26
見慣れた真っ黒いコート、がっしりした肩幅のその人は。
「……課長。おはようございます」
入り口で固まったままの、課長の姿。
課長はそこに立ち止まったままで。
凝視しているのは、私の左頬。
その視線に、心が、ぞわりと音を立てる。
気づかれちゃいけないのに。
気づかれたくないのに。
そのスーツの裾に。
あの時、あの夜に縋り付きたくて見つめたその場所に、手を、伸ばしたくなる。
手元でやかんがケトルを鳴らすその音で、意識が引き上げられた。
伸ばしそこなった右手で、コンロのつまみを回して火を消す。
自分をごまかすように、小さく息を吸って笑った。
そちらを見ることは出来なかったけれど。
「今、珈琲淹れて持って行きますから、向こうで待っててくださいね」
フィルタに挽いた豆を入れて、上からお湯を軽く注ぐ。
? 返事がない……
やかんをコンロに戻しながら、意を決して顔を入り口に向けると――
「おわっ」
真後ろに課長が立っていて、驚いて後ずさる。
「なんですか、びっくりした」
なんで音もなく、こんな近くにっ
課長を見上げると少し困惑したような表情で、右手を伸ばして私の頬のガーゼに触れた。
「どうした、これは」
じっと見下ろすその目は、何かを探るように私の視線や行動を伺う。
目の奥が、つん、とする。
怒鳴られたり、貶められたり。
そんなことでは泣かないけれど……
父親の時もそう。
この人の言葉で、泣きたくなるのは、どうしてなんだろう――
私はなんでもないように、にっこりと笑って少し離れた。
「昨日は急に外に出て済みませんでした。これは、アパートの階段でこけまして。擦り傷できちゃったんですよ」
私が離れた分、課長の足が近づいてきて。
広さのない給湯室。すぐに壁に背中がついてしまい、視線から逃れるように俯く。
「本当に?」
「――本当です」
……この人の、無言の視線が、痛い。
「――何やってんだよ」
思わず視線をそらした先に、哲が中に入ってくる姿が見えた。
その存在に、思わず安堵の溜息が出そうになる。
「哲! おはよ」
なんとか課長の横をすり抜けて、珈琲セットの前に戻った。
「って、お前。何そのほっぺた」
課長を睨みつけながら給湯室に入ってきた哲が、私の顔を見てあんぐりと口を開ける。
「うるさいわね、転んだのよ、こけたのよ。何か文句ある?」
やかんを掴んでフィルタにお湯を回しかける。
「え、転んで顔に傷つけたの? それマジで?」
信じられないと呟きながら、ガーゼに触れる哲の手を軽く叩く。
「痛いから触んないで。ほらほら、でかいのが二人もいると狭いからっ。早く出た出た!」
「おま、でかいのって一緒くたにすんなよ」
文句を言う哲の背中を叩いて、後ろを振り返る。
「ほら、課長も」
立ったまま私を見下ろしている、課長の腕を掴む。
意味のない行動でなら、触れる事が出来るのに……
内に引っ張られそうな意識を、懸命に戻しながら課長を見上げる。
その顔があまりにも辛そうに見えて、腕を引っ張る力を弱めて笑顔を浮かべた。
「……私は、大丈夫ですよ?」
顔の筋肉を総動員して、明るく笑いかける。
そのまま引っ張ると、反対の手で二の腕を掴まれた。
「本当か?」
探るような声、探るような視線。
見透かされている気がするのは、なんでだろう――
動悸が治まらないのは……どうしてなんだろう――
一瞬、目を瞑って、再び顔を上げる。
「はい、ご心配おかけしました」




