後編
後半視点が変わります。
彼女の悪夢は、必ず七歳の記憶から始まる。
その頃のクローデットはほとんど王都で暮らしていた。
エストリアとはまた別の国とロイデスクは戦争をしており、母親に連れられ領地から避難していたそうだ。
まだ子供だった彼女はそんな事情も知らず、呑気に王都の生活を楽しんでいた。
どこか殺伐とした領地と違い、華やかな王都は毎日新鮮な驚きを彼女に与えてくれた。
それに、いつからか会うようになった「優しいおじさん」が母親と彼女を色んな場所に連れ出し、楽しませてくれていたのだ。
その日の遠出も、彼が言い出したことだった。クローデットの住む領地から正反対の方角にある避暑地。彼女の母親も行ったことがないという場所へ招待された。
母親は随分と馬車を急がせ、ピリピリとしていたそうだ。
少し痛いくらいの力で彼女を抱きしめるため、クローデットはよくわからないなりに母親の邪魔になってはいけないと大人しくしていた。
そのうちに、母親の胸の中で眠ってしまった。
目覚めたのは、つん裂くような母親の悲鳴が上がったからだ。何が起こっているのか理解する前に強い力で腕を掴まれ、母親から引き剥がされる。
悲痛な叫び声にクローデットは母親の姿を探すが、その時彼女を抱いていたのは父の腹心の騎士だった。
鋼のような目の前のものを映すだけの瞳がクローデットを見下ろす。まるで絵本に登場する化け物のようだった。
「かえして」と言う母親の声が響く中、彼はクローデットが抵抗する前に、凄まじい速さで馬を走らせ始めた。
「ほとんど休みなく馬を走らせ、三日後に領地へ戻っていました」
「なんて無茶を……。体調は崩さなかったか?」
「途中から記憶がないので、意識を失っていたのだと思います」
クローデットの消耗は激しく、ベッドから出られたのはそれから一ヶ月も後のことだった。
その時には邸から母親の存在が完全に消されていた。
「母の部屋は家具もなく空っぽでした。使用人たちに母の行方を聞いても『そんな人は初めからいない』と……」
「娘のあなたがいるのにそんな話が通るか!」
「通るのです。アラベール家は父の言うことが絶対でした」
クローデットは大きくなってから母親のその後を知った。
彼女の母親は避暑地に向かう道中に事故死ということになっていた。ただ、同時期に避暑地に誘った「優しいおじさん」が行方不明になっていること、クローデットが見た最期の母親の様子からして、本当に事故死かは疑惑が残る。
ダミアン・アラベールとその信奉者とも言うべき側近たちは、事故死に見せかけた殺害などやりかねない集団だった。
当時のクローデットはそんなことはまったく知らず、大好きな母親を周囲にいない者扱いされて、ただただ混乱していた。母親と親しかった使用人たちもいなくなっており、完全に孤立してしまった。
そんな彼女に追い討ちをかける事件が起こる。
空っぽの母親の部屋に新しい住人が入ったのだ。彼女とひとつしか歳の違わない、父親そっくりの異母妹を連れた継母だった。
「……父は、戦の褒賞で母との結婚を王に願ったのです。使用人も、親戚たちも、みんな、夢のような恋物語だと、誰もが憧れる素晴らしい結婚だとわたくしに言っていました。でも、母には仲のいい婚約者がいたのです。王命で無理矢理白紙撤回にして、結婚したのに……」
クローデットは言葉を詰まらせた。ジョエルは何も言えない。
幼いクローデットが親しくしていた「優しいおじさん」は母親のかつての婚約者だったようだ。母親は不倫の末に、夫と離婚しようとしていた。
クローデットの母親は姦通罪を犯していたが、だからといって私刑は許されることではない。
ダミアンだって王命で他人から奪い取った令嬢と結婚しておきながら、浮気をしていたのだ。妻を責められる立場ではない。
でも、アラベール家では、ダミアンが正義なのだ。
元愛人母子が邸に来たことで、クローデットの冷遇の日々は始まった。と言っても放置されるだけで使用人たちはある程度彼女の面倒をみたし、家庭教師もついていた。
ただ、家族の団欒とは無縁であった。
「継母たちもあなたを無視したのか?」
「……ある事件があってから、関わらなくなりました」
それは、継母と異母妹が邸に来てから暫く経った頃のこと。その日もクローデットは一人で朝食を済ませ、家庭教師が来るのを待っていた。
そこへ、突然ダミアンがやってきたのた。
「父は驚いて固まるわたくしを無視して宝石箱を持ち去りました」
そこには、リボンやネックレスなど、亡き母親に貰った数少ないプレゼントが入っていた。
クローデットは取り返したかったが、父親が恐ろしく、動けなかったそうだ。
「しくしく泣いていると、部屋に異母妹が駆け込んできたのです」
クローデットに劣らず泣いていた異母妹は、先程ダミアンが持ち去った宝石箱を差し出し、『ごめんなさい』と謝った。
――お姉様と、お揃いのものが欲しかっただけなの。
どうやら、クローデットと仲良くなりたかった異母妹は、彼女がつけていたものと同じリボンをダミアンにねだったらしい。彼は同じものを探すことなく、短絡的にクローデットから奪った。
そんなつもりはまったくなかった異母妹は、何度も謝りながら宝石箱を返そうとしたが、クローデットは受け取らなかった。
「何故?」
「怖かったのです。また、父が部屋に奪いに来るのかと思うと……」
ジョエルは再び言葉を失った。
ダミアン・アラベールは一見、すらりとした長身の美男である。しかし、戦場となると、悪魔もかくや、といった有り様に変わる。
それを知る身からすると、気持ちはよくわかった。幼いクローデットにとって屈強な父親が突然部屋に入ってきて、大切な宝物を強奪していくなど、とんでもなく怖かっただろう。
「わたくしは父たちと完全に関わりを絶って育ちました。……でも、あの家を出ようとは思わなかった。母について知って、いつか父に復讐してやろうと思っていたからです」
だが、相手は一騎当千の猛者。ただの令嬢であるクローデットでは逆立ちしても敵わない。
それでも、何か意趣返しくらいはしてやろうと考えていた。
「と言っても、妙案が思いつくことはなく。手を拱いているうちに、父は自分の後継者にと選んだ少年とわたくしを婚約させました。父の配下の子供の中で一番強い子です」
「そ、そうなのか。……もしや、その彼に復讐の依頼を?」
「いいえ。そんなことをしたら彼が死んでしまいます。それに自分の復讐ですから、ひとりでやろうと心に決めていました。それに……」
「それに?」
「……彼はかつて母とわたくしを引き離し、領地へ連れ帰った騎士の息子だったのです」
母親の死の真相を知らない頃は、なんとも思っていなかったらしい。しかし、真実を知り、強い拒否感が生まれた。さらに彼は成長するにつれ、例の騎士そっくりになっていったのだ。
「顔だけではなく、声までそっくりで……。仲良くなんてできませんでした」
「それは……」
「本当に申し訳ないです。彼は何も悪いことをしていないのに。でも、あの顔を、声を聞くたびにあの日のことが蘇って……」
「仕方ない……。仕方ないことだと、俺は思う」
震えるクローデットに、ジョエルはそんな慰めの言葉しか出てこなかった。
「わたくしは自分を守るために彼を……ディオンを避け続けていました。その結果、いつの間にかディオンは異母妹のセシルと恋仲になり、ついには駆け落ちをしてしまったのです」
「か、駆け落ち……!」
急展開に驚愕するジョエルをよそにクローデットは苦しげに話を続ける。
「ディオンは、義理堅い性格です。異母妹のセシルも、姉の婚約者と恋仲になってのうのうといられる厚顔無恥ではなかった。だから、駆け落ちするしかないと思い詰めたのかもしれません。
……溺愛するセシルと、目をかけていたディオン。父にとって大切な二人がいなくなり、謀らずもわたくしの望みは叶ったのです。ざまぁ見ろと思いました」
大好きな母親を奪われたクローデットのように、父親の大切なものも失われた。
憎悪が滲むはずの恨み言は、どこか力無く、クローデットの死んだ目がますます暗く濁る。
「……その後の二人に何かあったのか?」
「……はい。一週間と経たずに二人は『処分』されました」
「処分……?」
「ディオンの父親が言ったのです。父の期待に裏切ったディオンと反抗したセシルは処分した、と。
……ジョエル様。本当は、あなたの妻としてこちらに来る予定だったのは、セシルでした。セシルはディオンを愛していたので、その話から逃げるために駆け落ちをしたのです。
……でも、だからって、殺さなくても。殺さなくても、よかったのに」
二人がどのように処分されたか、クローデットは詳しく教えられなかった。
しかし、その翌日、セシルの遺体は近くにある大きな川の岸に流れ着いているのが見つかった。酷く痛めつけられたのか、遺体の損傷は激しかったそうだ。
ディオンの遺体は最後まで見つからなかったらしい。セシルと違い、遠くまで流されてしまったのだろう。
その後、ダミアンは何事もなかったかのように、セシルの死を嘆く義母と離縁して修道院に送り、新しい妻を娶った。
セシルが亡くなって、一月も経っていない。流石にあんまりだと抗議したクローデットにダミアンはこんな言葉を言い放った。
――そんな者はいなかった。
「わたくしは、心のどこかで信じていました。セシルとディオンを殺したのは、側近たちの暴走で、父は関与していないのだと。父は、セシルを自分に似ていると言って、とても可愛がっていたんです。愛しているのだと思っていました。……でも、そんなもの、幻想でしかなかった。
あの人は自分だけが大切で、大好きなのです。セシルのことも、自分に似ていたから愛でていただけ。愛玩動物のようなものだったのです。そんなことに、わたくしは手遅れになるまで気づかなかった……」
何をしてもダミアンに関わるだけ不幸になる人が増えるだけだとクローデットは呟いた。
話し終え、虚ろな目をして冷め切ったカップを両手で包むクローデットを見て、ジョエルは怒りに震えた。
周りに不幸を振り撒くダミアン・アラベールに腹が立って仕方がなかったのだ。結局、アラベール家の人々はダミアン以外誰も幸せではない。
何より腹が立つのは、そんな最低な男にこれっぽっちも歯が立たなかった自分だ。
どんなに怒りを感じても、ジョエルではダミアンに何も反撃できない。戦場でいやというほど思い知らされていた。
そう考えてから、思い直す。戦うというジョエルの得意分野において、今のところダミアンには敵わない。
でも政治という別の分野なら勝てるのではないか。
文官たちは巧みな話術や、粘り強い交渉で戦争そのものを回避する。そうやって、あの男を戦場から遠ざけることができるかもしれない。
自慢の剣の腕を、平和によって鈍らせていく。ダミアンにとって、一番の復讐になりそうだ。
正直、彼も政治は得意ではない。でも、未だに緊張状態にある両国の関係を改善するという点では頑張れるのではないかと思った。
そう、クローデットを大切にし、仲睦まじい夫婦になることで。
ジョエルの彼女に対する感情は、慣れない異国で努力する芯の強さに対する尊敬の気持ちや、哀しい境遇への同情ばかりで、恋ではない。
だが、ダミアンからクローデットを守ってやりたいとは思う。
母や妹、婚約者の死を経てボロボロになったクローデットに安らげる場所を作ってやりたい。それは自国の領民たちに対する気持ちに近いものであった。
今のクローデットは「これ以上父親の犠牲者を生ませない」という責任感からギリギリ生きている。そんな彼女が、いつか幸せだと笑って言える日が来てほしい。
クローデットや領民たちがそう思える場所を作りたいと、ジョエルは思った。
「……話し辛いことを、全部話してくれてありがとう、クローデット。そんなに自分を責めないでくれ。君の妹たちが亡くなったのは、絶対に君のせいではない……」
今はこんなありきたりな慰めの言葉しか出てこないが、行動でクローデットや領地の傷を癒やしていこうと、決意した。
◇◇◇
「何か問題は起こっていないか?」
ジョエルはそう言いながら今回の大会の運営本部に顔を出した。そこにはすっかり顔馴染みになった王都の騎士団長とその部下たちがいる。
「今のところ問題ない。順調だ」
ゆったりと笑って答える騎士団長と、忙しなくしながらも、にこやかな挨拶を返してくれる騎士たちの様子に、本当に何も起こっていないようだと胸を撫で下ろす。
今回の件はジョエルも深く関わっているから、運営に携わってはいないが、心配していた。
なんせ今日はエストリアとロイデクスの、和平十年を祝う剣術大会だ。失敗したら遺恨が残る。
両国の戦争が終わって十年。その和平の条件になっていたジョエルとクローデットが正式に夫婦になったのは、彼の元へ彼女が来てから三ヶ月後のことだった。
それから二人は特に大きな諍いもなく、少しずつ仲を深め、三人の子供を授かった。さらにジョエルは父から爵位を継承して辺境伯になった。
三児の父となり、民の命を背負う立場になって貫禄がついた、かは自分ではわからない。だが、今回の剣術大会のような両国の交流を提案できるようにはなっていた。
「ナルージャ辺境伯殿は心配性であるな。だが、ここは我らに任せてくれ。今日はご家族も来ているのだろう? そちらに行ってやってはどうだ」
「わかった。でも何か問題が起きたら気軽に呼んでくれ」
エストリアの王都で開催された剣術大会には、ロイデスクからの来賓客だけではなく、こちらの主要な貴族も社交のため大抵参加していた。
なので、今大会の発案者であるジョエルの妻と子供たちも領地から出て来ている。今頃は王都で暮らす両親と合流しているはずだ。
「そういえば」
家族の元へ急ごうと歩き出したジョエルの背に騎士団長が声をかける。
「特に招待はしていないのだが、オクタヴィアン殿下がいらっしゃっているらしい。貴君の奥方にまた妙なちょっかいをかけるかもしれん。側を離れん方がいいぞ」
「本当か。教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」
騎士団長からの忠告に礼を言いながらも彼は苦虫を噛み潰したような顔になる。
かつて、彼からカロルを奪ったオクタヴィアン。すぐにカロルと結婚しそうな様子だった彼だが、未だに独身である。
元々女好きだった彼は、あれから年々奔放さが増し、最近では美しい女性であれば人妻であろうと関係なく口説いている。
そんなオクタヴィアンがクローデットに目をつけたのだ。
夜会に夫婦で出席すると隙あらばクローデットを別室へ連れ込もうとするので、ここ最近のジョエルは番犬のように妻に張りついていた。
憂いを帯びた美貌と慎ましやかな性格のクローデットに惹かれるのは仕方ないが、オクタヴィアンには他にもいくらでも相手がいる。ジョエルの大切な妻に遊び半分で手を出すのはやめてほしい。
それに、カロルのことがある。
オクタヴィアンについて王都へ行ってしまったカロル。彼女はあれ以来行方不明だ。王都に到着した記録すら見つかっていない。
カロルの逞しさならどこかで元気にしていそうではあるが、それらしい人物の目撃証言もなく、生存は絶望的だ。
カロルのことを調べていくうちに、ひとつわかったことがあった。それは、ジョエルたちの結婚についてだ。
実は最初に両国の和平の条件として名前が上がったのはオクタヴィアンとロイデクスの王女だったらしい。でも、それでは浮気できないと彼がゴネ続けた結果、ジョエルとクローデットに代わったらしい。
辺境に訪問したのもクローデットを見るため、というより、ジョエルに恋人がいると知ったからだ。
絶対にロイデクスの王女と結婚したくなかったオクタヴィアンはジョエルが結婚から逃げないように、ご丁寧に恋人を奪っていった。
そんなことをする男が用済みの飽きた女をどう扱うか、想像に難くない。
すっかりクローデットを愛している今となっては出会いのきっかけとなった彼に感謝しなくもないが、碌でもない人物であることは間違いない。今日も妻の番犬になるためにジョエルは歩き出した。
それに今日はオクタヴィアンだけではなく、他にもクローデットと子供たちにとって危険な相手がロイデクスから来訪している。絶対に接触させる訳にはいかないと、足を急がせた。
「退屈だ」
ダミアン・アラベールは闘技場を睥睨し、そう呟いた。今そこではエストリアとロイデスクの騎士が戦っている。
けれどもその腕前は彼からしたら凡俗もいいところ。剣舞のような華麗さも、殺し合いのひりつくような緊張感もない試合は退屈この上なかった。
両国の和平十年を祝うこの式典に、ロイデスク最強の剣士である彼は、王族から来賓としての招待を受けるように命じられた。
仕方なく来てはみたものの、実戦を経験したことのない若造ばかりが参加する大会に、彼の求めるものはなかった。
「こんな遊戯の何が楽しいのか。腸どころか血すら出ないのに」
「まったくでございますね」
そんなことを言うダミアンと側近に対して観衆は盛り上がっていた。すっかり興ざめした彼は臣下たちに帰還の準備を命じる。
王に命じられたから来たが、とんだ時間の無駄だった。さっさと会場を後にする。
くだらない。
ここ数年、彼の頭はその一言に埋め尽くされている。彼に戦争以外の仕事を押しつける王も、平和という名の停滞に喜ぶ貴族も、騎士道とかいう陳腐なものに拘泥し、実力の伴わない騎士も。
誰もが彼が望まないものを寄越し、本当にほしいものを渡さない。
それは例えば彼の子供だ。
最初の妻も次の妻も女児しか産まず、それから何度か妻を娶ったが、子供すらできなかった。
かつてこれはと見込んだ男は、娘と共に最悪な形で彼を裏切った。
ダミアンはただ、彼と同等の優れた後継者を望んでいただけなのに、周りはそれに報いてはくれないらしい。
出発の準備が整うまで、彼は闘技場の周りを散策する。伴はいない。歳はとったが、未だに護衛よりも彼の方がずっと強いからだ。
闘技場の外はそこかしこに露店が並び、大層賑わっていた。大半が平民だ。だが、その中に警備をする騎士たちが混じっている。
その一挙手一投足を見るだけでダミアンはどれほど強いかが看破できた。いくらか彼のお眼鏡に適う実力者はいたが、やはりいまいちだと断じる。
エストリアで彼が唯一認めた男は、ナルージャ辺境伯ただひとりだ。
戦場にてあいまみえ、唯一ダミアンが殺せなかった男。
大層気に入って、新しい若い妻を娶って不要になった長女を与えた。
あの男にはもう一度会っておきたいと、思っていた時だった。
「大丈夫ですか? 会場の入り口はこちらですよ」
観衆の騒めきの中から朗らかな少年の声が彼まで届いた。何故かそれが気になって振り向く。
そこにはベールのついた帽子を被った喪服の女を、人波から庇いながら進む金髪の少年がいた。歳の頃は七つか八つほどだろうか。幼いながら整った顔立ちに上等な身なりの、恐らく貴族の子供だと思われた。
ダミアンはその子供を食い入るように見つめていた。彼と縁もゆかりもないはずの、異国の子供。なのにその瞳は、彼と同じ深紅だった。
鬣のような金髪も、ぱっちりとした二重の瞳も、通った鼻筋も、形の良い唇も。
ダミアンが子供の頃の、生き写しだ。
ちょうど少年は喪服の女を案内し終え、別れたところだった。女から謝礼だろうか、箱のようなものを受け取った少年は、不思議そうに首を傾げながら踵を返す。
彼は人を掻き分け、後を追おうとした。
「セシル!」
だが、ダミアンが追いつく前に少年を呼び止める者がいた。
「母上!」
「駄目じゃない、急にいなくなったら。びっくりしたわ」
「ごめんなさい! 困っている方がいたのです」
少年が嬉しそうに駆け寄ったのは、麗しい貴婦人だった。
夜空を流れる銀河のように輝く銀髪に、海より深い青い瞳。透き通るように白い肌に、どこか憂いを帯びた美貌。
その女を、ダミアンはよく知っていた。彼がかつて欲した女だ。いつもは少し寂しげなのに、誰よりも幸福そうに笑う女。彼の最初の妻。夜会でたまたま婚約者といるところを見かけ、その笑顔に一目惚れした。
少年は貴婦人と何やら会話しながら手を繋ぐ。彼女はあの時のように笑った。
ダミアンによく似た少年に、見惚れるような笑顔を浮かべる妻。
その光景は若き日の彼が思い描いた理想そのものだった。思わず呆然としてしまう。
彼が固まっているうちに、別の誰かが二人に声をかけた。
ひとりは少年よりさらに年少の男の子の手を引く老貴婦人。もうひとりは。
忘れもしないあの鋭い眼差し。右目と左腕がないが、間違いなくナルージャ辺境伯だ。彼はある方の腕にまだ幼児といった年頃の少女を抱えている。
そこでやっとダミアンはすべてを理解した。
貴婦人は、辺境伯の元へ嫁がせた彼の長女。そして、金髪の少年は彼の孫だ。大した価値もないと思っていた娘は、どうやら少しは彼の役に立ってくれたらしい。
ダミアンと、彼に唯一対抗できたナルージャ辺境伯の血を引く、彼によく似た子供。ダミアンの後継者にこれ以上ない存在だ。
どうやら子供は複数いるようだし、ひとりくらいこちらが貰ってもいいだろう。
そう思い、一歩踏み出した時だった。
「ダミアン様、準備が整いました」
気配もなく背後に立った側近の言葉で反射的に振り返る。しかし、そこにいたのは側近ではなかった。
「貴様は……」
「お久しぶりです。ダミアン様」
鋼のような瞳が彼を映す。側近によく似ているのにずっと若い青年が彼を見据えていた。
よく知っている男だった。でも、この場に、いや、この世にいるはずのない男だ。
「ディオン、生きていたのか」
「ええ。残念ながら。私はセシルと一緒に死ねませんでした」
かつて目をかけていた側近の息子。ダミアンを裏切った次女、セシルと共に始末したはずのディオンがそこにいた。
声も佇まいも至極冷静だが、その眼差しには隠しきれない憎悪と殺気が滲んでいる。
強い殺意を向けられたダミアンの思考は目の前の敵を斬ることだけに切り替わった。
何故生きているのか、とか、どうしてここにいるのか、なんてどうでもいい。久々に手応えのありそうな相手の登場に、ダミアンの血が沸き、剣の柄に手をかける。
だから、反応が遅れた。
とん、と背後に何かがぶつかる。
背中に違和感を覚え、顔だけ振り向いたダミアンの目に飛び込んできたのは、ごく平凡な初老の男の顔だった。ただ、その表情は憎しみや恨みで悪鬼のように歪んでいる。
男は彼の背中にナイフを突き刺したらしい。それくらいダミアンには大した痛手にならない。そのはずなのに、足がふらついた。
倒れそうになった彼を支えたのはディオンだった。
「神経毒です」
群衆の声にかき消されるほど小さな囁きが耳に届く。
「大丈夫。即効性はありますが、死に至る毒ではありません。エストリアに迷惑がかかってはいけませんから、あなたの死体はロイデスク国内で発見される予定です。だから、国境を越えるまでは殺しませんよ」
ディオンはそう続けて、早くも舌すら動かせない彼を抱えた。周りの誰かが様子のおかしい彼に気づき、声をかけてくる。
「お酒を過ごされたようです」
先程ダミアンを刺した男が柔和な笑顔でそれに答えると、なんだ、というように笑い声が上がった。
誰も彼が刺されたことに気づいていない。ダミアンの背にはまだナイフがあるのに。犯人の男が血の着いた手袋を今素早く脱いだのに。
「俺も手伝おうか?」
完全に脱力したダミアンを運ぶのに苦戦しているディオンたちを見兼ねて平民の男が手伝いを申し出る。
ダミアンには救いの手だった。助けを求めて男の顔を見て、驚愕した。
よく知る男だった。戦場で何度も協力した、王家に仕える隠密だ。
「ありがとうございます。よろしくお願いしますね」
「おう。てめぇら、これの部下どもを確保しろ」
ディオンが男にダミアンを渡すと、ひとりでしっかり支えてみせた。そして、他にも紛れていたらしい自分の部下に指示を出す。
隠密の男は彼の顔を覗き込んでにやりと笑う。
「平和な世の中に狂戦士はもういらねぇってよ。大人しくしてりゃ、剣聖様って崇められたのに」
彼の言葉で、これがただのディオンの復讐ではないことを知る。始めから、ダミアンは謀られていたのだ。
「……彼女よりも、苦しんで死ね」
彼を刺した男が人好きする柔和な笑顔を消して、憎悪の煮凝りのような言葉を吹き込み離れていった。
あれは誰だろうと働かなくなった頭でぼんやりと思う。
「あの人はあんたが略奪して結婚した最初の奥さんの、元婚約者だよ。あんたの奥さんとは幼馴染で相思相愛だったんだと。あの人の兄さん、今では侯爵でね。陛下の腹心なんだよ。
それからディオン様。今は別の名前を名乗って新しい戸籍になってるんだが、腕を見込まれて最近騎士団長の養子になって出世してるよ。腕前は勿論、あんたと違って他人の婚約者を奪ったり、無駄な戦争をしようとしない、高潔な御仁だからな。剣聖の名に、これ以上なく相応しいって評判だぜ? 元上司だったあんたもそう思うだろ?」
確かにディオンは強い。彼も認める腕前だ。でも、彼ほどではない。
剣聖は、不敗の英雄の称号は、彼のものだ。戦って奪えと思う彼の耳に「実力だけあればなんでも許される時代はもう終わったんだよ」という男の言葉が届いた。
(そうか、俺の時代は終わったのか)
地位も名誉も首級を積み上げてすべてを勝ち取る時代は。
視界が暗くなっていく。彼の脳裏に浮かんだのは、若き日の戦勝会だった。婚約者と幸せそうに笑い合う妻の姿を思い出す。
敵の首を代償に、なんでも望んだものを手に入れてきたダミアンだが、終ぞ自分の隣であんな風に笑う妻を見ることは叶わなかった。
人ごみの向こうで、金髪の少年が母親に小さな箱を手渡している。それをディオンは初老の男と並んで見ていた。
不思議そうに受け取った銀髪の貴婦人の顔を見て、フッと笑う。
(そんな表情、初めて見るな)
かつての婚約者、クローデットはとにかく大人しい、というより無感情な少女だった。
他人へ関心が薄く、ディオンにもまるで興味を示さない。その内鬱陶しくなったのか、会いに行っても雲隠れをされるようになった。
ひとりで困っているディオンを気にかけて、相手をしてくれたのが、セシルだった。気づけば婚約者より会う回数が増え、いつの間にかセシルに会うために婚約者を訪問する、なんて不誠実なことをしていた。
けじめをつけねば、と思っていた。
勘当覚悟でダミアンにクローデットではなくセシルと結婚したいと願い出るつもりだった。でも、そうする前にセシルの結婚が決まってしまったのだ。
セシルの結婚は王命である。彼らの気持ちひとつで断れるものではない。だから、駆け落ちするしかなかった。
無謀で無計画な逃亡劇はあっさりと終わりを告げ、二人は捕まった。
ディオンは父親を含めたダミアンの側近たちに散々殴られてから川へ投げ捨てられた。死んだと思っていたのに、気づけば彼は人に助けられ、命を繋いでいた。
一方、同じ扱いを受けたセシルは亡くなっており、クローデットは彼女の代わりにエストリアへ送られていた。当時のディオンは自分の行動が生んだ最悪の結果に絶望した。
何故自分は生きているのか、と思ったものだ。
けれども、今は生きていてよかったと思う。
クローデットは受け取った箱を驚愕の目で見ている。見覚えがあるのだろう。それもそのはずで、あれは彼女が幼き日に失った、大切な宝石箱だ。
恐る恐る蓋を開けて中身を確認している。何ひとつ欠けていないはずだ。セシルがずっと大切に保管していたのだから。
その姿を見守っていたディオンの隣に、静かに喪服の女が立った。
中年といった年頃なのに、色褪せない美貌の女性はセシルの実母で、クローデットにとっては継母だった人物だ。
「……よかったわ、やっとお返しできて」
彼女が心の底から安堵した様子で呟く。
まだ、セシルが幼かった頃、軽はずみな一言で姉から奪ってしまった宝物。いつか返したいと大切にしていたそれを、駆け落ちの際に彼女は母へ手紙と共に託していた。
でも、セシルが亡くなってすぐにクローデットは嫁ぎ、彼女自身も夫に修道院へ送られたせいで、返せないまま十年も経ってしまったのだ。
今回の復讐を機に、故人の心残りが解消できてホッとしているようだ。
ずっと箱の中を覗いていたクローデットが顔を上げた。その目には涙が浮かんでいる。かつてとは違い、その瞳は生気に溢れ、きらきらと輝いていた。
ふらふらと歩き出し、誰かを探すように周囲を見回す。
見つかる訳にはいかない彼らは人影に身を隠した。
彼らへ視線が向く前にクローデットの足は不意に止まり、背後を振り返る。彼女を呼び止め、駆け寄ったのはレンガのような赤茶色の髪の男だった。
クローデットの夫のジョエルだ。彼は泣いている妻に驚きながらも宥めて、話を聞いているようだった。
そこへ、子供たちや義理の両親たちも寄り添っている。暖かい、クローデットの新しい家族の姿だった。
「……すごく、しあわせそうだ。よかった。よかった……」
隣の、クローデットの義理の父になったかもしれない男が噛み締めるように呟く。その声は少し滲み、そっと目元をハンカチで拭っている。
長年の想い人を殺された彼は貴族籍を抜け、市井に交じり復讐の機会を虎視眈々と狙っていた。その最中に恋人の忘れ形見が不遇な立場にあることを知って、ずっと心配していたそうだ。
母親と生き写しのクローデットの幸せそうな姿に、救われた気持ちなのかもしれない。
彼も嬉しかった。一時は敵国に嫁ぐなんて、と思ったが、彼女の母親に手を下した男の息子であるディオンと結婚するより、ずっと幸せだろう。
ディオンにはもう、何もない。
けれどもあの幸せが守られたなら、彼が生き残った意味はあった気がする。
最後に、泣くクローデットとそれに寄り添うジョエルをちらりと見た。そこにはなんの憂いもなく、不安もない。
ディオンたちの復讐はまだ終わらない。彼らから大切な女性たちを奪ったダミアンと、その側近たちには同じ苦しみを、いや、それ以上の苦しみを味わわせなければ、気がすまなかった。
幸せな家族の姿を十分に見守った三人は、示し合わせたように同時にその場を立ち去った。
〈登場人物のその後〉
・ジョエル
妻の宝物を届けてくれた人を探したが見つからなかった。後にダミアンが領地に帰る道中崖崩れに巻き込まれ死亡したと知ってホッとする。
後オクタヴィアンは色々やらかし過ぎて最終的に他国へお婿に出されたので、番犬になる必要はなくなったが、いつまでも夫婦円満であった。
・クローデット
宝物を返してくれた人とは再会できなかった。父の訃報を聞いて安心した。長男がセシル(異母妹)にそっくり、つまり父にもそっくりなので、奪われるのではと恐れていた。
後任のマイファル辺境伯が知ってる人で喜び、家族ぐるみで交流を深めた。
・ディオン
復讐後は一生騎士として立派に勤め上げた。大変モテたが生涯独身のままだった。
・セシル(異母妹)の母
復讐後は送られた修道院に戻り、娘の冥福を祈り続ける一生を送った。
・クローデット母の元婚約者
復讐後、新しいマイファル辺境伯に任じられ、クローデットと再会する。色々あったけれど、愛した人の子供や孫の幸せを近くで見届けられて幸せ。
・ダミアン
ロイデクス国内の山中を通る街道で、崖崩れに巻き込まれて死亡していたところを発見される。彼に同行していた腹心の部下たちもすべて巻き込まれ、死亡が確認された。
真相は違うのだが、他の貴族に煙たがられていたため、詳しい調査はされなかった。アラベール家以外では、「そんな人いたなぁ」程度の知名度なので、すぐに忘れられる。
最後まで読んで下さりありがとうございました。