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どのくらいだろう。立ち尽くしたまま時間は過ぎて。
しばらくしてやっと動き出した私は、足元に仕分けしておいた資料を近くの机に置いた。
倉庫の中は、三分の一も片付いていない。
最後まで終わらせたかったけれど、さすがに一週間じゃ無理だった。
壁際においてあるサブバッグを手に取る。
企画を考えるためによく使っていた、方眼付きのレポートパッド。
それを一枚切り取って、ペンを執る。
企画課みんなへのお礼。
終わらなかった倉庫の片付けと、突然の退職への謝罪。
短い言葉でそれを書き綴って、資料の本を重石として置く。
仕事を放り投げていくのは心苦しいけれど、私はただ会社を構成する歯車のひとつ。
一つ欠けても、すぐに新しい歯車がつけられる。
立てた企画も、私の手を離れているから簡単に引き継げるだろう。
私は、誰かに影響を与えるような人間じゃない。
課長や加奈子のように。
哲や斉藤さん、間宮さん……そして真崎のように。
いなくなっても、大丈夫。
窓に近づいて、真っ暗になった外をうかがう。
金曜日とはいえ既に深夜に近いから、本社ビルの前の人通りは落ち着きを呈していた。
「もう、時間かな」
本当はもっとやりたいけれど、これ以上遅くなると警備室まで出向かないとビルから出られない。
さすがにそれは嫌かな、と。
かといってまさか退職日に、仮眠室に泊まるわけにいかないし。
思わず、笑みが零れる。
よく、お世話になったなぁ。企画課に異動してから。
便利に使わせていただきました。
五年勤めたこの会社にも、二年目の企画課の仕事にも未練はあるけれど。
外が暗く室内が明るい所為か、自分の姿が窓に映りこんでいる。
痩せた、頬。
覇気のない、表情。
そうだね、こんなの私らしくない。
いつまでもしがみついていないで、さっさと終わらせよう。
今までだって、ずっとそうしてきた。
カーテンを両手で閉めて、窓に映る自分を隠す。
もうすぐ終わる。
苦しい思いも。
寂しい思いも。
ゆっくりと振り返って、サブバッグに近づく。
その中にある、茶封筒。
それを手に取り上げて、ぎゅっと胸に抱きしめた。
いつか時間が、全ての想いを切り捨ててくれる。
それで、いい……
――胸に込み上げるこの感情は、寂しさなのか。安堵なのか。
倉庫から、廊下に出る。
光量の落とされた、薄暗い廊下。
ゆっくりと足音をさせないように、歩きなれた企画室への廊下を進む。
これは、賭け。
今日は金曜日。さすがにいつも残業している課長でも、もういないはず。
多分、帰宅してると思う。
本当は直接渡すように加奈子に言われたけれど、机に置いておいてもさほど変わりはないはず。
どちらにしろ、辞めるのだから。
なんて、無責任な退職の仕方。もし、課長の立場が自分だったら嫌悪するやり方。
でも。
もし……もしまだいたら、呆れられて怒鳴られるかもしれない。
冷たく、無表情なその目で蔑まれるかもしれない。
怖いけれど……
それでもいい、最後に見ることが出来れば幸せなのかもしれない――
倉庫を出て左に曲がり、IDチェックの前を通り過ぎ少しして左に折れる。
その一番奥が、企画室。
早くなっていく鼓動と反比例して、ゆっくりになっていく歩調。
終わりたいのに、それを迎えることが怖くて仕方ない。
大切な人、大切なもの、全てを捨てた後に、自分に何が残るのか想像するだけで怖い。
でも――
いくらゆっくり歩いていても、距離のない廊下。
すぐに着く、企画室の前。
すりガラス越しに漏れてくる、光。――は、ない。
安堵と共に、涙が滲みそうになって瞬きを繰り返す。
向かいのビルから入ってきているのだろう明かりで薄暗い企画室のドアを、ゆっくりとした動作で開ける。
シンと静まり返った廊下に、キィィ……と何か物悲しそうな音が響いた。
視線の先には、見慣れた企画室の中。
四つのデスクが向かい合わせに置かれ、その向こう。
窓際に、皆より二回り程大きいデスクがこちら向きに置いてある。
朝出勤すれば、間宮さんの優しい笑顔がそこにあって。
そして、無表情な課長がしばらくして出勤してくる。
珈琲でも淹れて……と用意をしている頃、哲と斉藤さんがやってきて。
給湯室から企画室に戻れば、日常が始まる。
そんな光景を思い浮かべて、思わず目を細める。
課長が帰宅した後で、よかった。
幸せな記憶のまま、ここからいなくなれる。
後ろ手でドアを閉めて、まっすぐにその場所だけを見て歩を進める。
自分のデスク、斉藤さんのデスクの横を抜けて、課長のデスクの前。
いつもここで、怒られたりくだらない話してた。
聞いてるのかよく分からなかったけど。
最初は、あの無表情が凄くイラついたしむかついた。
なんか、対等に見られていない気がして。
だから、自分なりに頑張った。
女とか男とかじゃない、気を遣われる存在ではいたくなかった。
本当の意味で、企画室の一員になりたかった。
それが実って企画が通った時、凄く嬉しかったな。
ここに来て、やっと一人前って認められた気がした。
まさか、その課長を好きになるなんて思ってもみなかったけれど。
課長のデスクの真ん中に、加奈子から貰った茶封筒をそっと置く。
それをじっと見つめて。
これを見た時、どういう反応を示すかわからないけれど。
それを目の前で見ない方が、幸せなのかもしれない。
ゆっくりと、頭を下げてじっと自分の足元を見つめる。
いろんなこと、あったけれど。
皆に迷惑をかけてしまったけれど。
本当に、幸せでした。
「お世話になりました――」




