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「やほ、加奈子」


水曜日、昼の屋上。


あれから真崎からの仕事は本当に回ってこなくなり、倉庫の片付けだけに専念していた。

ただ昼休みの間だけ、管理課に行って田口さんや加藤くんに回ってきている真崎の仕事を手伝っている。

それはもう、皆には内緒で。


加奈子はそれに合わせてくれて、大体お昼は皆が仕事に戻っている午後一時以降にとっていた。



今日も、屋上の定位置には綺麗な加奈子の姿。


声を掛けると既に食べ始めていたお弁当から視線を上げて、隣に座る私へと向けた。

「あら、美咲。……何、震えてるの」

微笑んでいた表情は一気に怪訝そうなものに変わり、私はそれを見ながら震えている手のひらを持ち上げた。


「データの纏め、やれるだけって思ってキーボード打ち据えていたら止まらなくって。なんか震える震える」

キーボードの打ちすぎで、指先が震えるなんていつぐらいぶりだろう。

それも期間が決まっているからこそ出来るワザ。


加奈子は呆れたような顔で肩を竦めた。


「そんなに頑張らなくてもいいのに。管理課の二人も苦労すれば後で自分の力になるんだから。そのくらい、真崎も考えて仕事を回してると思うわよ」


綺麗で柔らかい雰囲気を醸し出しながら、それでも意志の強い目を持っている加奈子。

そうなりたいと……加奈子のようにありたいと、そう願ったこともあった。

私では、無理なことだというのに。

こんなに、弱い私じゃ……


「あぁ、うん。そうだよねぇ。自己満足以外の、何ものでもないんだけどさ」


加奈子から視線を反らしながら、膝の上に置いた菓子パンの袋を開けた。

甘いキャラメルの匂いが、広がる。

俯いてパンに噛り付いた私の頭を、食べ終わった加奈子が軽くぽんっと叩く。


「美咲のいいところだけれど、無理はしないで」

「……うん、ありがとう」


心配してくれるその気持ちに癒されながら、既に違う話を始めた加奈子の声に耳を傾ける。

自分に関係のない、いったら会社にも関係のないものを楽しそうに話してくれる加奈子。


人の気持ちを感じるのに長けているというか、なんというか。

さすが会長秘書……って関係ないか。

でも噂では、会長も頭があがらないらしいっていうしなぁ。

凄い人が同期で友人だわ。




しばらくたわいもない話を交わして、休憩が終わりに近づいた頃。


「はい、これ」


加奈子が傍らのミニバッグの中から、茶封筒を取り出して私に差し出した。

それを受け取って裏に返してみても、封がしてあって中を見ることができない。


「加奈子?」


首を傾げながら加奈子を見ると、その封筒を持つ私の手を軽く押す。

「職権乱用よ。これを、今週の金曜日の夜に加倉井課長に提出して。美咲の望むとおりになるわ」


――あ、退職……の


まじまじと、それを見る。

何の変哲もない、ただの茶封筒。


「必ず、二人だけの時に渡してね。気まずいかもしれないけれど」

加奈子に、なんで? と返すと。

「職権乱用がばれたら、私の立場まずいでしょう?」

そのくらい気付きなさいよ、とでも言うように呆れた表情をされてしまいました。


……確かにそっか

普通ならこんなに早く辞められないもの。


茶封筒に視線を落として、それを胸に抱きしめた。


「うん、本当にありがとう」

茶封筒を見つめたまま呟くと、加奈子は小さく頷いて微笑んだ。

「幸せになるのよ、美咲」


幸せに……



ここから離れて、皆とも離れて。

ずっと一緒にいた哲が、そばにいない初めての生活。

大切な人から、逃げるその先に。

幸せがあるのか分からないけれど。


「うん」


それだけ呟くと、私は屋上を後にした。



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