君だけを見つめていた 10
――今日という日の終わり 加倉井家――
side 宗吾
「流石にびっくりしたな、瑞貴には」
食事会が終わり、宗吾と美咲は新居となる宗吾のアパートに帰ってきた。
美咲にとっても既に見慣れた部屋で、式を終えたとはいえあまり結婚した実感が湧いていない。
そんな中、寝る前に一息と、二人でカフェオレを飲んでいた時の事。
宗吾が、目の前に座った美咲に口を開いた。
「お前は、知ってたのか?」
「ううん、全然」
両手でカフェオレの入ったマグカップを包む美咲は、きょとんとした顔で頭を横に振った。
「ドアの前でいきなり言われてびっくりした。うちの親が哲に頼んだって。ホント、何を考えているのか」
呆れたような声で溜息をつくのは、瑞貴に申し訳ないと思っているからだろう。
俺でも、そう思う。
けれど。
「まぁ、久我部長は何も知らないとは言え、適役をキャスティングしたと思うが。あそこで瑞貴にこられたら、俺は絶対にお前を大切にしなきゃいけないと強く思わされるからな」
「何それ。哲じゃなかったら、大切にされないってこと?」
頬を膨らませて睨み上げてくる美咲に、思わず苦笑する。
「いや、俺が思う以上にそう感じさせられるってことだ」
「ふぅん?」
納得したのかしないのか、美咲は微妙な返答をして溜息をつく。
「まぁそれにしたって、哲には悪いことしちゃったな。やっぱり、ちゃんと謝ってこようかな」
――謝って、こようかな?
美咲の言葉を反芻してから、は? と聞き返す。
「え、だって今頃皆で酒盛り中でしょ。ご飯のストック作ってきたし。さっき、来る? って聞かれたじゃないですか」
あぁ、聞かれたな。
俺が速攻断ったけど。
「ここから哲んちまでそんなに遠くないし、まだ電車あるし」
そう言うと、テーブルにマグカップを置いて美咲が立ち上がる。
つられるように宗吾も立ち上がると、美咲の横に立った。
「今から、いくつもりか?」
宗吾が真横に立つと圧迫感があるらしく、まだそれに慣れない美咲は少し後ろに下がって見上げる。
「うん。いいですよね?」
「いいわけないだろ」
頷かれるとでも思っていたのか、宗吾の言葉を聞いて顔を顰めた。
「でも、早く謝りたいんですけど。気になると嫌なんですよね」
「……謝られても、瑞貴は喜ばないと思うが」
思ったことを、口にしてみた。
内心、決して私情は挟んでないと繰り返しながら。
少なくともあの役目を受けたということは、自分の中で納得したからだろう。
それを美咲に謝られれば、変に空しくなるだけじゃないか。
美咲はそうかなぁと首を傾げているが、こればかりは納得させなきゃならない。
まさか会社で言うとは思わないが、もうこれ以上、瑞貴を動揺させるなと言いたい。
「瑞貴は自分で納得して、お前と歩く事を決めたんだ。なのに後からまたそれを謝られてみろ。お前は、瑞貴に後悔をさせたいのか?」
「そんなこと……っ」
口を開く美咲の腕を、ぎゅっと掴む。
「美咲が蒸し返せば、また考えなきゃいけない。瑞貴は大人だ。美咲は小さな頃から見ているからいつまでたっても可愛い弟なのかもしれないが、あいつは二十八歳の大人の男だ。あまり、情けなくさせるな」
畳み掛けるように諭すと、美咲は開いていた口をパクパクとさせた後噤んで、ゆっくりと頷いた。
「そうですよね。うん、哲は大丈夫。……分かっちゃいるんですけどね」
はは……、と軽い笑い声を上げる美咲を、ゆっくりと両腕で囲う。
途端、がちっと音がしそうなくらい美咲の動きが固まった。
「瑞貴に対しての言葉は本音だが、もう一つ俺の本音がある」
「ほん、ね、ですか?」
見下ろす先の美咲は、確実に逃げる隙を探している。
分かりやすい行動に苦笑しつつ、夫婦になってからも逃げられそうになる俺って一体……と思わず溜息を吐いた。
「なんで新婚初日の夜に、妻から他の男の名前を連続して聞かなきゃならない」
しかも今から謝りに行くって、どーいうことだ。
美咲はぼわっと見える場所全ての肌を真っ赤にして、何か意味不明なうめき声を出している。
何をそんなに照れるのか。
俺からいわせれば、挙式の方が恥ずかしい。
衆人環視の中、一日だけクリスチャンになって神に祈る。
誓いの言葉を交わして、誓いの……
そこまで思い出して、にやりと口端を上げた。
「そういえば、美咲。誓いのキス、普通は額なのか?」
「うぇっ?」
焦ったように宗吾の胸に手を置いて、押しのけようとする姿が面白くて可愛い。
挙式の時あれだけ空気読めと周りから脅されたが、キスする時になって美咲が小声で“おでこ”と呟いて少し屈んだまま動かなかったのだ。
額をこちらに見せて俯いているから、三十センチ近く身長差のある美咲の唇にキスをすることは出来なかった。
それはそれで、安心したのだが。
なんとなく、拒否されたようでカチンときたのは確か。
あぁ、勝手と言われてもいい。
拒否されるのは、我慢ならない。
少しだけ腕の力を弱めると、美咲はここぞとばかりに俺の腕の中から出ようともがく。
その姿に笑いを堪えながら、彼女の腰と後頭部に両手を回して一気に引き寄せた。
「えっ、わっ」
逃れられると思わせて、それをさせない。
きっと、美咲の頭の中はパニックに陥ってるはず。
まだこういう雰囲気に弱い彼女に、愛しさを覚える。
優しくしてやりたい。
少なくとも俺より三歳年下の、妻、なんだから。
けれど、“瑞貴の所に今から行く”というその発言に、意地悪くらいしても罰は当たらんと思い直した。
「美咲」
ゆっくりと、ことさら優しく言葉を紡ぐ。
昔取った杵柄。
営業の頃の笑顔を前面に出す。
意識的に低く出した声を掠れさせ、美咲の耳元に囁いた。
「瑞貴の話なんて、今、俺は聞きたくない」
ただでさえ、あいつに最初の言葉を取られたんだ。
俺が、最初に言いたかった。
“綺麗だ、美咲”と。
「か、課長?」
「課長じゃない。お前、いつまで俺を役職で呼ぶつもりだ」
名前で呼べと言っても、なかなか出来ない。
美咲は相当パニックに陥ってるらしく、涙目になりながらなにやら言い訳を言ってるが無視。
「美咲、分かってるのか?」
「え? 何が……」
「今日。これから……」
ゆっくりと、顔を近づけていく。
固まったように、まん丸な目をいつもより見開いてこちらを見上げてくる美咲に、目を細める。
心の準備とかいろいろ面倒なことを言われる前に、先手必勝。
「新婚、初夜、だ」
ことさらゆっくりと、それを伝える。
そのまま、美咲の唇に自分のそれを重ねた。
パニックな頭が落ち着かないのか、なされるがままで。
それに便乗して、角度を変え深く合わせていく。
固まっていた美咲は深くなっていくキスでやっと我に返ったのか、ぎゅっと宗吾の胸元を押してきた。
まだ、逃げようとするか。
思わず腕に力が入り、びくりと美咲の身体が震えた。
逃げようと奥に縮こまる舌を、吸い上げ絡める。
飲みきれない唾液が、美咲の口端から零れるのを見てゆっくりとそれを口で追った。
耳元では、美咲が離された口で懸命に息を吸い込む音がする。
可愛い、な。
口元が緩むのを感じつつ、首筋から鎖骨に唇を這わしていく。
もう、瑞貴の事は考えるな。
いくら恋愛感情がないとはいえ、面白くない。
……お前は、俺のもの、だ。
そう心の中で呟きながら、服を脱がすために美咲の身体から腕を解いた時。
「あえて口に出すな、このエロ上司ぃぃぃっ!!」
その隙を狙ったのか、ただ単に覚醒したのがその時だったのか。
宗吾の腹筋に、美咲のボディーブローが吸い込まれた。
「……、っつ……」
瞬間的に腹筋に力を入れたが、若干間に合わなかった。
まさかのタイミングで、得意技が繰り出されるとは――
右手で腹を押さえると、美咲はずさっと二.三歩俺からはなれて後ずさった。
「今時、今日はしょ、しょ、しょ……とか言う奴がいるかぁぁぁっ! 真崎じゃあるまいし!!!」
それだけ言うと、美咲は噛み付きそうな唸り声を上げて寝室へと逃げ込んでしまった。
バタンッと、音を立ててドアが閉まる。
その場に残された宗吾は、腹をさすっていた手で首元を押さえると寝室の前に立った。
あー、調子に乗りすぎたか?
ていうか、真崎に言われてたのか。
余計な事を。
ドアに片手を置きながら、溜息をつく。
「美咲、悪かった。つい、調子に乗った」
「知りませんっ」
内開きのドアを、中から体重を乗せて押さえているらしい。
まったく、ホントに面白い奴だ。
宗吾は”美咲”と、部屋の中に呼びかけた。
「仕方ないだろ? お前は瑞貴の話ばかりするし。俺が嫉妬するとか思わないのか?」
「課長が嫉妬とか、わかんない」
「俺は嫉妬深いんだって、最初に言ったよな?」
付き合い始めた翌日、瑞貴の家で。
「でも、相手は哲だし。恋愛感情ないし」
「なくても、自分の嫁の口から結婚式当日に他の男の名前が出てきたら、面白くない。そうじゃなくても、俺の事は課長と呼ぶのに」
子供っぽいと思われても仕方ない。
気に食わないんだから。
部屋の中が、静かになる。
あれ、余計怒らせたか? と首を傾げていたら、細くドアが内側に開いた。
宗吾を伺うように、そっと下から見上げてくる。
どうしたのかと思ったら、不安げに口を開いた。
「すみません、怒っちゃいましたか?」
――まずい、可愛い。
いや、二十九歳の女に可愛いはどうかと思うが、童顔の上にちっさいからそうとしか見えん。
宗吾はにやつきそうな口元を片手で押さえて、神妙な表情を作る。
「怒ってはいないが、少し悲しいな」
「……っ」
その目が揺らぐ。
「あの、すみません」
少し俯きがちに謝ってくる美咲の頭に、手を置いてゆっくりと撫でる。
「名前、呼んでくれないのか?」
俺の声に戸惑うように視線を辺りに廻らせてから、息を呑んで口を開いた。
「……宗吾、さん」
そう言って見上げた美咲の顔が、一気に膨れる。
「怒ってない! 笑ってる!!」
「んあ? あぁ、手、外してたか」
頭、右手で撫でてた。
騙された! と怒る美咲の頭を、何度も撫でる。
「騙してない。嫌に決まってるし、名を呼んで欲しかった。ありがとう」
口端を上げた笑うと、むぅっと口を尖らせていた美咲は、大きく息を吐いて表情を崩した。
「よかった……」
そう胸を撫で下ろす美咲は、可愛くて。
少しだけしか空いていなかったドアを、大きく開ける。
「美咲。幸せに、する」
そう伝えると、美咲は嬉しそうに目を細めて頷いた。
その唇に、自分のそれを重ねて誓う。
瑞貴の想いも、他の奴らの想いも。
俺が全て受け止めて、美咲を幸せにする。
大切に、共に歩んでいくから。
どうか、お前達の幸せを祈らせて欲しい――
――ゆっくりと、ドアを、閉めた。
これにて、君だけを見つめていた、終了です。
ありがとうございました^^