19
「うーす、お前もう片付け始めてんのかよ」
翌週月曜日、いつもどおり始業三十分前に出社すると、倉庫にはすでに片づけをしている美咲の姿。
屈んでいた上体を戻しながら、美咲はこっちを振り返った。
「哲、おはよ」
……ん?
一瞬違和感を覚えて、首を傾げる。
なんだ?
でもその違和感の正体がわからないまま、じっと美咲を見下ろした。
今日も倉庫の片付けにずっと入っているつもりなのか、ビジネスというよりはカジュアル寄りのパンツスーツを着て、ブラウスの袖を肘上まで捲り上げている。
その腕が細くなっているのに、少し目を留めた。
久しぶりに目を合わせてちゃんと見たなぁと思っていたら、美咲は怪訝そうな表情を浮かべて立ち上がった場所で俺を見上げた。
「何、人に声掛けといて呆けてんの? 哲ってば、頭ん中まだ寝てんじゃない?」
こいつ……、誰の所為で俺が頭を悩ましていると……
「うるせぇよ、達者な口だな。オイ」
思わずちっさな頭を片手で鷲摑みにして、倉庫から引っ張り出す。
美咲はよたよたと引きづられるまま廊下に出てから、両足を踏ん張って動きを止めた。
「何、なんなのっ」
「お前、一応朝くらい挨拶に来いよなぁ。出勤してすぐに倉庫にこもりやがって」
頭を掴んでいた手をはずして、呆れたような目で見下ろす。
先週倉庫の片付けに入ってから、朝自分のデスクに荷物を置くだけに企画室に来て、そのまま全員が揃う前に倉庫にこもっちまう。
まったく、俺失礼な。
って、課長もそれに入ってるんだろうけれど。
頑張って避けようとしても、もー俺ぁ許さねぇ。
美咲は視線を少し迷わせた後、ふぅ、と息を吐いた。
「わかったわよ、ちょっと待って」
そのまま倉庫に戻って、財布と携帯だけ手に取る。
それを後ろから見ながら、やっぱりな……と天井を見上げた。
なんだよ美咲、その量の多いダンボール。
んで? どーしてお前のデスクの引き出しがそこにあるのかな?
あー、今日倉庫に寄ってみてよかった。
じゃなきゃ、気付かねぇぞ。いくら俺だって。
「哲、あんたまだぼけてんの? ほら、行くよ」
いつの間にか俺の目の前に立っていた美咲が、がーディガンの袖に腕を通しながら怪訝そうな顔を向けた。
「へいへい、口うるさいおねーさまですね」
踵を返して、倉庫から企画室へと歩き出す。
俺の横を歩く美咲は、少し楽しそうな表情を浮かべていて。
あ~、違和感気付いた。
先週までうじうじしていたのに、それがなくなってる。
何、楽になってんだよ。
ふざけんなよ、どんだけこっちがやきもきさせられたと思ってんだ。
今のうち笑っとけ?
これから俺は、亨じゃねぇけど鬼になってやるからな。
企画室に入ると珍しい光景が広がっていた。
「あれ? 間宮さんは?」
いつも一番に来て珈琲を飲みながら、のんびりと仕事を始めているはずの間宮さんの姿がない。
斉藤さんと課長がこっちに顔を向ける。
「珍しいよなぁ、俺、間宮より早く来たの初めてかも」
斉藤さんが椅子の背もたれに重心をかけて、伸びをする。
椅子が壊れそうな悲鳴をあげた。
「朝、いないなぁと不思議に思ってたんですが、まだ来てなかったんですね。これが斉藤さんや哲ならちっともおかしくないけれど。ね、課長」
自分のデスクにつきながら、美咲がにやりと笑って課長を見る。
課長は一瞬眉を顰めたけれど、そうだな、といつもの無表情を返した。
俺も椅子に腰を下ろして、パソコンの電源を入れる。
美咲は立ち上がっていたパソコンで、メールの確認をしているらしい。
マウスをクリックする音が、カチカチとせわしなく聞こえてくる。
そこでふと気付いたように、美咲が隣の斉藤さんを見た。
「そういえば、斉藤さん。その机の引き出しは、まさか倉庫のようなカオス状態になってないでしょうね?」
――だから斉藤さん。なんでそこで、びくつくかな
思わず笑いが漏れそうなくらいマンガのような反応に、美咲がじとーっとした視線を向ける。
「今のうちですよ、斉藤さん。引き出しを私に託すのは」
「お願いします、久我先輩っ」
間髪いれず、可動式の独立した引き出しをごろごろと足元から美咲に差し出した。
「誰が先輩ですか。まぁ私も丁度、自分の引き出しの中片付けちゃってるんで」
美咲はそれを両手でドア側のデスクの横に転がした。
「久我の引き出しもカオス?」
「な、わけないです。ちょうどいいから片付けているだけ」
「はい、すみません」
美咲の視線に、斉藤さんは撃沈しました。
「課長は? 引き出し、片付けます?」
斉藤さんの横から美咲がひょこっと顔を出して声を掛けると、やっぱり課長は無表情のまま、いや……いい、と呟いた。
「お前達の評価書も入ってるしな。それを仕分けするのは面倒くさい」
「え、それだけ見たい。ね、哲」
いきなり話を振られて、思わず頷く。
「ま、俺の評価はいいだろうけど」
「「それはない」」
こういう時だけ積極的に参加する斉藤さん。
……苛めてやろうか……、先輩だけど。
そんな不穏な空気を漂わせていたら、課長がぽつりと時計を見上げながら呟いた。
「間宮、本当に遅いな」
つられて、各々時間を確認する。
既に八時五十分。
九時から始業とはいえ、さすがに遅い。
「そうですねぇ、寝過ごしたとか」
「斉藤さんじゃない」
美咲の突っ込みに、苦笑い気味の表情。
「まぁ、始業過ぎても来なければ連絡してみますよ」
そのまま課長を見る斉藤さんを尻目に、美咲は見ていたパソコンの電源を落とした。
「そうしたら私、倉庫に行ってますね」
「分かった」
立ち上がった美咲に、課長の言葉。
いつもどおりの、無表情&そっけない感じ。
美咲も小さく頭を下げて、斉藤さんの引き出しを押しながら廊下に出て行った。
課長に背を向けたあとドアから出て行く少し表情の歪んだ美咲の姿を見て、思ったとおりの態度に溜息をつく。
そのまま天井を見上げて腕組をすると、頭の中でこれからどうしようかと考え始めた。
どのタイミングで、課長に伝えるか。
どのタイミングで、課長を煽るか。
どのタイミングで……
って、なんで俺、朝っぱらから課長のことで頭を一杯にしなきゃなんねーんだよ。
思わず視線をデスクの上に落とした時だった。
「おはようございます」
その声に、いっせいに皆がドアの方向を見る。
間宮さんの姿に、ほっとした空気が流れた。
斉藤さんが椅子の背もたれに身体を預けながら、目の前のデスクに着く間宮さんを目で追う。
「間宮、どうしたんだよ。朝来てお前がいなかったから、体調でも崩したかと思った」
確かに。
それだけ、間宮さんは早くに来て仕事をしているという信頼感がある。
間宮さんはコートをかけて椅子に腰を下ろすと、少し曖昧に微笑んだ。
「つい、ね」
間宮さんにしては、少し歯切れの悪い返答だなぁ。
そんなことを考えながらパソコン画面に視線を戻そうとしたら、斉藤さんが、そーいえば、と思い出したように呟いた。
「とーこさんは元気?」
とーこさん?
思わず戻した視線を、再び間宮さんに向ける。
間宮さんは答えないまま、じっと斉藤さんを見て笑みを浮かべていて。
なんとなく助け舟のように、斉藤さんに、とーこさんって? と聞いてみる。
さすがの斉藤さんは、ちっとも間宮さんの冷たーい視線に気付かず口元を少し緩めて教えてくれた。
「間宮の彼女。一度しか会った事ないけど、綺麗な人だったなぁ」
あぁ、そのくだりで行くなら。
この遅刻ぎりぎりは、とーこさんと離れ難がった間宮さんがこんな時間になったと。
週末は、彼女さんの家に泊まってるって言ってたし――
でも……
自分の隣から冷気が漂ってきそうな雰囲気に、斉藤さんを伺うと。
鼻歌を唄いながら、キーボードを打ってました。
斉藤さん、なんでそんなことばっかり勘が鋭いんですか。
そんなことより、違うことに気付いてほしいんですが。
今の間宮さんを見て、何も感じませんか。
「……そうなんですか、へぇ。なんか間宮さんてすげぇ紳士ーって感じだから、こう穏やかな付き合いなんでしょうね」
フォローのような、内心本音も混ざりつつ間宮さんに言うと、案の定、言葉じゃなくて微笑が返ってくる。
あー、目が怖ぇ。これ、内心お怒りだよ。
あはは、斉藤さんロックオン!
間宮さんは視線を斉藤さんに戻すと、にこりと微笑を強めた。
「久我さんは?」
ほらっ、冷たいっ!
冷気が漂ってる!
思考が美咲化してきた感じだが、つい目の前の面白そうなやり取りに耳を傾ける。
斉藤さんをちらっとみると、動きも表情も固まっていて……ウケる。
つい、苦笑しながら口を開く。
「今日は朝から倉庫の片づけをしてるんですよ。さっき一度顔を見せにきたんですけど、こもってます」
五分くらい前に戻ったんだよな。
戻らなきゃ、こんな面白いやり取りが見れたのに。
間宮さんは斉藤さんへの視線をそのままに、そう……と呟く。
「企画会議は午後からだし、久我さんの企画商品はもう他部署の手に渡ってるから、丁度時期的にはよかったのかもね」
あぁ、なんか空耳が聞こえてくるー
お前の所為だー、お前の尻拭いをさせられてるんだーって。
でも……もっと言ってほしいかな
斉藤さん、確か資料室も美咲に片付けさせたんだから。
「企画課の良心というか、常識人というか。さすが間宮さん」
斉藤さんをたしなめられるのは、間宮さんしかいない!
すると間宮さんは課長に視線を向けながら、くすり、と笑った。
「って、課長もそうでしょう?」
同じ様にそっちを見ると、我関せずでキーボードを叩く課長の姿。
あれのどこが……
「あの無表情に、良心とか常識とか似合わないですよ」
「そうかな、一番の常識人だと思うけどね」
だから、あれのどこが……
全身で否定しながら、くすくす笑う間宮さんに脱力する。
課長のどこが常識人なんだっての。
常識って意味、ちょっと辞書で引いてきてくれ。
「じゃぁそんな常識人、加倉井課長。相談事があるんですけど、今日夕飯奢ってくれませんか?」
課長が不思議そうな顔を、俺に向けた。
「相談事?」
「そうっす」
“なんの”を聞かれていることに気付いていつつも、飄々とそれを流す。
「相談事があんのに夕飯奢れって、瑞貴、お前すげぇ大物」
斉藤さんが呆れたような視線を俺に向けてくるけれど、気にしない。
それだけのことを、俺はこれから課長に対してやるんだから。
こんくらいは、ご褒美頂いてもおかしくない。……はず
課長は怪訝そうな表情のまま、まぁいい、と頷いた。
「早めに仕事、終わらせるんだな」
嫌味~のような、本人が素で思ってることを聞きながら。
――さて
課長は俺の話を聞いて、どう出るかな?
俺の立場ってすげぇ情けねぇけど……、けっこう面白いかも




