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食事を終えて、外に出る。
「じゃ、お疲れ」
課長は駅とは反対方向にあるアパートへ、帰っていった。
本当にあっさりと。
きっと今までだったら、何か一言二言、私に掛けていくだろうに、何もなく。
皆は普通どおりだったけれど、もしかしたら気付かれているんじゃないかと確証もなく考えていた。
路地に消えていくその後姿を見送って、駅に向かう。
細い路地を辿っていくから、自ずと縦長に並んで歩くことになって。
私の隣には、哲。
ゆっくりと歩いていく。
それは、伝えたいことがあったから。
二人きりで伝える、勇気がなかったから。
前を歩く斉藤さんたちと少し離れてから、私は口を開いた。
「哲」
「ん?」
広すぎる家の愚痴をぶつぶつ言っていた哲が、少し猫背気味になる。
身長の低い私と、標準より高い哲とは、その差が四十センチ近い。
少し屈まないと私の声が聞こえないから、こういう風に歩くのは昔からの習慣。
「心配してくれて、ありがとね。……その、昨日悪いことしたと思って」
後頭部に手をやりながら哲を見上げると、少し驚いた表情が見える。
「うわー、美咲のくせに謝ってやがる。気持ち悪っ」
「……哲、食べたもの吐き出したいか?」
「美咲ちゃん、あなた女の子」
右の拳を握った私を見て、哲がちゃかしながら肩を叩く。
「哲にはちゃんと言っておこうと思って」
「あ? 何を」
私、笑ってる?
後頭部に当てていた手のひらを、ゆっくりと下ろして首に触れる。
「課長のこと」
「あぁ、それ」
哲は少し面白くなさそうに、覗き込んでいた顔をおこした。
ポケットに両手を突っ込むのが見える。
ふてくされた時の、癖。
「断ったから」
「あっそー、おめでとさ……」
途切れた言葉に哲を見上げると、隣にはいなくて。
後ろを振り向くと、歩いていたそのままの体勢で哲が立ち止まっていた。
「哲?」
「こと……わった?」
私の言葉を繰り返す哲に近づきながら、うん、と頷く。
「なんで? だってお前……」
なんで……って
「 “好き”には、なれなかったの」
詳しいことは、言わない。
哲が納得してくれるか分からないけれど……
「課長は……?」
「……大切な部下って、言ってくれたよ。返事を待たせるなんて、酷い事したのにね」
口にすると、まだ辛い言葉。
特別から、転落した私の立場。
「……っ」
ふと視線を上げると哲の指が顔に伸びてきていて、思わず後ずさる。
その指は、ゆっくりと目元をなぞって肩に降りた。
「本心?」
「うん」
貼り付けた笑顔は、剥がさない。
大丈夫。
「目、腫れてるな」
「え?」
「少し、熱、もってる」
真っ白になりそうな頭を、懸命に繋ぎとめる。
「寝不足、だよ。そんな」
「なんで寝不足? だいたい、お前、飯とか食ってる?」
「え、食べ……」
肩に置かれた手が、ぎゅっと二の腕を掴む。
「こんな、痩せて。どんだけ俺が心配してると……」
その声に、顔を上げる。
少し暗いけれど、見える哲の表情。
思わず、目を細めた。
「哲、私もね、よく考えたの。いっぱい考えて、悩んで。だから、もう何も言わないで。私は、これでいいのよ――」
つま先立ちしながら、手のひらを哲の頬に伸ばす。
「よくないだろ? 本当は、好きだよな? 嘘つくなよ」
「嘘じゃないよ。私には、無理だっただけ」
「無理って……」
怪訝そうな声音に、目を伏せる。
どう言えば、納得してくれるんだろう。
どう言えば、この話を終わらしてくれるだろう。
「お前の様子がおかしかったのって、この事? 課長に断りにくくてって?」
……あまり、深く聞かないで
「そう」
「嘘だ、違う。美咲は課長のこと……」
尚も言い募ろうとした哲の言葉を、少しきつめの声で遮る。
「だから!」
……だから――
「私には、所詮恋愛なんて無理だったの!」
そう、恋愛自体が無謀だったんだ。
私の言葉に、哲はイライラしたように右手で髪をガシガシとかき上げる。
「何言ってんだよ、そんなことないだろ?」
もうお願い、これ以上聞かないで!
心が、悲鳴を上げる。
ねぇ哲、私も苦しいの
苦しいけど、いっぱい考えて決めたのに……
決心を揺るがさないで――
脳裏に浮かぶ、父親の姿。
懸命に何かを言おうとしてた。
でも、それさえも聞きたくなかった。
逃げ出して。
哲からも……課長からも逃げ出して。
たどり着いたのは、諦めることだった。
苦しくて、辛くて。
逃げ出すために選んだのは、全てを切り捨てることだった――
だんだん苦しくなってきた感情を、懸命に抑えながら言い募る。
「あんな自分、もう二度と見たくないの。私には、無理。出来ない」
掠れた声音で言い放つと、勢いのあった哲の口調がぷつりと途切れた。
小さく溜息をつく音。
「でも……、それって……俺のお袋が原因なんじゃ……」
「違うよ、哲」
湧き上がる感情を、息を吐きながらおさめていく。
哲に、当たることじゃない。
自分の問題なんだから。
だから……責任なんか、感じないで。
伏せていた目を上げて、哲を見る。
「良かれと思ってしてくれたんだから、おばさんのせいじゃないよ。関係ない。だから、ね?」
にこりと笑うと、哲の頬に当てていた手を離した。
「さ、行こう。だいぶ離れちゃったね」
前に視線を向けると、二筋向こうの通りから斉藤さんたちがこっちを見ていた。
それでも動き出さない哲の、コートの袖を引っ張る。
「ほら」
やっと歩き出した哲をそのまま引っ張りながら、やらなくちゃいけないことが終わったことに、私はほっと安堵していた。
あとは、自分の感情が落ち着くのを待つだけだから。
時間が忘れさせてくれるのを、待つだけだから――




