第二十九話 膝枕
真宮先生は、俺の淹れたコーヒーを一気飲みして、宿直室を出ていった。
そして入れ違いのように、しずくが姿を現した。
「お待たせ。今アキラちゃんとすれ違ったけど、なんか話してたの?」
「いや、特には。コーヒーが飲みたかったみたいで、一杯飲んだらすぐに出てったよ」
「そっか」
真宮先生とした話の内容については、一切触れるつもりはない。
俺たちからいくら休んでほしいと言ったところで、休みたくても休めない状況なのだから、しずくだって困るだけだ。
「しずくの分のコーヒーも淹れてあるぞ」
「ありがと!」
グラスを受け取ったしずくは、一気に半分ほどコーヒーを飲んだ。
「ふぅ……生き返るね」
「そいつはよかった」
畳にぺたんと座り込んだしずくに対し、俺は弁当を差し出した。
「お、これが朝言ってたお弁当だね」
「ああ、味は普通だと思うけど……あんまり美味しくなかったら残していいからな」
弁当箱を開けたしずくは、中身を見て感嘆の声を漏らした。
メインは生姜焼きと卵焼き、そしてウインナー。彩と栄養を考えて、ミニトマトと、茹でたブロッコリーを入れた。
「本当に、ザ・お弁当って感じだね。すごく美味しそうだよ」
「そう言ってもらえるとありがたいけど……」
「さっそく食べてもいい?」
「ああ、どうぞ」
「いただきます……!」
やけに嬉しそうな様子で、しずくは生姜焼きを口に運ぶ。
そしてパッと花が咲いたような笑顔を浮かべながら、俺のほうを見た。
「美味しいよ! この生姜焼き!」
「そうか……よかった」
俺はホッと胸をなでおろす。
「卵焼きもきれいに焼けてるし……やっぱり料理上手いね、純太郎」
「しずくにここまで褒めてもらえるなら、練習した甲斐があるよ」
しずくは、瞬く間に弁当を食べきってくれた。
その食べっぷりからして、美味しいと言ったのはお世辞ではなさそうだ。
「ふぅ……ごちそうさまでした」
「おそまつさま」
「お腹ペコペコだったから、すごい助かったよ。美味しくてボリュームもあって、こんなに満足感あるお昼ご飯は久しぶりだ」
「……弁当で思い出した。ずっと気になってたんだが、ロケ弁ってどんな感じなんだ?」
「うーん、有名なお弁当屋さんのやつを大量発注している感じ? 正直よく分からないけど、いつも美味しいよ。……まあ、あんまり食べられてないんだけどね」
しずくは困ったように眉をひそめた。
「食べ過ぎると、午後の仕事に支障が出ちゃってね……現場ではあんまりものを食べないようにしてるんだよね」
「支障って……」
「……眠くなっちゃうんだ。お腹いっぱいになると」
恥ずかしげに視線を逸らしたしずくを見て、思わず吹き出しそうになった。いや、まあ、笑い事ではないことは分かっている。
モデル上がりの新人が、現場でうたた寝してるなんて言語道断。
周りに失礼がないよう、気を遣うのは大切だ。
しかし、弁当を食べないようにしている理由が、まさかそんな可愛らしい理由だとは。
「もう、笑い事じゃないんだから」
「分かってるって。……ひとつアドバイスなんだが、そういうときは食べる前にコーヒーを飲んでおくといいぞ」
「え、そうなの?」
「カフェインは眠気に対して効果があるし、血糖値の上昇も抑えてくれるから、食後の眠気が弱まるみたいだぞ?」
食後でもいいが、俺の調べた限りでは、食前のほうが効果が期待できそうだった。先に飲むことによって、食欲も多少抑えられるし、食べ過ぎ防止にもなるから、一石二鳥。
ただ、カフェインには胃液を促進する効果もあり、胃腸が弱い人だと荒れてしまう可能性があるため、注意が必要だ。
「さすが、詳しいね」
「暇さえあれば勉強してるからな。知識は増えてきたと思うよ」
しかし、コーヒーにはあやふやな効果も多く、すべての効果が正しく得られるとは限らない。
研究の結果、ちゃんと効果が確認できた成分もあるが、人によって見解が違う部分も多いのだ。
大切なのは、すべてを鵜呑みにせず、自分で根拠のある答えを探すこと。俺はコーヒーが大好きだが、盲信はしていない。
コーヒーを飲んでいれば長生きできるなんて、そんな根拠はないからだ。
「じゃあ、マネージャーに頼んでコーヒーを用意しておいてもらおうかな……」
「それがいいと思う」
「ていうかさ、純太郎を常に連れ歩いたら、全部解決するんじゃない?」
「え?」
「お弁当とコーヒー、どっちも純太郎に頼れるじゃん」
「嬉しいことを言ってくれるが……それは不可能だな」
「うん、まあ、そうだよね。名案なんだけどなぁ……不可能という点に目を……瞑れ……ば」
「……しずく?」
突然、しずくが船を漕ぎ始める。
今にも瞼が落ちそうだ。相当眠気が来ているらしい。
「ごめん……久しぶりにちゃんとお昼を食べたからかな……コーヒー飲んだのに……眠気が……」
「……仕方ない、効果には個人差があるんだから。まだ時間あるし、少し寝るか?」
「いいの、かな」
「少しでいいから寝たほうがいい。ここなら誰も見てないしさ」
「……分かった、じゃあ……ありがたく」
そう言いながら、しずくは俺のほうへ倒れかかってきた。
とっさに受け止めようとしたが、彼女はそのまま俺の手をすり抜け、膝の上に頭を置いてしまう。いわゆる、膝枕というやつだ。
――――どうしよう。
思わぬ密着に、俺の胸は激しく高鳴る。
しかし、膝の上で安らかな寝息を立てているしずくを見ているうちに、心は徐々に落ち着きを取り戻していった。