第32話 薄氷の上のバトン
◇◇◇◇◇
「先輩っ……先輩……」
……よく、聞こえない。
目も、全然見えない。
脂の、粘っこい汚い臭いがする。
「ングッ!?」
「チュウリンッ……!」
全部ぼやけて、色しか分からない。ノイズにしか聞こえない。けど、一つだけ。さっき見たものだけ、何か分かったんだ。
もし本能があるとするなら、間違いなく本能でそれを察知してた。
俺の、身体をか、噛みちぎっていった……チュウリン……。
また、食われる。
自分の身体が削れて、離れて、なくなって、力が抜ける。
元々そこには何もなかったみたいに、だ。
あんな感覚、知らない。
俺が今まで受けてきた苦しみがどれだけ生ぬるいものだったか、思い知らされた。
殴られて、蹴られて、投げられて、引っ掻かれて、切られて、叩きつけられて……他にもたくさん。
だから今回も、大丈夫だと思ったんだ。
俺が、俺だけが苦しい思いをすれば、それで終わる。
それで友達は苦しまないで済む。
そんな素晴らしいことはないと、思っていた。
けど俺、最低だった。
サクラを突き飛ばして、チュウリンに噛まれた時。
ちょっと、思ってしまったんだ。
『助けなければよかった。』
最低だ。
それって、サクラが代わりにあんな苦しみを味わえばいいって思ったってことだろ?
それって、それってさ…………
『きったな! ゾンビ菌が移るだろ、しっし』
『あ、お前って泣くんだ。人間でもないのに』
『ツギハギくんってさぁ……』
『生きてる意味n』
「先輩っ!!!!」
「っ……!」
いきなり、身体が大きく揺らされた。
痛い、前足と、脇腹が。引っ張られて、そのまま千切れてしまいそうな痛み。
その痛みで、俺は瞼を薄く開ける。
ピクピクと痙攣して、黒が上下で震える。
ぼやけて……よく見えない。
ピンク色……丸い、緑が頭についてる……それに、なんか甘い匂いがする……?
「起きて……起きないと……」
……起き、ないと?
「みんな、死んじゃうっすよ……!」
みんな……?
みんな……みんなって…………
「笑うなぁっ!!」
誰かの……叫び声。
「ほっとけない……オイラも、戦わなきゃ……でも、先輩が……」
聞き慣れた人の、グラグラな声。
今、起きたら……どうなる……?
また……身体を食われ……足を千切られ、抉られ、助けを叫んでも奇跡は起きず…………
それなら……やっぱり起きない方が……
「スキル、はつど……ぐふっ……」
……一層、甘い香りが強くなった。
柔軟剤みたいな、ふかふかのタオルみたいな包容感。
けど、けどなんか…………
「ブロッサム、」
「やめろ」
すごく……痛そうな気がした。
「せ……せん、ぱい……?」
やっと、目が見えるようになってきた。
声も、聞こえる。
視界いっぱいに広がる、黒ずんでボロボロのサクラ。
信じられないくらい目を見開いて、俺のことをじっと見つめる。
うるうると揺れる瞳で、身体を震わせる。
「……せんぱい……立てるっすか」
「……うん」
立ちたくない。
痛くて堪らないし、全身沸騰しそうなくらい熱い。
特に左前足は今も燃えてるんじゃないかってくらいには。
形にはなっているものの、左前足にはほとんど毛が生えておらず、血管がはっきり見える剥き出しの肉の奥から、心臓とは別の脈を感じる。
それに、熱い、熱いんだ。
40度の熱なんてもんじゃない、50度以上の熱があるのかってくらいのだるさに目眩、頭痛。汗も止まらない。
それでも……立たなきゃ。
立たなきゃ、誰かがまた泣いてしまう……!
「ゴロロ!!」
後ろから聞こえた、耳を裂くその声に俺はビクンと震える。
首を曲げて振り向けば、こちらに跳び上がる一匹のゴロックの姿が。
立て、立て、立たないと、あんなのが落ちてきたら骨が折れるとかじゃ済まされない……!
「あっしの──」
茶色の玉を咥えたチュウリンが、こちらに走り出す。
あれは……ガルタが買った、ディグストーン……?
「────サクラの頑張りを無駄にするのは許さんッ!」
そして、首をブンっと振って茶色の玉をゴロックに投げつけた!
それはまっすぐゴロックに向かっていき、直撃。
その瞬間……ゴロックの動きがピタッと止まる。
「ゴッ!?」
ゴロックが垂直に落下し……俺のすぐ後ろの地面に埋まった。
た、助かった……けど一体なにが……
「立てるなら早く離脱するのだ!」
「わ、分かった!」
俺は右前足を使って身体を起こし、前に進むため左前足を前に出す。
しかし、まっすぐ棘を奥まで刺されるような痛みに思わず倒れ込んでしまう。
「クソッ、早く、立たないと……いけないのに……!」
「「ゴロー!」」
俺がモタモタしている間に、残った二体のゴロックが勢いに乗って転がってくる。
早く、早く起き上がるんだ……!
とにかく起き上がろうと地面を引っ掻いたその時……痣に、前足が一瞬だけ触れた。
その時貫くように全身に走った熱は……再び俺の中に在る、化け物を呼び起こそうとしていた。




