15
柿沼がここにいた理由を、私は屋上に上がってきた加奈子の話の中に見つけた。
「今日、柿沼の最終出勤日」
一瞬、思考が止まった。
「え? 最終、出勤……?」
聞き返す私に、加奈子は少し首を傾げた、
「あら、聞いてないの?」
その言葉に、ゆっくりと頭を縦に振る。
今年に入って加奈子とこうしてお昼を一緒に過ごすのは、数える程度。
加奈子自身、言ったかどうか忘れてたわ……と呟く。
「まぁ、後で知るのも嫌だろうから。よかった、当日でも辞める前に言えて」
「そ……なんだ」
だから、“あんたが、いなくなればいいのにね”だったんだ。
柿沼が最後に言ってた、言葉。
あんたなんか……じゃなくて、あんた“が”
加奈子は様子のおかしい私を、膝に頬杖をついた状態で見つめる。
「何か、あった?」
その言葉に。
さっきの事を言おうか、どうしようか逡巡する。
それでも決めることが出来ず、曖昧な笑みを浮かべた。
「ううん……。ただ、ちっとも知らなかったなって」
加奈子はペットボトルの紅茶を口に含みながら、んー、と呟く。
「それは仕方ないかもね。美咲ったら可愛がられてるから」
「え?」
俯けていた、顔を上げる。
聞き返された加奈子の方が驚いて、首を傾げた。
「え……って、嬉しくないの?」
「え……と……」
少し前の自分なら、きっと喜んでいた言葉。
「美咲を守りたいから、少しでも傷つけそうな情報は耳に入れさせなかったって事でしょ?
何か、不服なの?」
慌てて、頭を思いっきり横に振る。
「美咲、言いたいことがあるなら言葉にして? 私には、分からないわ」
動きを止めて、座っている自分の膝頭を見つめる。
いかにもな、おかしい態度。
分かってる、これがいけないんだって。
――また、皆に守ってもらってるんですか? いいですねぇ、甘えられる場所がある人は
柿沼に言われて、図星過ぎて何もいえなかった。
家族のように温かい企画課は、いつの間にか私の甘えられる場所に変わってた。
逃げ場になってた――
そこに逃げ込むことで、周りにどれほど迷惑をかけているかも気付けないほど、私は甘えていたんだ――
今日気付かされた事実と、むき出しにされた自分の本音。
「もう、……無理かもしれない――」
思わず、呟いた。
「え?」
伸ばされた加奈子の細い指が、私の頬を拭う。
いつの間にか零れた涙が、加奈子の指先に掬い取られた。
「私、もう駄目かもしれない――」
「美咲……」
見開いた目には、何も映らない。
ただ、屋上から見える寒空が視界にあるだけ。
認識するだけ。
「皆が優しければ優しいほど、自分を消してしまいたくなる。私の為を思ってついてくれる嘘なのに、何が真実なのか分からなくて、全部信じることが出来ない……」
全部、私の為。
全部、私の所為。
「私は両親を許せない。でも、許しあわなくちゃ、人は生きていけないって言われた――
じゃぁ、許すことの出来ない私は、どうしたらいい? ――」
なのに、自分の居場所を作ろうとするから。
自分の為の居場所に甘えてしまった。
「全部切り捨てた私には、仕事しか返せるものがないのに。それさえも、周りの迷惑になってる」
視界が、真っ白に変わっていく。
まるで、父親から逃げ出したあの時のようだ。
自分の意識が、切り離されていく。
そのまま心の奥底に沈みこみ、自分のない抜け殻みたいな私が意識の中、浮上していく。
「わたしは、ここにいちゃいけないんだ――」
何も答えを導くことは出来なかったけれど、それだけは分かった。
課長を支えに生きていこうとしたけれど、それさえも迷惑なだけって気付いた。
私が、ここにいることが皆の迷惑になるって……気付いた――
「美咲、私の声……聞こえる?」
しばらくして。
私の涙を指先で拭っていた加奈子が、口を開いた。
その言葉に、ゆっくりと顔ごと加奈子に向ける。
そこにいたのは。
少し寂しそうに微笑む、加奈子。
涙を拭っていた手を私の頭に移動させて、優しく撫でる。
「私は、どうしたらいい?」
「……私の為に、悲しまないで欲しい……」
我侭で、ホントごめん……
「じゃあ、一つ教えて。私は、美咲の為に何が出来る?」
綺麗に微笑む加奈子は、その意思の強い視線を少し和らげて私の言葉を待っててくれる。
こうした方がいい、ああした方がいい、それは間違ってる。
そんな綺麗事なんて、絶対に言わない加奈子の言葉。
「美咲は、今、どうしたいの?」
質問を変えて、私の言葉を待ってくれる加奈子。
どちらを受け取っても、私の為の言葉。
私は――
「消えてしまいたい」
優しい人達が、傷つかないように。
大切な人達が、私に縛り付けられないように。
「ここから、消えてしまいたい」
開放したい。
私以外の、全ての人を……私から――
嗚咽まじりの私の言葉を、加奈子は優しく背中を撫でながら聞いてくれた。
加奈子にお願いしたいわけじゃなかった。
ただ心の中を聞いて欲しかっただけの、我侭な私の言葉を。
「それで、いいの? 美咲は、それで幸せになれるの?」
しゃくりあげていた泣き声がやっと落ち着いた頃、加奈子は穏やかに私を見つめる。
「美咲、本当は覚えているのね。あの夜にあったこと」
あの夜――
その言葉に、無意識に頷く。
心配かけたくなくて、覚えていない振りしてた。
でも、いい。
加奈子になら、ばれてもいい。
だって、加奈子は加奈子だから。
「あの時、私はあなたの役に立てなくて寂しかったの。あれだけの苦しさをずっと心に秘めていたんだなって思ったら、本当にやるせなかった。
でも、そうやって美咲は自分を守ってきたんだなって事も凄くよく分かったわ」
背中に触れていた手が、離れていく。
「会長秘書の職権乱用第一号様ね。安心して。美咲の望み、私が叶えてあげる」
「……かな……こ」
瞬きを忘れてしまったかのように、見開かれる私の目。
「いろいろと握ってるからね、大丈夫。……だから」
見返す加奈子は、いつも通り微笑んでいる。
「お願い、元気な美咲に戻って……?」
その綺麗な手のひらを、ぎゅっと握ってゆっくりと振る。
「カッときたら思わずボディーブローしてた美咲が、私大好きよ」
思わず、表情が緩む。
「何、それ。私、暴れん坊みたいじゃない」
「あら、違うといえるのかしら?」
くすくすと声を上げて笑い出した加奈子につられるように、笑みが零れる。
「ふふ、そうだね。私の得意技だもんね」
「加倉井課長にボディーブローをした後、ここで愚痴ぐち言ってたわね。なんだか懐かしいわ」
「――そうだね」
あれは、九月の終わりの頃の話。
まだ、たった四ヵ月くらいしか経ってない。
「ねぇ、美咲」
「何?」
膝頭を抱えたまま、顔を加奈子に向ける。
「これで最後にするから。本心を、教えてくれる?」
「……加奈子?」
綺麗な微笑を湛えたまま、少し目を細めた。
「本当は、加倉井課長のこと、好きなんでしょう?」
ドキンッ、と心臓が音を立てる。
ドクドクと早まる鼓動に、膝を抱えた両腕の中に顔を俯ける。
「……うん」
加奈子にだけ、言っていこうかな。
加奈子に、この心を持っていってもらおうかな。
「課長のこと、好き」
私がいなくなった後、彼女の中で終わりを迎えてくれるなら。
「わかんないって言ってたのに……。宗吾さんのこと、好きになって……た……っ」
再び視界が歪み始めた私の頭を、泣き止むまでずっと撫で続けてくれた。




