9
「あれ? 諦めたのか?」
私が力を抜いたのに気付いたのか、課長が珍しそうな声を上げた。
その言葉に、ふてくされた声を返す。
「どー逆立ちしても無理っぽいんで」
「珍しい、負けず嫌いの久我なのに」
「いくら負けず嫌いでも、やって無駄だと思ったらあきらめるんです」
こんな時に、筋肉使うなんてずるいっ。
どんなに頑張ったって、一応は女の方に分類される私ですからね。
力でこられたら、他の手を考えるしかないでしょう。
隙? 隙を探すしかないってこと?
いつの間にかぶつぶつと口に出していたようで、課長の手のひらに力が入る。
「隙なんてないぞ、俺に。お前は隙だらけだけど」
「へ?」
思わず見上げたのが悪かった。
そのままの流れで後頭部にまわった手が、頭を固定する。
やばっ……と、逃げようとする前に、軽く課長の唇が私のそれに触れた。
「!」
でもそれは一瞬で。
次の瞬間、腕を解いた課長は私から離れて自分の机へと足を向ける。
「今日は俺が帰る、お前仕事していけ」
いつもの声音に戻りつつ、いつもの課長に戻りつつ。
それでも、いつもより少し楽しそうな声がパソコンに向かう課長の口から流れる。
「は……?」
突然離されて突っ立っていた私は、なんとなく間抜けな声を返す。
パソコンの電源を落とした課長は、コートを羽織ると鞄を手にこちらに戻ってきた。
「なんだ? 物足りないか?」
「そんなわけないですっ!!」
なんで襲われてたほうが、物足りないと思うかコノヤローッ!
ぎりっと音がしそうなほど睨む私に、拳を口元に当てて笑いをこらえた後、ふぅと息を吐く。
「俺を帰してまでやりたかった仕事だろ? ちゃんとやれよ。光熱費、会社経費なんだからな」
「なっ」
いきなりいつもの課長口調に、まだ立ち直りきってなかった私の意識がバッチリ目覚める。
「いっ、言われなくてもっ!」
見上げた課長の表情はいつものに戻ってて、口端を上げてにやりと笑う。
「明日を楽しみにしてるさ」
そう面白そうに言うと、ドアを開けて出て行った。
横目でパタンと閉まるその音に、弾かれた様に動き出す。
「くそうっ、見てやがれ!」
思わず誰もいないドアに向かって指を向け、大声で怒鳴った自分にしばらく立ち直れなかった。
だってさ。
だって。
確かに思っちゃったんだもんっ
あれ、これで終わり? って
「わぁん、私のすけべーっ」
違うのよ、違うのっ!
筋肉が好きなのっ!
そう、いつもの課長とその筋肉のギャップにやられただけだからっ!
って……
「そっちの方が、変態じゃん……」
余計がっくりとうなだれたまま、私はパソコンの電源をぽちりと入れた。