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目の前で泣きながら謝罪を繰り返し始めた宮野を見下ろして、聞き出すのは無理だと諦める。
かといって、今、柿沼たちを呼び出すのも目立つ。
美咲に気づかれないように、済まさないといけない――
美咲が、俺に気付かれまいとしたように。
「ほら、宮野さん。俺に謝っても仕方ないよ。少し落ち着いたら、仕事に戻りなさい」
優しい声音、優しい言葉。
許された気になったのか、泣き声を止めて俺を見上げる。
「じゃないと、君のしたことを上に報告するよ?」
真っ赤に充血した目をこれでもかというくらい見開いて、呆けたように頷くと、そのまま階段を昇って六階のフロアに消えていった。
その後姿を見送って、歯をかみ締める。
おかしいと、思ってた。
階段でこけて、何で頬だけ怪我するのか。
おかしいと思ったけど、追求はしなかった。
何か悩み事があるなら、親父さんのことと関係があるとばかり、思っていた。
まさか社会人になって、あんな子供じみたいじめをする奴がいるとは思わなかった。
馬鹿だ。
自分の、所為じゃねぇか。
俺の所為じゃねぇか。
最低だ――
右手で額を押さえて、目を瞑る。
爆発しそうな感情を、何とかおさめるために。
その時、五階の非常階段に出る扉が音を立てた。
思わず身体の動きを止めて、視線を向ける。
「――」
ゆっくりと内側に開いたそこから覗いたのは。
「哲?」
美咲の、姿。
ガーゼを、頬に貼ったままの。
踊り場で立ち尽くしていた俺に気付くと、ドアを閉めて階段を上ってきた。
心配そうに、覗き込む。
「どうしたの? 具合でも悪いの? 顔、真っ青だけど……」
熱でも測ろうとしたのか俺の額に伸ばしてきたその右手を、掴み取る。
「哲?」
少し驚いたように瞬きを繰り返す美咲の頬……ガーゼの上に、軽く唇を寄せた。
「何?!」
慌てて後ろに飛びずさる姿を見て、強張っていた感情も身体も緩く溶け出す。
「おっもしれー、何赤くなってんだよ」
スラックスのポケットに片手を突っ込みながら、階段を降りる。
その場で口をぱくぱくさせていた美咲は、音を立てて俺の後ろを追いかけてきて、思いっきり背中を叩いた。
「いてっ」
女の指はしなるから、痛いっての!
顔を顰めて先に下りていく美咲をみると、ざまーみろ、と笑いながら非常階段のドアを開けた。
「悪戯っ子な哲は、私の荷物持ち決定。給湯室へ、直行せよ」
その言葉に口元が、緩む。
「えらそうに、俺はトレー持ちか」
続いてドアをくぐって五階フロアにでて、IDチェックを通る。
「そう。で? なんで哲はあんなところにいたの?」
給湯室に入って紅茶を淹れ始めた美咲を見ながら、言い訳を考える。
「いや、……最近運動不足だから階段で上がってきただけ」
「通り越してたじゃない、五階。体力どころか、頭は記憶力不足なんじゃない?」
「――お前こそ、なんであんなとこに来たんだ?」
美咲は少し首を傾げながら、俺を見た。
「……あのさ。哲、あそこに誰かといた?」
かろうじて表情を出さずに、首を振る。
美咲は視線をカップに戻して、ふぅん、と呟く。
「非常階段のドア、換気のために少し開いてたのよね。だからだと思うけど、話し声が聞こえて」
開いて、たのか。ドア。
いつも閉まってるから、気付かなかった。
一度目を瞑って、再び開く。
内容を、聞かれていなくて、よかった。
「お前、耳やばいんじゃね? もう幻聴聞こえてるのかよ」
にやりと笑いながら、美咲から手渡されたトレーを片手で持つ。
「私がそうなら、一つしか違わない哲もそうなるんだからね」
「なんねーよ」
軽口を叩きながら、企画室へと廊下を歩く。
美咲は、何も言わない。
怪我について、誰にやられたかなんて。
美咲は、絶対に言わない。
あぁ、得意だよな。
お前も、隠すことが。
営業でもやっていけるかもよ?
俺も、得意だよ。
得意にならざるをえなかったんだ。
見下ろす先には、美咲の姿。
美咲の笑顔と、声を感じながら。
そこに、恋愛感情はないと感じながら。
真実を。
俺の中の、想いを。
ずっと、ずっと隠し通してきたんだから
お前の、隣にいるために――――




