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昨日の夜にした、子供みたいな約束。
呼べる、と思う。
さすがに下の名前は恥ずかしいけど、加倉井さん……くらいなら呼べると思う。
役職名ナシのところが、恥ずかしいけどね。
「わかりました……っと」
短く返信を終えて、携帯を鞄にしまう。
足元の鞄に視線を落としていたとき、部屋のドアが開いた。
「亨くん、早かったね」
出て行って、一分もたってない――
そのまま上体を元に戻して、ドアに視線を向けた。
「……っ」
座っていた椅子から、腰を浮かせて後ずさる。
血の気が引いていくのが、音がするのではないかと思うくらい感じられて。
思わず無意識に、立ち上がった。
「……美咲」
そこにいたのは、亨くんじゃなくて。
緊張しているのか、少し震えたその声は昔聞きなれた声で。
それ以上に、恐怖を与えられる。
「な……」
その人に、声を振り絞るようにして言葉を返す。
スーツを着た、いかにも上役といえる雰囲気を纏う、目の前の男。
久我利明、と書かれたIDパスが、首から下がってる。
昔、私の父親だったその人はドアを後ろ手で閉めると、私の方に近づいてきた。
「お前が水沢と打ち合わせすることを聞いたから、その……いてもたってもいられなくなって……」
――何が? 何を言ってるの?
目をそらす事も出来ずに、その姿を見つめる。
「ずっと、お前と話しをしたかったんだ。あの時以来、お前と会うことができなかったから」
――話? 何を話すって言うの?
「その、美咲。お前には、本当に悪いことをしたと思ってる……。だから、ずっと謝りたくて……」
――謝る?
両手で、口を塞ぐ。
「あの時はすまなかった。お前を本当に傷つけてしまった。許してもらえるとは思っていないが、とにかく謝りたくて……」
「何を……、言って……?」
今更、何を謝るの?
からからに乾いた喉から、声を絞り出す。
「何も、関係ない……。あなたは、あなたの幸せを守れば……」
私よりも大切な、女性との家族を……
「お前を苦しめて、私たちだけ幸せになんてなれるわけない」
――は?
目を見開く。
「私……たち?」
「母さんも、その……」
息が、苦しい。
目の前が、白くちかちかする。
コノヒトは何を言ってるの?
あなたは、何を言いたいの?
「美咲、私達はお前のた……」
父親の声を遮るように、私の鞄から携帯の着信音が鳴り響いた。
手を伸ばして鞄を掴みあげる。
携帯には、課長の表示。
「久我……部長」
掠れた声で、名を呼ぶ。
苦しそうな表情で、私を見返す男。
「失礼します」
鞄を胸に抱いて、横を通り抜ける。
途端、腕を掴まれて立ち止まった。
「美咲」
「離してください」
冷たく言い放つと、緩んだ手から腕を引き抜いてドアを開ける。
「あれ、美咲さん……?」
そこには今まさにドアを開けようとしていた、亨くんが立っていた。
私はにこりと笑いかけると、
「ごめんなさいね亨くん、急用で帰らなければならないの。中に久我部長がいるから、そちらに飲み物を差し上げてもらえるかな?」
「……それはいいんですが、何かありましたか? 顔色が……」
心配そうに少し屈んで覗き込んでくる亨くんに、小さく首を振る。
「いいえ、何もないわ。ありがとう。じゃ、また――」
「あ、美咲さんっ?」
亨くんの横をすり抜けて、そこを後にした。




