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美咲と紅茶を片手に、企画室に戻った後。
ほとんど、仕事なんか進まなかった。
周りの手前、考えている振りしてPCと書類のにらめっこをしていただけ。
たまに目の前に座る美咲から声を掛けられる度、何かばれたんじゃないかと思いながらひたすら笑みを浮かべていた。
どう、柿沼に思い知らせてやろう。
昨日総務で見かけた柿沼は、別に何もない風に仕事をしていた。
じりじりとしながら、腕時計と仕事の間を何度も視線を移動させて、定時を待つ。
周りのことなんて何も考えられないほど、俺の頭の中は罪悪感と贖罪でいっぱいだったから。
だから。
まさか、俺のおかしな雰囲気に気付いている人がいるとは、この時は思わなかった。
やっと、時計の針が六時を指す。
握り締めた拳に力を入れながら、俺は立ち上がった。
「ちょっと資料室にいってきます」
課長に声をかけて、企画室から出て行く。
今が、六時。
さすがにまだ来てないとは思うけど、エレベーターで来るだろう柿沼が逃げないように先に向こうで待ってないと……
そんなことを考えながら、IDチェックのある廊下を曲がろうしたとき。
「哲!」
いきなり呼び止められて、身体が震えた。
美咲の……声。
握り締めた拳を見せたくなくて、スラックスのポケットに両手を突っ込む。
おかしくない声音で、彼女を呼んだ。
「どうした、美咲」
もしかして、俺がしようとしていること、ばれた?
内心焦っているのを気付かれないように、無表情を装う。
美咲は駆け足で突っ込んできたかと思うと、右手を思いっきり振り上げて額に当ててきた。
「なんだよ、おい」
いきなりの美咲の行動に面食らってあとずさると、腕を掴まれる。
「具合、悪いんじゃないの? 今日なんかおかしいよ?」
心配そうに俺の表情を伺う美咲の姿に、瞬きを数回して口元を緩める。
はは、さすが幼馴染殿。
俺が美咲の事を本人以上に気付くのと同じ。
お前も、俺の雰囲気のおかしさを感じ取ったか。
嬉しいような。切ないような。
目を細めて美咲を見ると、左の頬のガーゼを留めてるテープが、少し剥がれかかっているのを見つけた。
あぁ、さっき俺を大声で呼んだから、引き攣れて剥がれたのかな――
止めてやろうと、指を美咲の頬に伸ばす。
「取れかけてるぜ?」
剥がれかかっているテープに指で触れながら、ふと、動きを止めた。
……どれだけの、ことを、されたんだろう――
不安と、贖罪。
ぶったって宮野は言ってたから、そこまで、酷くはないと思いたいけれど。
「あ、ごめん」
美咲はとめてもらえるとばかり、少し頬を上向かせて止まる。
見たい……
柿沼は、お前に、何をした……?
少し逡巡した後、テープを持つ指を少し勢いつけて引っ張る。
半分ほど、取れかけたガーゼ。
その下に見えた、直線の、傷。
目の前が、一瞬、真っ白になる。
「いっ、痛い!」
どこかに飛んでしまいそうだった意識は、美咲の声に引き戻された。
「あっ……、と、ごめん」
慌てて、ガーゼを貼りなおす。
「悪い、美咲。痛くないか?」
眉を寄せて誤ると、呆気にとられたような表情で美咲が俺を見上げた。
「素直すぎて、気持ち悪い」
――泣きそうに、なった。
なんでもない、会話で。
なぁ、美咲。
いつまで俺は、お前の隣に、今まで通りに立っていられるんだろう。
少し、上を向いて瞬きをする。
おかしく思われちゃ、意味がない。
「それだけ言えるなら、へーきへーき。俺、営業に用事があるからちょっと下に行って来るな」
他の階なら、美咲も、追ってこないだろ……。
そう思って適当に営業の名前を出すと、美咲は怪訝そうに首を傾げる。
「営業?」
突拍子過ぎたか?
川島先輩とかに連絡取られても面倒だし……
「よくわかんないけど、用事があるみたいでさ」
で、いいや。
後ろめたさがあるからか美咲が疑っているように感じたけれど、傾げていた首を戻し美咲は頷いた。
「ふーん……、まぁいいや。いってらっしゃい」
「はい、行ってきます」
おちゃらけながらそういうと、俺は美咲と別れて非常階段へと足を踏み出した。




