斉藤さんに、春は来ないのか?
と、疑問に思ったので書いてみました。
「さーいとーさーん」
駅への道を歩いていた斉藤は、後ろから呼ばれて顔だけをそちらに振り向けた。
そこには駆け足で近づいてくる見慣れた女性社員に、おう、と応えて立ち止まる。
「久我、なんだ今帰りか」
「はい、斉藤さんも?」
息を切らして斉藤のもとにたどり着いた美咲は、肩で息をしながら斉藤を見上げた。
同じ企画課の久我美咲は、確か今日広報部との打ち合わせで一日中企画室にいなかった。
斉藤は持っていた鞄を脇に抱えると、美咲の頭をぽんっと軽く叩く。
「運動不足なんじゃないのか? 課長と一緒に、運動すりゃいいのに」
「無理です。朝五時起きでロードワークとか、考えらんない。勝手にやれ、私は起きないって感じです」
にっこりまーくが付きそうなくらいの満面の笑みで、美咲は即答した。
それに苦笑しながら歩き出した美咲と、肩を並べる。
「んで、どーよ? 新婚家庭は」
隣を歩く美咲の頭は、斉藤にしてみれば随分下にあって。
実は企画課の中で一番背の高い斉藤は、歩きながら美咲と話すことは結構な難儀事項だったりする。
ある意味、哲より。
それを美咲も分かっているのか苦しくない程度に上を向いて話すものだから、きっと傍から見ればおにーちゃんと妹を地でいっているように見えるのだろう。
斉藤と仲のよかった美咲だが、その事で同僚から何か言われたことはない。
斉藤に関しても同様で、美咲とのことを何か言われたこともなく、自他共に認める”仲のいい同僚”として存在していた。
美咲は斉藤の問いにうーんと小さく唸ると、どうだろ、と首を傾げる。
「思ったよりは、楽な距離感です。かね?」
「なんで疑問系。まぁでも楽ならいいんじゃねぇか? これからずっと一緒にいるのに、新婚三か月でもう傍にいたくないとかになったら、この先辛いよなぁ」
「まぁ、そうですね。ていうか、課長がほとんど家にいないっていうのが本当なんですけどね」
家にいない?
一瞬疑問に思えたけれど、すぐに納得した。
「確かにな。独身時代も結婚してからも、課長が残業無しで帰るところなんて見ないからなぁ」
ですね、と美咲は苦笑した。
美咲と結婚した加倉井課長は、彼女にとって夫であり同じ課の上司。
本来ならどちらかが移動するべきなんだろうけれど、会長の鶴の一声でその話は立ち消えになったとかならないとか。
確実に佐和が、一枚かんでると見たが。
その時に会長が言った言葉がなぜか社員間で噂になっていて、それまで美咲のことをあまりよく思っていなかった社員も気にしていなかった社員も含めて彼女に対しての負の感情を引っ込めた。
――“結婚って理由で、業績を下げる辞令を出す意味が分からない。彼女以上に企画課で業績を上げられる人間を、見つけてきてから文句を言え”
人事部長は、屈辱に顔を真っ赤にして会長室を去っていったという。
まぁ、人事部長、加倉井課長が嫌いだからな。
加倉井課長自身も業績を認められて、あの若さで課長職に付いた人間。
昔ながらの考えを持つ人事部長にしてみれば、到底許容できる人事異動じゃなかったんだろう。
まぁ、課長のあの無愛想無表情にも問題があるとは思うけど。
斉藤はふむと呟いて、美咲を見下ろす。
「じゃぁ、久我は寂しいなぁ。新婚なのに旦那が早出残業じゃ」
「え、全然」
その即答に、思わず目を丸くする。
美咲は斉藤のその態度に笑いながら、苦笑気味に口端を上げた。
「だって、会社でいやってほど顔見てますから」
……そうか。
そうだな。
「おんなじ部署だもんなぁ」
「ですよ。まぁ帰りに声掛けて帰宅時間を聞けるから、夕飯が無駄になる事がないって言うのがメリットですかね」
「それだけかよ」
もっと可愛らしい言葉はないものかねぇ。
「醒めてる新妻で」
「ちょっ、やめてくださいよその呼び名! とうとう田口さん達にまで伝播したじゃないですか!」
「わーり」
全く感情のこもらない棒読みで謝ると、なぜかニヤリと美咲が笑った。
その笑みに何か黒いものを感じて、思わず斉藤は足を止めた。
「……ボディーブローとローキック。どっちがいいですか?」
「どっちも勘弁! じゃあな、久我!」
丁度美咲が曲がる路地に指しかかっていた事もあり、斉藤は笑いながらそこを後にした。
斉藤は会社から五つ目の小さな駅を、アパートの最寄り駅としている。
普通電車しか止まらない通勤には至って不便だが、斉藤はその駅を気に入っていた。
まぁ、急ぐ時は徒歩で隣の急行の止まる比較的大きな駅までいってしまえばいいわけだし。
いつもどおり改札を出て、高架になっていないその駅を出る。
まだ暑い盛り。
額の汗を袖で拭うと、ロータリーに程近い小さな喫茶店に足を向けた。
そこは斉藤がこの駅を使うことを決めた、最大の理由がここにあった。
レトロといえば聞こえがいいが、古い昔ながらの喫茶店。
ただ、物凄く珈琲が上手い。
もともとそこまでこだわりがあるわけじゃないが、一口飲んで虜になってしまった。
砂糖は別に入れなくてもいいけれどミルクだけは必須だったのに、ブラックでしかの見たくないと思わせるほど。
一度珈琲党の間宮をつれてきたら、あまりの上手さに絶句してた。
マスターと呼ばれるのが恥ずかしいという六十歳を過ぎた辺りのそこの主人を、三十代の自分が”いちさん”……宮下 希一……とあだ名で呼んでしまえるほど時間があれば通い詰めている。
ちなみに奥さんが作る軽食も上手い。
まぁ、サンドウィッチとナポリタン、オムライスしかメニューはないけれど。
そのこぢんまりさも、とても気に入っていた。
自分には似合わないとは思うけど、通うのは止められない。
今日は早く帰れたから、オムライスでも食べようかな。
二人前。
すでに口の中に卵とケチャップの味が広がる気がしながら、目当てのガラス戸を押し開けた。
「いらっしゃいませ」
「……」
いつも聞こえてこない声に、思わずドアを閉めて小さな看板を確認する。
あれ、あってるよな?
「……? あれ、女の子?」
呟きながらもう一度ドアを開けると、カウンターに苦笑したいちさんがこっちを見ていた。
「よしくん、そんなに驚かなくても」
「え? いやだって」
ちなみに、斉藤自身は良成という名前から”よしくん”と呼ばれている。
動揺したまま視線をめぐらすと、さっきと同じところに女の子が立っていた。
「あの、いらっしゃい、ませ?」
こわごわと、言葉を切るように挨拶をしてくる。
斉藤は幾分落ち着いてきた脳内を何とか切り替えて、口を開く。
「はい、いらっしゃいました」
「……」
思わず、お互いに見つめあう。
それを遮ったのは、聞きなれた奥さんの笑い声。
「ちょっ、よしくん! 面白すぎだから、何、いらっしゃいましたって!!」
けたけたと笑いこける奥さんは、苦しそうにカウンターに上体をのせて悶えていて。
「動揺しすぎだよ、よしくんてば」
隣でそんな奥さんを見て苦笑しながら、いちさんが棚からカップを取り出した。
「ほら、沙奈ちゃんもカウンターに案内してあげて」
斉藤と同じ様に固まっていた女の子……沙奈と呼ばれたその子は、たどたどしく歩き出す。
と言っても、ガタイのでかい斉藤にしてみればたった数歩でたどり着いてしまうわけだが。
いつものカウンター席に腰を下ろすと、やっと斉藤は口を開いた。
「いちさん、女の子雇ったの?」
出されたお絞りで手を拭きながら、目の前でコーヒー豆を挽くいちさんに話しかける。
注文を受けてから豆を挽くから、普通のコーヒーショップよりでてくるまで時間が掛かるけれど、その間に漂ってくる香りも楽しみの一つ。
企画課の奴らが聞いたら、噴出されそうな気がするが。
いちさんは挽き終えた珈琲を布製のフィルターにいれて、お湯を落としていく。
「私の姪っ子なんだよ。大学四年でね。こっちに就職先があるから、最近引っ越してきたんだ」
「へぇ? じゃぁ、卒業までのバイトってことか」
「そうなのよー。まったくこんなちっちゃい子、通勤ラッシュとか大丈夫かしらねぇ」
いつの間にか傍に来ていた奥さんが、珈琲についている小さな焼き菓子をカウンターに置いた。
その横に沙奈が立っていて、奥さんに教えてもらいながら伝票に珈琲の名前を書いている。
「潰れるかもなぁ。ラッシュの時間ずらすか、住む場所を考えるか。あ、オムライス二人前お願い」
書き終えた伝票をしまおうとする沙奈に声を掛けて、注文を告げる。
「あ、はいっ。オムライスをお二つ……?」
「……なぜ、疑問系だよ」
首をかしげながら周囲を見渡す沙奈に、突っ込んでみる。
周りを見ても、誰もいないよ。
沙奈は不思議そうな顔を斉藤に向けて、あの、と口を開いた。
「お連れ様が、いらっしゃるんですか?」
綺麗な言葉遣い。
さっきは気付かなかったけれど、高すぎない可愛らしい声に、斉藤は知らず笑む。
「いや、俺一人」
「え? じゃぁ、私の聞き間違い?」
「いや、二人前。俺一人で、二人前。よろしく」
めをまんまるくして俺を見た後、奥さんに視線を移して小さく首を傾げた。
まるで外国人を初めて見た日本人のように。
奥さんはけらけらと笑いながら、まっててねーと沙奈を促して厨房に入っていく。
「沙奈ちゃんちは、女ばかりで男といえば父親……私の弟だけど、あいつもそんなに食べないからね。よしくんみたいに沢山食べる人を見るのが、もしかして初めてなのかも」
いちさんが淹れ終わった珈琲をカウンターに置きながら、くすりと笑った。
「まー、男の部類でいっても俺は食う方だからなぁ。カルチャーショック状態っすかね」
「かもね。二十二歳で男っ気がないのも、あれだけどねぇ」
厨房にも聞こえているのか沙奈が、叔父さん酷い、と声を上げている。
オムライス二人前でも腹八分目なんだけど、と言ったらいちさんまで目をまるくしてたよ。
「お待たせいたしました」
常連さんが入ってきてその対応にいちさんが行った後、腕をふるふると震わせながら沙奈が両手にオムライスを持って厨房から出てきた。
っていうか、あぶなっかしいったらありゃしねぇ。
慌てて立ち上がると、手を伸ばして両手から皿を取り上げる。
「一度に運んでこなくても。落としちまうよ?」
沙奈はなんなく俺に持っていかれるオムライスの皿を目で追って、申し訳なさそうに肩をちぢこませる。
「あの、すみません」
斉藤はさっさとスプーンを手にとってオムライスを口に放り込んでいたが、タイミングをはずしたように謝る沙奈に苦笑した。
「謝ることじゃないけど、落としたら怪我するよ。ってか、今日のオムライスいつもと味が違うなぁ。すげぇ旨いんだけど、なんか作り方変えた?」
丁度他の常連さんにサンドウィッチを持っていって帰ってきた奥さんに声を掛けると、意外な答えが返ってきた。
「沙奈ちゃんが作ったのよ~。この小、調理師免許持ってるから」
「へ?」
この子が?
思わず目の前に立ったまま自分を見つめていた沙奈を、見上げる。
と言っても、カウンターに座る斉藤と中で立っている沙奈にあまり身長差はない。
不安そうに俺を見ていた理由はそれか、と納得した斉藤はにかっと笑った。
「すげぇ旨いわ、これなら三人前頼めばよかった」
給料日過ぎだしと言いながらオムライスを口に運ぶと、それを見ていた沙奈が綻ぶように笑顔を見せた。
「自分の作ったものをおいしそうに食べてもらえるのって、本当にしあわせですね」
おどおどとしていた沙奈が、嬉しそうに笑う。
斉藤はその変化を口にスプーンを突っ込んだまま見つめていて。
「えーと、よ、よし……さんは、気持ちいいくらいおいしそうに沢山食べてくれるので、とても嬉しいです」
よし、さん。
初めて呼ばれるその呼び名に、初めて言われるその賛辞に。
そして何よりも、初めてみる沙奈の笑顔に。思わず顔に血が上っていく。
「あ、あ、え、と。……ありが、とう」
何を言っていいのか分からず、御礼を言い返すとニコニコと笑う沙奈から視線を外して無心にオムライスを口に放り込んだ。
それはさながら、猛獣を餌付けする飼育係のようだったと、常連さんは後日語ったという。
笑い込みで。
それからこの喫茶店では、頻繁にやってくる斉藤の姿が見られたという。
「へー、で? もう付き合ってるとかないんすか?」
本社五階。一番端にある企画室。
そこには斉藤以外の人間が、のんびりと珈琲を飲んでいた。
斉藤は残業こそすれ、七時過ぎには帰る日が続いている。
それを疑問に思った美咲が、間宮に聞いたのが発端。
その間宮は、喫茶店の常連に聞いたらしいが。
「ないみたいだよ? いつも珈琲とオムライスを食べて、帰っちゃうらしいから」
「斉藤さんらしいけど、それじゃ先に進まないっすよ」
哲が背もたれに体重をかけて、笑いながら背を伸ばす。
「まぁ、いいんじゃない? まだ若い子だし、あまり最初から攻めていっても逃げられちゃいそうだしね」
間宮がにっこり笑って言うのを、引き攣りながら美咲が答える。
「間宮さんて、意外な言葉を使いますよね」
「そう?」
ふふふ、と笑う間宮さんの後ろに、氷山が見えます!
「若いってどれくらいなんだ?」
聞いてるのかよく分からなかった課長が、PCから顔を上げる。
間宮は小さく唸ってから、口を開いた。
「年齢は大学四年って言ってたから、二十二歳くらいなんでしょうけど。見た目は十代ですね。十七・八くらいにしか見えない」
「わぁ、斉藤さんと十歳近く違うんですね。確か、三十一歳でしたよね」
間宮と同い年の斉藤。
間宮はそうだね、と頷いて爽やかな王子スマイルを見せた。
「二人の見た目から、ロリコン認定されてるらしいよ。喫茶店では」
知らぬは本人達だけってね?
久々に見た爽やか王子スマイルは、見なければよかったと企画課を沈めたらしい。
その頃、本人達は。
「沙奈、オムライス二人前で」
「良成さん、お仕事お疲れ様です」
恋の始まりを見た、と常連さんが言ったとか言わないとか(笑




