第35話 冷えた絵
「──────ありがとう!!」
やまびこのように、その声が小さくこだました。
俺はぴょんと起き上がって、首を回して辺りをキョロキョロする。
泣き腫らしてちょっと赤っぽくなったサクラに、ゴロックに対峙するチュウリン。
規則性のない岩の軍団。
……そうだ、俺はラビリンスの中にいたんだ。
……俺、なんでありがとうなんて……というか、俺は寝ていたのか?
そうだ、痣に触れたら突然激痛がして……えっと、それで……
「先輩……大丈夫なんすか……?」
「へ? 大丈夫って何が……」
そういえば、妙に身体がスースーする……冷たいのに熱い、この感覚は……皮が剥けて剥き出しになった傷が風に触れるものだ……気持ちわる……。
というかなんで?
前足以外はちゃんと治って……
「うお!?」
俺は思わず声を上げた。
自分の身体の、悍ましさに。
前足は額にある痣みたいに汚らしい紫で、焦げたようなチリチリの毛が生えそろっている。
痣が前足にまで広がっている、がもう身体の重さは感じない。
一体何が起きて……
「ええい! なんとかなったならこっちをなんとかするのだよバカうさぎ!!」
混乱する俺は声のする方に首を向ける。
目に映るのは全身から汗をダラダラ流しながら必死の形相で逃げるチュウリンの姿。
そうだ……俺が戦わないといけない、ここまで守ってくれた分。
俺は前のめりになって後ろ足に力を入れる。
そしてそのまま地面を蹴った。
それと同タイミング、後ろ足に凄まじい衝撃が襲い、大きな爆発音のようなものが耳を劈いた。
反射的に振り返る前に、俺の眼前にゴロックが現れた。
そしてそのまま、捻れた角が突き刺さる。
「……ゴ」
「ぬわぁぁぁぁあ!?」
豆腐に箸を突き刺すくらい簡単に、ゴロックの身体に角が突き刺さった。
遅れて衝撃波が発生し、チュウリンが吹っ飛ばされた。
そしてゴロックの身体にヒビが伝い……一瞬で崩れ去った。
俺は呆然と地面を踏み、瞬きすることしかできない。
「あぐッ……!?」
そうしていると突然痛みが全身に走り、数歩後ずさる。
針を深くまで刺されるような痛み……思わず身体が硬直する。
何一つ状況を飲み込めない……気持ち悪いし、痛いし、頭が正常に回ってくれない。
「ご、ゴロ〜!」
俺はその鳴き声のした方を見る。
見事にUターンして逃げ出そうとするゴロックの姿が目に入った。
それを見て、腹の底から沸々と熱が這い上がってくる。
「俺の友達を傷つけたくせに……」
その熱が、俺の頭を真っ赤に染めた。
「逃げるなァ!!」
俺は曲線を描くように飛び上がった。
太陽を背にして、俺は回転する。そのまま逃げるゴロックに向かって落下。
視界がぐるぐると混ざり合い、首の後ろ辺りに血の巡りを感じるものの……三半規管は不思議と異常ない。
身体に吹き付ける風は相変わらず不快でしかないが。
回転速度は際限なく加速し、加速し、加速する。
視界は全く機能していないが、身体の感覚が鋭敏になりすぎてゴロックの位置がなんとなくで分かる。
俺はそのなんとなくの位置に、後ろ足の踵を振り下ろした。
「っつぅ……!」
視界の情報も思考も追いつかない間に、痺れるような鈍痛が後ろ足からビリビリと全身に回る。
いったい……後ろ足の感覚がない、これ、折れてないよな……。
ゴロックは……どうなった……?
俺は地面に降り立ち、何回か瞬きをしてピントが合わせる。
「…………」
目の前のゴロックは、粉々になって沈黙していた。
ほぼ砂のように細かくなったゴロックの残骸を見て、全身がぶるぶるっと震えた。
これを……俺が…………?
「うっ……!?」
突然、太鼓のように大きな鼓動が胸から伝わる。
内側で風船が膨らんでいくような、圧迫感…………やばい、意識持っていかれる……
身体は真っ直ぐなのに揺れる視界に抗いながら、俺は一つの疑問が湧いた。
ガルタは?
人のことなんて考えてる余裕がない今、なんで今ガルタのことを考えたのか分からない。
でもなんか、不安になったんだ。
俺は前足に力を入れ、感覚のない後ろ足二本で立ち上がる。
でも上手くバランスが取れなくて、すぐに倒れ込んでしまう。
焦りと湧き上がる邪悪な力で、心臓が激しく鳴り続ける。
一秒に十回鼓動してる、それくらい頭に満ちる心臓の音。
目の前に広がる景色は黒で虫食いされていき、ぼやけて抽象画を見てる気分になる。
立て……寝るな……起きろ……まだ、ガルタが戦ってるかもしれないんだぞ……!!
「あ゛っ……!!」
喉の鳴る、音がした。
まだ声変わりをする前みたいな、高い、でもキンキンすることのない優しい声がしゃがれる音。
それが目の前から聞こえた。
黄色と黒が混じる背中から、赤が滴り落ちる。
ボトっ。
その背中から、右の黄色の棒がちぎれた。
上を向く五本の棒は力が抜けて広がり、ピンク色の丸が露になる。
その上に赤が零れて、零れでる赤を残ったもう片方の黄色い棒が抑え込む。
黄色を侵食するように赤がじわじわと広がり、ぶるぶると震えるそれは振り向いて言った。
「生きてて、よかった」
涙で滲む黄色の顔の表情は視界では伺えずとも、笑っているのが分かる。
だって、こいつはそういうやつだから。
俺の中の化け物を閉じ込めていた風船が、大きな音を立てて割れた。
押さえ込んでいた俺の中の黒が、とめどなく溢れて冷たい。




