6
さすがに光量の落とされた廊下は、薄暗い。
IDをチェックに通しながら、企画室へと歩いていく。
給湯室と資料室、大小の会議室を過ぎてどんづまり。
企画室のドアに設置された小さなすりガラスから、光が漏れる。
――あれ? まだ課長いるのかな?
さっきあがる時、まだデスクに向っていた課長の姿を思い出す。
ちょっと躊躇しつつ、ノックの後ドアを開けた。
「失礼します……」
ドアの反対側、窓際の席に課長の姿。
さっきと寸分違わぬ状態で、仕事の真っ最中らしかった。
顔を上げてこちらを見る。
「なんだ久我、忘れ物か?」
「はい、すみません。……お邪魔します」
私のデスクは手前だからお邪魔も何もないけれど、なんとなくね。
うん、なんとなく。
そろ~っと部屋に入って、自分のデスクの上に置いてある携帯を手にとる。
そのまま戻ろうとしたら、課長に呼び止められた。
「久我、瑞貴はどうだ? 慣れてきたか? ここに」
――戻って寝たい……
なんて、頭の中で考えてしまったのは仕方ないよね……
ドアノブを掴もうとしていた手を下げて、課長の方を向く。
課長は椅子から立ち上がって、机に寄りかかっていた。
「慣れてきたようですよ。まだまだ仕事の段取りは甘いかもしれませんが、それでも本人なりに頑張っているようです」
幼馴染の欲目を引いても、奴は頑張っていると思う。
確かにまだまだかもしれないけれど、努力してるのは分かる。
課長はそうか、と呟いて私を見た。
「お前が結婚できないと言った俺の考え、聞きたいか?」
「は?」
また突然な話の展開で。
私の考えが読めたのか、ほら……と言葉を続ける。
「気にしていたみたいだから」
大体聞いたのに教えてくれなかったんじゃないか! ――は、口には出さずにおこう。
「そりゃもう。乙女心はずたずたですから」
「お前に、乙女心なんて初めからあるのか?」
――
この親父……。
自分と三歳しか離れていない課長に向って失礼かもしれないが、殴りたい衝動に駆られるのは仕方ないと思わない? ねぇ?
課長は私のほうに歩きながら、話し始める。
「お前、この仕事好きだろう?」
――
「? 好きですが」
それが何か? と、無言で首をかしげる。
「恋愛より、今は仕事だろう?」
――そりゃま、そうかもしれませんが。
「まぁ……」
なんとなく全肯定したくなくて、曖昧に返事をする。
課長は私の前に立つと、満足そうに頷いた。
「だからだよ。こんな勤務時間も適当な職場にいて、積極的に恋愛を求めているわけじゃない。そんなお前が、あと一年三ヶ月で恋愛と結婚をこなせるとは思えないが」
――――あのさ、あのね?
私はがっくりと肩を落としながら、ふるふると首を振った。
「あの課長。別にそこまで考えて“結婚したいわ~”なんて言ってるわけじゃなくて、夢っていうか願望って言うか……」
それ以上に、その冷静なご判断。
身に沁みます――涙でそうだわ。
課長は、そうか、なんて冷静にご返事されていますが。
私の乙女心はずたぼろ――
って、まぁそこまですぐに結婚したいわけじゃないし?
ただ、加奈子と話しててノリで言ったというか。
それに真面目に返されて、かちんと来たというか。
はぁ、と大きく溜息をついて課長を見る。
「とりあえずもういいです、この話。なんか聞けば聞くほど現実が見えてくるというか――」
ぶつぶつ呟きながらドアの方に歩き出そうとした私の腕を、課長が掴んだ。
「――え?」
これはさすがにドキッとする……よね? していいんだよね?
でも相手が課長だからな。
何も考えてない人だからな。
ドキドキ損だ、と勝手に言葉を作り出しながら、課長を見る。
「なんですか?」
課長は腕を掴んだまま、私を見る。
「もう一つ、お前が恋愛できない理由がある」
――
「あの、私を怒らせたいんですか?」
強制的に終わらせた話を、また蒸し返すか。
顔が引き攣ってるのが分かるけど、隠しませんよ。
思いっきり、イラッときてますので!
課長はそんな私をじっと見つめながら、左手を口元に当てて笑いをこらえている。
えーえー、面白い顔してるんでしょうよ。
「お前が鈍感だからだ」
「はぁ?」
自慢じゃないが、人の顔色読むのは得意だぞ!
なんたって、哲がらみで周りの女共からさんざん使われてきたからね。
妬まれても来たし?
だいたい、お前の方が鈍感だろう!
こんなに、もう帰りたいんですけどオーラだしてるのに気付かないなんてねっ。
「納得できないって顔だな?」
「そりゃ」
思わず出た言葉を、飲み込む。
―― 一応上司
頭の中で、何度も繰り返す。
「だってお前、ちっとも気がつかないじゃないか」
「――は? 何をです?」
「お前を好きな奴」
――私の事を好きな人?
思っても見ない言葉に、首を傾げる。
課長の知ってる人で、私を好きな人がいるって事?
でも共通の知人ってこの企画室の人だけだと思うけど……。
え……と、斉藤さん、ありえない。間宮さんは彼女持ち。哲は論外。
他に、誰?
「ほら、気づいてないだろ?」
「え、誰……?」
ぐっ……と、課長が掴んでいた私の手を引いた。
「俺」
――は?
傾いた身体を、課長の両手が受止める。
「だから、俺」
「――なんの冗談……」
私を抱きしめる課長の手の力に、私の言葉は続かなかった。