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大きく溜息をつく。
だよね、よかった哲を捕まえられて。
「それ、秘密にしておいてくんない? これから一緒に仕事をするらしくて、課長のほうも担当するから会う確率多そう」
「親父さん、何やってんの?」
「マーケティング。私高校生だったから、会社名とか忘れてたわ。向こうも気まずいだろうし、知らない振りしておいてくれないかな」
哲は腕を組みながら、私の横で壁に肩をついてもたれてる。
小さく唸ってるのも聞こえる。
まぁ、親が離婚しただけだから別に隠す必要ないし、私の大人だから関係ないっちゃないんだけど。
「ほら、一応部長さんらしいし、部下の人もいるし。それ以上に、向こうにはちゃんと家族ができてるから、まずいでしょ?」
「……まぁ、そうだな。でも、美咲はそれでいいのか?」
その声に哲を見上げる。
「私はそのほうがいい。だって仕事しにくいもの」
「――そりゃそうだ。じゃ、知らん振りってことで」
その言葉にほっと溜息をつく。
「じゃ、よろしく。ごめんね、時間とらせて……」
そう言って壁から背中を離そうとして、目の前にいきなり出てきた黒い影に慌てて動きを止める。
目の前になぜか、哲の体。
背中を壁につけて、少し見上げる。
「何?」
「もう少し、ここにいない?」
「なんで?」
「いたいから」
哲の胸に拳を当てて、ぐぐっと力を入れる。
「どいて、哲」
「やだね」
「殴るよ」
「それも嫌だな」
カチンと頭にきて、右手の拳に力をこめる。
殴ろうとした右手を、哲の左手が止めた。
「殴られたくないし」
「哲」
私の声に、哲は溜息をつく。
そのまま、右の手の平で私の頬を撫でる。
「顔、やばいよ。それで企画室戻ったら、皆心配する」
頬に触れる哲の手を払おうとしていた私の左手が止まる。
「え……?」
「辛そう」
顔を上げると、眉を顰める哲の視線とぶつかる。
「つ……らそう?」
「あぁ」
――忘れなきゃ
目を瞑って、深く息を吸う。
忘れなきゃ。あの人は、ただの取引先の人。私には関係ない。
感情を鎮めるために、頭の中でそんなことを繰り返していたら。
ふわりと、身体が温かくなる。
「……?」
瞑っていた目を開けると、目の前に哲のスーツ。
「こらこら、哲くん。何をしてるのかね」
背中に両手を回して、私を抱きしめる哲に冷静に突っ込んでみる。
哲はまぁまぁと笑いながら、それでも腕の力は緩めない。
「いいじゃねぇか。たまには俺にも、ぬくもりを頂戴よ」
「うっわ、何その話し方。私は湯たんぽじゃありませんー」
ぷはっ、とお互い噴出す。
私は哲の背中に片手だけ回して、ぽんぽんと叩く。
「ありがと、気を遣ってくれて。さ、戻らないと。課長に文句言われちゃうよ」
「確かにな。あぁ、でも一緒に戻ったら怖そうだな。あの無表情の下で、すげぇ嫉妬してそう」
「ははっ。そんな大層な女じゃないよ、私。さ、急ごう」
哲の腕から離れて、ぱたぱたとドアのほうに向かう。
後ろから哲がゆっくりと歩いてくる。
「――鈍感」
ぼそりと何か呟いていたけれど、ドアのきしむ音で聞こえず振り返って首を傾げる。
「何か言った?」
すぐ後ろまで来ていた哲は、肩を竦めて首を振った。