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急かされる様にビルを出て、そこから足早に離れる。
いるわけがないのに、じっと見られているようで苦しかった。
亨くんの会社が見えなくなるところまで離れると、通りから路地に入り込み傍らのビルの外壁に背中をつけた。
――コワイ
それだけが、頭を占める。
幸せなんじゃないの?
好きな人と一緒にいるんじゃないの?
ねぇ、続く言葉は何?
私達は、お前のた……め……
「……えっ」
いきなり右腕が掴まれて、心臓が軋みをあげる。
追いかけて……きた?
冷や汗が背中を伝って、頭が真っ白になる。
「見つけた」
低く響くその声に、体から力が抜ける。
「……課長……」
目の前には右手で私の腕を掴み、左手で携帯を耳に当てている課長の姿。
思わず、右手で課長のコートを掴む。
縋りつける、暖かい場所。
大丈夫、私には大切な場所が……大切な人が――
課長は私の行動に少し眉を顰めると、一つ息を吐き出した。
「連絡をくれて助かった。心配させてしまい申し訳ない」
そういうと、携帯を閉じた。
そのまま胸ポケットにそれを入れ、私の腕を掴んだまま私を見下ろす。
「どうした、具合でも悪いのか? 顔色が悪かったと、水沢さんが俺に連絡をくれたんだ」
俺が来ていたことを知っていたから……と、話を続ける課長をじっと見上げる。
大切な、ひと――
あの人たちも、昔、とても大切な人たちだった。
でも、私じゃない。他人、を、選んだ。
それで私は捨てられたはずなのに――
私のため?
私のために、両親は――?
「久我?」
じっと動かない私を、心配そうに課長が覗き込む。
私を捨てて幸せをとったはずのあの人たちが、幸せじゃないってコトは。
「どこかで休むか? 本当に顔色が悪いぞ?」
額に触れる課長の手に、びくり、と肩を震わす。
「久我?」
ダメ、だ。
こんな考え。
また、戻ってしまう――
やっと、縋りつける温もりを、掴めるかもしれないのに。
深く息を吸って、俯きながら吐き出す。
大丈夫。
同じことばかりが起こるわけじゃない。
この人は、加倉井課長。
加倉井 宗吾。
私の両親じゃない。
「大丈夫、です」
ゆっくりと、自分に言い聞かせるように、課長に伝える。
「――そうは、見えないが」
探るようなその声音に、目を瞑る。
「何かあったのか? 俺には言えないことなのか?」
課長には言えない……
違う
課長にだけは、言いたくない
目を開けて、課長を見上げる。
「本当に、なんでもないんですよ。少し、体調が悪かっただけで」
にっこり、と。
表情を作り上げる。
得意、だから。
感情を隠すのは。
自分自身からも、感情を隠して生きてきた。
大丈夫。
今を守るためなら、出来る――
「久我、本当に?」
その目は。
信じていない、私の言葉を。
困惑したその表情は、どうにかして私から真実を引き出そうとしてる。
私を、心配してくれているから。
温かい気持ちと、恐怖と、いろんな感情が頭を巡るけれど。
貼り付けた笑みは、崩さない。
「はい、すみません。ご心配をおかけしました」
笑顔を向ければ、諦めたような溜息。
「そうか……、どこかで休まなくて大丈夫か?」
それでも私を見る課長は、とてもとても私を思ってくれているのが伝わってくる。
……だからこそ、知られたくない。
ゆっくりと課長のコートから手を離して、歩き出す。
「大丈夫です。さ、帰りましょう」
にこっと、笑う。
「ね、加倉井さん」
課長は驚いたように目を見開いて、すぐに目を閉じて溜息をついた。
私の頭を、片手でぽんと軽く叩く。
「……分かった」
歩き出すその背中が少し寂しそうに見えたけれど、私は気付かない振りをしてただ自分の掴んだ課長のコートをじっと見つめていた。




