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それは楽しかった日々の終わり 新しい日への足踏み 3


「何にも無いなぁ……」


呟く私の視界には、大き目のトートバッグが一つとベッドだけ。

結婚式後そのまま課長のアパートに引っ越す予定で、荷物は全て今日までに移してしまった。

一年半住んだこの部屋とも、今日でお別れ。

元々荷物の少ない私は、ダンボールに詰めてしまえばたった十個にしかならなかった。

生活用品は、一人暮らしだった課長の部屋に全て揃ってるし。

自分の荷物以外、持って行くものは無い。


ココアを淹れたマグカップを両手で掴んで、ベッドの奥、窓辺に背をつける。

既に六月も半ば。

気温は二十度前後で、温かいココアを飲む時期じゃない。

分かってるけれど。


カーテンを開けて、向こうに見える隣の家に目を向ける。

既に、電気の消えた南の部屋。

元、私の部屋。

今は、私じゃない人が住んでいる。


ここに住みはじめた時に、全員で挨拶に行った。

そこで初めて、私たち家族の後に住んだ人と会った。

とても、感じのいいご両親。

仲の良さそうな、兄妹。

ご近所から話を聞いていたのか気を遣ってくれたご家族は、部屋に私を通してくれて。

懐かしい自分の部屋。

でも、悲しいとか寂しいとか、そんな気持ちは生まれなかった。


ただ、懐かしい。

思い出の中の、記憶の中の私の部屋。


あの家を出た時、自分の居場所が消えた気がしたけれど、そうじゃなかった。


目に見える、形のあるものじゃない。

自分の居場所は。

それを教えてくれた、皆に、どれだけお礼を言っても足りない。



窓を開けると、湿った風が部屋に流れ込んでくる。

一年半前、ここで同じ様にココアを飲んでた。

今と全然違う状況で。


それを懐かしく思い出せるのは、……課長のおかげだと思う。

頑なだった私を、ずっと見ていてくれた。

諦めないで、見捨てないで、理解しようとしてくれた。



――でも



両手で囲うように持っているマグカップに、視線を落とす。

半分に減ったそれからは、甘い香りが湯気と共に立ち上っていて。

ほっとするような、優しい気持ちになる。


哲、みたいだ。



確かに哲と一緒にいて、嫌な目にあった事もある。

小中高は、それなりに結構きつかった。

でもそれ以上に、哲は私に優しかった。

いつも傍にいて、家族の温かさをくれていた。

優しさだけじゃない。

厳しい言葉で、いろいろな事を気付かせてくれた。


それを当たり前のように享受してきた私は、どれだけ幸せだったんだろう。


どこにも見つけられなくて。

ずっとずっと、探してた。

私だけの居場所は。

本当は、いつも……当たり前のようにそこにあったのに。

哲の、隣に。

気付けなかった私は、どれだけ哲に守ってもらっていたんだろう。


私を好きだと言ってくれて。

受け入れられないと泣いた私に、幼馴染と共に家族という絆もくれた。

他の人を、想う私の。

背中を押して、送り出してくれた。



あの日から、一年半……

想いに応えられなかった私を、今までと同じ……今まで以上に大切に守ってくれる。


大好きで、大切な、私の家族。



哲がいてくれたから、きっと今の私がいる――





マグカップを握りなおして、窓から外に視線を向けた時だった。



「お前、まだ寝てないの?」

窓の向こう、隣の部屋……哲の部屋にあるベランダに、人影。

「……哲」

頭にタオルをのせたまま、ベランダの手すりに両腕を置いて哲がこっちを見ていた。

半分だけしか開けていなかった窓を全開にして、窓枠に寄りかかる。


「今頃、お風呂入ってきたの?」


「いんや、シャワー浴びてきただけ。風呂は、真崎の後に入ったよ」


バサバサと音を立ててタオルで頭を拭くと、それを首にかけて壁に寄りかかった。

満月に近い月明かりが、哲の姿をぼうっと浮かび上がらせる。

お互いの部屋の電気を消したままだから薄暗いといえばそうだけど、さっきから暗い外を見ていたからか目が慣れていてその姿は私の目にはっきりと映った。


「――哲、今までありがとう」


私の言葉に月を見ていた哲が、視線を私に移した。

少し、複雑そうな表情で。

「やめろよ、別に何もしてねぇし」

「私がここにいるのは、哲のおかげだもの」

「あー、課長との仲を取り持ったって?」

にやりと意地悪そうな笑みを浮かべた哲に、それもそうだけど……と呟く。


「そうじゃなくて、ちっちゃい頃からの話」

少し乗り出していた身体を、また壁にもたせる。

「あー、随分お世話したからなぁ」

「それは違う、世話したのは私」

哲の言葉を、あっさり遮って笑う。



こんな私と、幼馴染でいてくれてありがとう。


こんな私と、家族でいてくれてありがとう。



口に出せないその言葉を、込めて。



「一緒にいてくれて、ありがとう」



私の言葉に、哲は幼い頃から変わらない、でも大人の男の顔で笑った。

「俺の方こそ……」

その笑顔は、とても優しくて。

「お前の家族にしてくれて、ありがとな」



その言葉に、思わず涙が零れた。




この後、美咲の結婚式当日(哲にとどめをさす話)に続きます。

そちらは今しばらくお待ちください。

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