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「あれ? 哲弘は来ないんですか?」
夕方。
社に来ると言った亨くんを駅で待たせて、私は倉庫を出た。
一応企画室に顔は出してみたけれど、哲は斉藤さんと広報部にプレゼンの打ち合わせに行っていなかったし。
間宮さんは金曜日ということで、既に帰社済み。
課長は、外に出て戻っていなかった。
駅に着くと、亨くんが階段下で立っていた。
「哲はお仕事中なのよ、私だけでごめんね」
そういいながら、連れ立って歩き始める。
亨くんは私の横を歩きながら、片手を振って私の言葉を否定した。
「いえ、なんとなく哲弘に申し訳ないような気がしただけで……。っていうか、俺あとで闇討ちにあったりとかしないか……?」
最後の方がよく聞こえず、一度足を止めて亨くんを振り仰ぐ。
「ん? 亨くん?」
亨くんはいつもどおりの表情で見返すと、にこりと笑って私の歩みを促した。
「なんでもないですよ、美咲さん」
なんとなく引っかかる感じがしたけれど、思い直して前に視線を向けた。
駅の階段を使って、反対側のコンコースに出る。
こっち側はあまり利用する人がいないから、会社の人にあう確率が低い。
っていうか、今まで会ったことない。
路地を抜けて、奥まったところにある居酒屋のドアをくぐった。
たまに来るこの店は、哲も知らない場所。
私が一人で食事したい時に来るお店。
顔見知りの店員さんに声を掛けて、奥座敷に腰を下ろした。
亨くんは珍しそうにあたりを見ながら、掘りごたつ式になっている席につく。
「なんか、美咲さんとこの場所って似合うような似合わないような。不思議な感覚ですね」
運ばれてきたお絞りで手を拭きながら、本当に不思議そうに呟くから思わず苦笑する。
「まぁね、私にもいろいろあるのよ。一人になりたい時ぐらい、ね」
適当に食事とアルコールを頼んで、改めて向かい合う。
しばらくは運ばれてきた食事を食べながら、差しさわりのない会話を交わしていた。
久しぶりの、感覚。
私の内情を知らない、私を心配しない人との会話。
「でも、哲弘を連れてこなかったの、珍しいですね。なんだかお二人って、こう……セットみたいな感じだったから」
その言葉に、苦笑する。
「なにその、漫才コンビみたいな感じ。別に、いつも一緒にいるわけじゃないよ」
亨くんは、まぁそうですけど……と持っていたグラスを机に戻した。
何も知らない亨くんの前なら、笑っていられる。
幸せに生きてきた、久我美咲として。
いつもより、厚く塗ったファンデーション。
解いて垂らした髪。
腫れた目元を隠すための、苦肉の策。
もしかしたら、何か気付かれているかもしれない。
柔らかい雰囲気の亨くんが、実は結構鋭い人だというのは知っている。
何度か掛けた亨くんへの電話。
不在の時にとってくれた同僚の人が、世間話のように言っていたから。
――皆で尊敬してるんですよ、怖いけど。鬼の水沢だけど
そう、笑ってた。
だから、気付かれたくない。
きっと会うのは、これが最後だから。
仕事上の話。
亨くんの昔話。
あまり聞きたくないけれど、久我部長の話。
どれだけ話しても、足りないくらい。
その柔らかい笑みに、涙が出そうになった。
ずっと一人で生きてきた。
親に捨てられてから。
私は、いつの間にこんなに弱くなってしまったんだろう――
楽しい時間は、本当に過ぎるのが早く感じる。
いつの間にか腕時計の時刻は十一時近くを指していて。
それに気付いて、亨くんが残念そうに笑う。
「結構な時間になっちゃいましたね。せっかく美咲さんを独り占めできたのに」
そう言って立ち上がると、上着の袖に腕を通す。
私も持っていたグラスをテーブルにおいて、そうね、と笑った。
どちらが会計をするかで少しもめた後、前のお返しだからと亨くんが全て支払って店の外に出た。
「また、来ましょうね。美咲さん」
駅に向かって歩きながら、哲よりも少し低い亨くんが上体を屈めて私を覗き込む。
「そうね、楽しみにしてる。お仕事もよろしくね~、鬼の水沢くん」
はい、笑顔が固まりました!
そのまま口元だけ、ゆっくりと上がっていきます。
「――誰が言いました?」
不穏な空気に、ぱっと一・二歩駆けて振り返る。
「怖いよ~、亨くん! 笑わないと。営業は笑顔が一番」
「笑ってますよ、俺」
亨くんは歩幅を伸ばして私に追いつきながら、へらりと笑う。
「今度うちの奴等にも会ってもらえます? 皆、楽しみにしてたりするんですよ」
え? 楽しみに?
「何で私を……」
「鬼の水沢が尻尾を振ってる美咲さんに、興味津々」
思わず、噴出して笑い声を上げる。
「何? 亨くん、私に尻尾振ってるの?」
「わんっ」
止まらない笑いに、お腹を押さえながら歩く。
「やだなぁ、亨くんてば」
亨くんは片手をコートに突っ込んだまま、高い位置から私を見下ろしている。
柔らかい笑みを浮かべたまま。
「来月にでも来てくださいよ、もう商品発売後ですし。今後の新しい企画もお手伝いできればって思ってるんで」
「やだ、営業トーク? 騙されてない? 私ってば」
どんどん駅に近づいていく。
「そんなんじゃないですよ、ただ他の奴が美咲さんと仕事するのは、心の底から阻止したいんで」
それって、営業トークじゃない。
私は笑いを何とかおさめながら、改札のある二階へと駅の階段を上がっていく。
「そうね、じゃぁ来月ね」
見えてきた改札口に、この時間の終わりを感じながら。
「はい、絶対ですよ?」
楽しそうな亨くんを見上げながら。
叶うことのない、叶えるつもりもない約束をして亨くんと別れた。




