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「……わっ」
いきなり消えたぬくもりに、無意識に課長のコートを掴んでしまった。
慌ててコートから手を離すと、その手を課長に掴まれる。
「あっ、あのっ」
手を引き抜こうと力を込めたら、そのままコートに押し付けられた。
「ほら、掴んどけ」
「え?」
掴んどけ?
顔を上げるのが恥ずかしくて、コートに押し付けられている自分の手と課長の手を見つめる。
頭の上で課長の息を吐く音と、少し楽しそうな声が振ってきた。
「お前は俺の手よりも、コートやスーツの方が好きみたいだからな。ほら、歩き出すぞ。ちゃんと掴んどけ」
手に、加わる力。
自分じゃない、他人の意志で動かされる自分のてのひら。
開いたそこにコートを掴ませると、課長はゆっくりと歩き出す。
自分のてのひらから伝わる力につられるように、足を前に出した。
そのまま、じっと手元を見つめる。
誰かに、縋りつきたくて。
誰かの、温もりが欲しくて。
それでも、勇気が出なかった。
掴んだものが、消えてしまうのが怖かったから。
こんな簡単に、掴めると、思わなかった。
ゆっくりと歩いていく課長の向こうに、大通りが見えてくる。
まだ人通りも多いらしく、賑やかな音が響いていて。
あそこ出るまでに、この手、離さなきゃ。
会社の人に見られたら……、それよりも人に見られること自体が恥ずかしい。
「久我」
「……はい?」
俯いたまま、小さく返事をする。
課長は振り返らずに、ゆっくりと足を進めていく。
「じゃ、段階を設けよう」
「段階?」
意味の分からない言葉に、手元を見ていた視線を上に向ける。
「明日、お前の打ち合わせが終わるのを待ってる。そこで、まずは加倉井って呼んでくれないか?」
「……苗字、ですか?」
名前じゃなくて?
「そう、でも役職名ナシで」
役職名ナシということは、加倉井さんとか?
「ハードル低いだろ?」
「……でも課長ってつかないと、なんか恥ずかしいような座りが悪いような」
「恥ずかしくても、やってみろ。ていうか、なんだこの中学生みたいな会話は」
思わず噴出す。
「確かに、大人の会話じゃないですね」
「ホント、お前相手だと俺の精神年齢まで下がる」
「失礼な」
課長だって、それなりに子供っぽいと思いますけどっ。
人通りの多い道に出て、私は課長のコートから手を離す。
寂しい気はしたけれど、明日、また二人になれることに少しどきどきしていて我慢できた。
「課長、もう駅はすぐ近くですから。ここで大丈夫です」
大通りに出て歩き出そうとした課長を呼び止める。
「いや、駅まで行くぞ?」
足を止めて振り返った課長は、怪訝そうな顔。
私はその横をすり抜けて前に出ると、首を振って否定した。
「嫌ですよ、会社の人に見られたくないですからね。では、お疲れ様でした」
軽く頭を下げて挨拶すると、課長は言っても無駄だと思ったのか、小さく手を上げて路地裏へと消えていった。
課長の姿が見えなくなってから、駅に向けて歩き出す。
課長に告白されて、哲に告白されて。
あれは九月の終わりだった。
今は、一月の初め。
間にいろいろなことがあったからか、もっと長く感じるけど。
こんな気持ちになるとは、最初思わなかった。
はっきり言ったら、こんな気持ちを自分が持つことができるとは思えなかった。
大切なものを作る、幸せ。
大切なものを作る、怖さ。
もしかしたら、今回は大丈夫かもしれない。
課長を、……課長との時間を幸せと感じられるなら。
私、大丈夫かもしれない。
両親が離婚してから初めて感じる温かい感情に、私は戸惑いながらも幸せを感じていた。




