずくの目元にかかった髪を払う。
それから、しずくの無事を稲盛さんと歌原さんに伝えるべく、俺はスマホに目を落とした。
「お客さん、つきましたよ」
そんな運転手の一言で、俺は顔を上げる。
気づけば、周囲はありふれた住宅街だった。神坂と書かれた表札を見つけ、俺はここがしずくの家の前ということを理解する。
「ありがとうございます、料金は……」
「ああ、クレジット決済なので、このまま降車していただいて大丈夫ですよ」
どうやら、タクシーを手配する際に稲盛さんが払ってくれたようだ。発端になった人とはいえ、これにはあとでまたお礼をしておこう。
「しずく、ついたぞ。降りれるか?」
「ん……」
うっすらと目を開けて、しずくは俺を見た。そして眠たげな表情のまま、俺に手を引かれてタクシーを出た。
「えっと、ありがとうございました」
「またのご利用、お待ちしております」
軽く会釈すると、タクシーはどこかへと走り去っていく。
「しずく、家の人はいるか?」
「ううん……明日の夜まで誰もいないはず……」
「そうか……」
しずくの家は、普通の一軒家だった。
外から見たところ、電気はひとつもついていない。となると、家に入るには鍵が必要だな。
「鍵はあるか?」
「バックの横ポケット……」
「分かった」
他のところは漁らないようにしながら、俺は家の鍵だと思われるそれを取り出した。そのまますぐに扉を開け、しずくを家の中へと連れていく。
さて、どうしたものか。
一階にあるのは、見たところリビングと洗面所だけ。しずくの部屋は、おそらく二階だ。しかし、今のしずくに階段を上らせるのは、さすがに抵抗がある。朦朧とした意識のせいで足を踏み外し、大怪我を負うなんてことがあるかもしれない。
「誰もいないんじゃ……仕方ないよな」
俺はしずくの靴を脱がせたあと、自分の靴を脱いだ。
「しずく、部屋まで連れていくぞ」
「うん……」
しずくを支えながら、俺はなんとか二階へ上がる。
いくつか部屋が並んでいたが、分かりやすくプレートに『SHIZUKU』と書かれた部屋があったため、開けて中に入った。
女子の部屋に入ったのは、これが生まれて初めてだった。
部屋全体から、しずくの香りがする。――――待ってくれ、自分で言っていて気持ち悪いことは理解しているから。
「ベッドに寝かせるぞ」
「ん……」
フラフラのしずくを、ベッドに寝かせる。
ダランとのびた足を、ドギマギしながらベッドに納め、上からタオルケットをかける。これならよく眠れるだろう。
横になった途端、しずくはすぐに寝息を立て始めた。
ホッとした俺はしばらくその顔を眺めていたが、ふとした拍子に恥ずかしくなり、目を逸らした。
やるべきことは終わったし、俺もそろそろ帰ろう。
そう思ってベッドを離れた、そのとき。
「じゅんたろう……」
「え?」
突然名前を呼ばれ、俺は立ち止まる。気づくと、しずくは俺の手を掴んでいた。起きているのかと思って声をかけるが、どうやら意識があるわけではないらしい。
――――寝言か。
そっと彼女の手を解き、ベッドを離れる。
「いかないで……」
「……」
俺は頬を掻き、振り返る。
寝言とはいえ、しずくからこんな風に言われてそそくさと退散できるわけがない。俺はベッドの脇に腰を下ろし、しずくの顔を覗き込んだ。
「おやすみ、しずく。よく頑張ったな」
労いたい一心で、俺はしずくの頭を優しく撫でた。
しずくの寝顔がどこか穏やかになった気がしたが……まあ、きっと気のせいだろう。