第9話 呪縛
──────……ここ、は……
目の前には、窓がたくさんある建物が広がっていた。
周りをぐるっと囲むような形でとても大きく、向かいにある暗い緑色の鉄の門は少し錆びている。
首を傾けて足元を見ると白色の砂が広がり、足を擦るとジャリジャリと音がする。
ここは……学校…………
太陽の光が窓に反射して眩しくて、目を細めながら辺りを見回す。
明るい黄色の建物は本来落ち着く色であるはずなのに、俺はそれを見ると鼓動が早まって、呼吸の仕方が下手くそになる。
なんだか落ち着けなくて、行き場のない手が顔の左上部に触れて、切れるような痛みが走る。
痛みと自分の不規則な呼吸でどんどん不安になってキョロキョロしていると、三人の男子グループの中の一人と眼が合う。
その直後、そいつは俺のことを睨みつけながらジリジリと歩み寄ってきた。
「ツギハギ、なにこっち見てんだよ! 殴られてぇか!?」
「え、俺、見てなんか……」
「聞こえねぇよ! もっとでかい声で喋れや!」
「うっ……」
大柄な男子の拳が右頬に突き刺さり、反射的に後退る。
頬越しに殴られた歯にじーんと衝撃が伝わり、粘っこくて気持ち悪い鉄の味がする。
後退りしながら震える俺を見て、三人の男子がニタニタしながら迫ってくる。
呼吸の音が耳元でするのを感じながら、追ってくる心臓の鼓動に怯えながら、掠れるように声を絞り出す。
「やめてよ……」
「だから、聞こえねぇって言ってんだろグズ!」
男子はさっきと同じ頬にグーをぶつけてきた。
俺の身体は情けなく後ろに傾き、右手とお尻を地面についてしまう。
ジャリジャリした砂についた右手のひらには湿り気と熱さが共存していて、何度目かわからないこの感覚に目が滲む。
左手で殴られた頬を触ると、ビリッと電撃が走ったような痛みを感じて、泣きたくないのにポロポロと涙が頬を伝って、その涙がまた傷と痣に染みて、砂が暗い色に変わる。
「こいつ、泣いてるぜ? だっせぇな」
「ウケるわー、泣くのとか幼稚園まででしょ」
「それな〜、おれだったら殴られても泣かないしー」
「「「あはははは」」」
地面から見上げる男子たちはゲラゲラ笑いながら俺のことを指差している。
それを見るだけで歯が震えて、ガチガチと音が鳴り、その隙間を縫って下手くそな呼吸が漏れる。
俺にはこいつらが、俺のことをどう調理して食べようかと笑っている巨人に見えた。
早く、逃げなきゃ……
「痛ぅっ……」
逃げようと右手で身体を後ろに引きずると、砂の粒が手に食い込んで熱くて痛い。
反射で右手のひらを見ると、赤がまだ鮮やかで新鮮な傷口と、ぴょんと跳ねて気持ち悪い白い皮と、砂でポツポツと跡がついた汚らしい肌があった。
俺はそれを見てまた泣いた。
「痛い、痛いよ……なんで……」
泣いたらダメだ、泣いたら、こいつらがまた……
「お前、ゾンビのくせに泣くなよ。ウゼェんだよ」
大柄な男子は眉根を寄せながら目をかっ開き、拳を握る。
大ぶりに手を振りながら俺に向かってゆっくり前進してくる。
「おぉっ、りゅうせいくんの必殺パンチだ!」
そのガヤで、俺の心臓はまた一段ギアを上げる。
もう爆発して弾けるんじゃないかと思うくらいには心臓は早くて、うるさい。
怖くて見たくないのに大柄な男子から目を逸らすことができなくて、瞼を閉じようとしても黒が視界の上下でピクピク震えるだけで、一歩、また一歩と自分に近づいてくる男子を感じる度に息は震えを増して、心臓が耳元に近づいてくる。
来ないで、そんな言葉すら喉を通らない。
口内に広がる血の味も不快さが増して、風に運ばれてくる砂の匂いは湿っているはずの鼻にかわいた感覚を与える。
「あ……うあ……」
「日本語も喋れねぇのか、さすがゾンビだな!」
大柄の男子が腕を振りかぶった。
地面につく俺の右腕は笑っていて、身体の重心が定まらない、足を使って逃げようとしても、砂の上を撫でるだけで全く後退できない。
どうしようもないのに、迫ってくる拳は凄く遅くて、目では確かに握られた指まで拳を捉えていて、はっきり見えているのに何もできなくて……生き地獄というものがあるとしたらこれのことなのだと、子どもながらに思った。
……すぐ目の前まで拳が迫ってきた。
その時、ようやく俺の瞼が降りてきたんだ。
ありがとう、これで、少しは怖くなくなる、かな…………
……………………。
「……?」
……痛く、ない。
確かにあいつの拳が、目と鼻の先にあったはずなのに。
目はまだ開けられないが、感覚的に目の前にもうそれがないことが分かった。
どうして?
……しかも、土みたいな匂いがする。あと草の匂いも。
地面に付く四つの足から伝わる地面の土の感触は濡れてぬるぬるしてて……
「……雨?」
角に水滴が落ちてきた。
ツーっと、水滴が角を伝って額の体毛に吸い込まれていく。
それのおかげで少し冷静になれたのか、心臓の音も、忘れていた息の仕方も、少しずつ戻ってきた。
「……よし」
覚悟を決めた俺は、ゆっくりと目を開く。
目を開いても辺りは薄暗いみたいで、いつもみたいに光の眩しさに悶えることはなかった。
……でも、まだ眩しい方がマシだったかもしれない。
「ピェー!」
「キッ」
目の前に、イモもんとキールがいたからだ。
イモもんは腹を見せつけるように立ち、キールは鋭い二対の手をぶつけてニヤニヤ笑っている。
その様子から、明らかに俺に敵対していることが察せられた。
だ、誰か……
「……ガルタ、サクラ……」
…………?
……ガルタ? サクラ?
……誰だ、それは。
俺は最初から一人じゃないか。
誰かの名前を呼ぶ必要も、そもそも呼ぶ瞬間すら存在しない。
そのはずなのになんで、俺はあたかも一緒に戦ってくれる誰かがいるみたいに……
「……殺さなきゃ」
……殺さなきゃ、殺される。
それに気づいた時、俺の胸からスゥっと急激に温度が失われ、自分の体にぽっかりと穴が空いているような感覚になる。
その穴を、ひゅうひゅうと冷たい風が通り抜ける。
俺はぬかるんだ地面を蹴って大きく飛び上がり、イモもんに飛び込む。
前足が紫色に鈍く輝き、その前足がイモもんの額に触れると、それだけでイモもんの身体が風船のように弾けた。
黄色くてねっとりとした、脂みたいな体液が辺りに飛び散る。
当然俺の身体にもべっとりとこびりつき、少し身体が重くなった。
俺はキールの方に顔だけを向け、目を大きく開いて見据える。
キールはビクッと震え、鋭い斧のような腕を振りかぶった。
「キィー!!」
大振りだ。
キールの腕から白い斬撃が飛ぶが、俺は身体を逸らしてスレスレのところで避ける。
少し掠ったようで、黄色くなったベタベタの体毛が宙を舞う。
遅れて灼けるような痛みが走り、じわりと体毛が滲むが、そんなことはどうでもいい。
早く殺さないと。
俺はキールに向かって突進する。
「キッ、キィー!」
キールは脇を締めてがたがたと震えだすが、関係ない。
俺は更に加速し、角を突き立てる形でキールに突進。
キールの中心を捉え、角が根本まで刺さったのが感覚で分かった……から、俺は頭をブンっと振った。
キールの身体は面白いくらいまっすぐ飛び、地面の泥を撒き散らしながら大きな木に背中から激突した。
「ギ、ァ……」
キールは声にならない叫びをあげ、俺の角が貫通した自分の身体を見て呆然とする。
やがてキールから力が抜けていくとずるずると滑って地面に仰向けになった。
そのまま命が抜けていくみたいにシワシワと枯れ出す。
葉っぱでこんもりした頭も茶色の薄汚いハゲに成り果て、確実に死んだことが理解できた。
俺はぬかるんだ地面を踏みしめながらキールの元まで歩みより、俺が空けた風穴を覗き込む。
小さな風穴は綺麗に俺の角の形を完璧に模っていて、キールの目元の色が少し暗くなっている。
雨が降っているからだろう。
空を見上げると、角についていたキールの木屑がパラパラと降ってきて、俺の体毛はそれを絡めとる。
ちくちくして、痛い。
「……」
雨の勢いは増すばかりで、身体を打つ雨粒は冷え切った俺の身体を更に冷やす。
俺の胸の穴は空いたままだと感じるのに、その穴を得体の知れないなにかで埋められていくようにも思える。
辺りが水溜まりだらけになるほどの大雨なのに、身体にこびりついたイモもんの体液も、キールの木屑も全く落ちない。
……汚い。
そう思った俺は目の前にある水溜まりに浸かり、回転したりして全身で泥水を浴びる。
白かった体毛は瞬く間に黒に変色し、水を吸って重くなる。
俺の浸かった水溜まりには脂が浮き、回転した拍子にキールの木屑がブスリと身体に刺さる。
傷口と痣にドロドロの水が触れると、身体がじわじわと侵食されていくような気色悪い痛みが湧き上がる。
さらに汚くなった。
もう、なにをしても俺は綺麗になれない。
ゾンビだし、ツギハギだし、フランケンシュタインだ……いつもみたいに、諦めよう。
俺は穢れた存在なんだ。
その穢れを流そうと洗う度に、逆にその穢れが広がっていく、深くなっていく。
そう運命付けられている。
やっぱり、なにもしないのが一番楽だ。
なにもかも、どうでもいい。
そう思った瞬間、俺の思考回路はショートし、テレビの電源を切るみたいにプツンと視界が暗転した。
突然真っ暗になった世界に、俺は気が動転するわけでもなく至って冷静だった。
別に、真っ暗になったからなんだ……何もないだけじゃないか。
むしろ、その方が楽だ……ずっとこのままでもいい……
……また諦めた。
しかし俺の気持ちとは裏腹に、深い水から浮上している時みたく、徐々に視界が明るくなっていく。
沈みこもうとしていた俺は水面から差し込む光を見て急速に浮上していく。
すぐに水面から顔が出て、それと同時にがばっと息が溢れ、勢いよく瞼が開いた。
堰き止められていた色々なものが全身から飛び出すようで、肩でうるさく呼吸してしまう。
……数十秒、息を吸っては吐いて……やっと周りを見る余裕が生まれた。
「……ガルタの、家……?」
パチパチと瞬きしながら、ぼんやりと天井を見上げる。
オレンジがかった空の光が、緑の葉っぱから漏れ出ていて眩しい。
……そうだった。
俺たち、お泊まり会してたんだっけ。
てことは今のは…………夢……。
……また、か。
「はぁ……」
じっとりと滲む汗が、俺が殺したイモもんの体液みたいに思える。
今寝ている干し草のベッドが、俺が殺したキールの木屑で作られた針山みたいに感じる。
落ち着いていたはずの鼓動がまたドクドクと唸りだし、極寒の地にいるみたいに息が小さく震える。
俺は衝動的に前足で自分の胸を掴み、肩で呼吸をする。
……俺が、殺した。
俺が殺した。俺が命を奪った、未来を奪った。俺があいつらの鼓動を止めた。俺が…………──────────
「うぅん……ウサミ……だいすき……えへへ……」
「……は?」
俺はグリンと首を回し、声のした方を見る。
そこには、すぅすぅと気持ち良さそうに寝息をたてるガルタがいるだけだった。
それを見ていると騒いでいた心臓も呼吸も、なんでか徐々に薄まっていく。
ほんと、お前さ……
「……おやすみ」
俺はまた、目を閉じた。