前編
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――ねぇ、ジョエル。別れましょ。
カーテンを引いた薄暗い部屋。そのベッドの上で布団に包まったジョエルの頭に恋人が最後に言った言葉がこだました。彼はグッと布団を握り込む。
彼の恋人、カロルは別れ話をしているというのに妙に明るく、晴れやかな表情をしていた。
――だってオクタヴィアン様と結婚したらお妃様になれるんでしょ? 辺境伯の奥さんより、そっちの方が贅沢できるじゃない。
ジョエルの好きな優しい栗色の瞳を輝かせてそんなことを言う恋人に、彼はなんと返事をしたのだったか。
確か、それは違うと返答した気がする。オクタヴィアンは第三王子なのだ。継承権は持っているが、カロルが言うところの『お妃様』、つまり王妃になるための国王には遠い立場である。
それに、平民であるカロルが第三王子の正妻として迎え入れられるとは到底思えなかった。
良くて愛妾、そうでなければ何者にもなれないまま、飽きて捨てられる。
幼い頃から鍛錬に勤しんで来たジョエルはレンガのような髪と瞳に無骨な容姿で、性格も朴訥としている。
最新の流行を浴びて育ち、話術に長ける上に金髪碧眼の美麗な貴公子であるオクタヴィアンをカロルが選ぶ気持ちはわかった。でも、彼に彼女を幸せにできるとは思えない。
カロルは、わかりやすく不機嫌になった。
――そこは恋人の幸せを願って送り出すところじゃない? しつこい男は嫌われるわよ。
――ていうか、ここ三年、あたしたち全然会ってなかったんだから、もう恋人じゃなくない?
痛いところを突かれてジョエルは黙り込む。
ここ三年、彼はずっと戦場にいた。国境が接した隣国との小競り合いが続いていたのだ。
隣国の辺境伯は狂戦士の異名で呼ばれるほどの戦狂いで、小競り合いと言いつつこちらの被害は甚大だった。
特に、ジョエルの父はその狂戦士と直にやり合い右目と左腕を失い、左脚が上手く動かなくなってしまった。
粘り強い交渉の末に停戦に漕ぎ着けたが、もう少し遅かったら彼も死んでいたかもしれない。
そんな戦場の心の支えが、カロルだった。できる限りこまめに手紙を送っていたが、恋人らしいことは何もして上げられなかった自覚はあった。
戦場から帰ってからも後始末に奔走し、碌に会えていないし、恋人失格と言われても仕方がない。
――それにこれからジョエルの奥さんになる人が来るんだし、ちょうどいいじゃん!
その言葉に全力で反論する。
停戦にあたり、両国は様々な取り決めをした。そのひとつがジョエルと、かの狂戦士の娘との結婚だ。彼に一言の断りもなく決められたこの婚約は災いでしかなかった。
やっと戦争が終わって忙しくしていたジョエルは、婚約の撤回のため、さらに奔走することになったし、大量に兵士を殺した狂戦士の娘が嫁いでくると、領民たちは怯えた。
そして何より、狂戦士の娘を見てみたいとオクタヴィアンが領地を訪問し、カロルと出会ってしまった。
本当は、戦争が終わり次第、カロルに求婚しようと思っていた。なのにその計画は何もしないうちに頓挫して、さらには恋人自体を失いそうになっている。
ジョエルは混乱して、なんとかカロルの気持ちを取り戻そうと言葉を尽くした。しかし、彼女は鬱陶しそうに顔を歪めるだけだった。
――ほんと、しつこい。てかそもそも玉の輿に乗れるからあんたと付き合ってただけだし。もっといい条件のオトコが現れたらそっちに乗り換えるに決まってんじゃん。
きっぱりと「愛していない」と言われたジョエルは言葉を失った。衝撃に固まる彼にカロルは背を向ける。
――じゃあね。そこそこ贅沢させて貰ったけど、あんたつまんなかったわ。
そんな言葉を残し、カロルは彼の元から去った。
そして、狂戦士の娘を目的に訪問していたオクタヴィアンも、田舎は飽きたと彼女を連れて王都へ帰っていったのだ。
それ以来、ジョエルは布団から出られなくなった。
辺境伯の父は今、最新の治療を受けるために王都へ行っている。母もそれに付き添って留守だ。つまり、今父の代わりを果たせるのは彼しかいない。
早く布団から出て仕事をしなければ、ただでさえ戦後で混乱した領民の生活が立ち行かなくなってしまう。
わかっている。
よくわかっているのだ。
しかし、今日もジョエルは掛け布団を被って丸くなったまま動けなかった。心配した使用人たちが入れ替わり立ち替わり様子を見に来るが、返事すらできない。
このままでは駄目だと、頭では理解していても体と気持ちがついていかなかった。
不甲斐なさに忸怩たる思いをしていると、不意に邸の雰囲気が変わるのがわかった。
浮き足立つような空気に布団に包まっただけの彼も落ち着かなくなる。
そのうちに、執事の声が聞こえた。
『申し訳ありませんが、ジョエル様は加減を悪くされています。本日のところはお引き取りを』
扉越しに聞こえた言葉に来客があったことを悟る。鈍い頭でそんな予定があったか思い出そうとして、やっと例の婚約のことを思い出した。
令嬢とはいえ、元敵国の人間に弱っていると知られてしまった。慌てて身を起こそうとするがやはり動けない。筋力的な問題ではなかった。
(俺は、どうしてしまったのだろう)
布団から出られないなんて、人生初めての経験だ。そもそも彼は寝つきが良ければ寝起きもいい。ベッドは眠るためだけに入る場所だった。こんな風に眠れもしないのに潜り込んだことはない。
自分の変貌が、カロルとの別れが原因だとはわかっていた。けれど、どうしたらいつもの自分に戻れるのかさっぱりわからない。それだけに焦りが募る。早く、早く布団から出なければ、と。
コンコン
動けないまま、そんなことを考えていると扉がノックされる。入室の許可も出せずにいると、「失礼します」との言葉とともに扉が開く音がした。
ドッ、心臓が高鳴り、冷や汗が噴き出す。
知らない人間の声だった。かすかな裾を引き摺る音はドレス特有のものだ。それがゆっくりとベッドに近づいて来る。
極度の緊張状態に呼吸が荒くなった。
人の気配をすぐ近くに感じる。
「ご加減が優れないというのに、勝手に入って申し訳ありません」
その声は涼やかで、異国の人間だというのに訛りひとつなく彼の国、エストリアの言葉を話した。
「初めまして、ジョエル・オードラン様。わたくしはロイデクス王国のクローデット・アラベール。マイファル辺境伯の長女でございます。以後よろしくお願い申し上げます」
正直言って、自分の呼吸と鼓動が煩くあまりよく聞き取れなかった。
彼女は自己紹介だけすると、「失礼しました」と言って離れた。すぐに部屋を出る音がする。そして、別の気配がベッドの脇に立った。
「申し訳ありません、ジョエル様。お断りしたのですが、押し切られてしまって……」
執事のポールだ。謝る彼に、やはりジョエルは何も返事ができなかった。
◇◇◇
翌朝から、それは始まった。
「おはようございます。ジョエル・オードラン様」
朝食後のクローデットの訪問である。彼女はただ挨拶をしにくるだけではなかった。
「昨日のうちに上申書などの書類を拝見しました。その上で、早く予算を確保し対応した方が良い案件について報告させていただきます」
そんな、とんでもないことを言い出した。領地の内情を一日も経たないうちに把握されてしまったらしい。
部下たちは何をやっているのだろうと思ったが、両親はおらず、先の戦争で頼れる父の腹心たちも大多数が大怪我を負い、休養中である。指示のできる人間がごっそり抜けて、辺境領は未だ混乱の中にある。
そもそもジョエルがもっとしゃんとしていたら、そんな真似はさせなかった。すべては彼に原因がある。
落ち込む彼をよそにベッドの横に立つクローデットは淀みなく報告を続けている。令嬢ではなく秘書ではないかと思うほど簡潔でわかりやすい。
「以上です。それぞれの案件はナルージャ辺境伯様から信任されているバラント卿という方に相談の上、それぞれ責任者を決めて進めたいと考えています。よろしいでしょうか」
バラントは父の腹心のひとりだ。彼ならば辺境領のほとんどのことを任せられる。だから「それでいい」と一言返事をしようとしたのだ。
「……っ」
しかし、一向に声が出なかった。喉に異常がある訳ではない。でも言葉が詰まって出てこないのだ。
彼はせめてもと頷いた。外側からどう見えるか想像もつかないが、そうするしかなかった。
「……かしこまりました。どうぞ、ご自愛ください。それでは、失礼します」
なんとか彼の意志は伝わったらしい。クローデットは静かに退室した。
「……っ! ……っ!」
一人になっても声はどうしても出ず、ジョエルは悔し涙を流した。
翌日からも毎朝クローデットは『報告』に訪れた。それは領地の経営に関することだけでなく、邸の中の細々としたことや、教会への寄付など多岐に渡っていた。
クローデットはそれをどうしたいかについて自分の意見を述べ、必ず彼に許可を求めた。相変わらず声の出ないジョエルは頷くしかできない。
異国人のクローデットは周囲と少なからず軋轢を抱えただろうに、そんなことを感じさせず、滞っていた物事は進み始めた。
そして、夕方にジョエルの元へ進捗を報告しにバラントが訪れるようになった。子供の頃から知っている彼が相手でも、ジョエルは布団から出ることができない。
バラントはそれを責めることもなく、穏やかな声で報告をして帰る。
居た堪れなかった。
先の戦争で、彼は沢山の戦友を喪い、父は不具になってしまった。その直後に心の支えだった恋人も去った。
でも、そんな人間は今の辺境領には掃いて捨てるほどいる。
彼だけこんなに甘やかされているなんて、許されない。けれども、布団から出る気力が湧かない。あまりに不甲斐なかった。
せめて今の彼に出来そうなことは、返事をする、感謝の気持ちを伝えるくらいだ。情けなさに打ちのめされながらジョエルは布団の中で発声練習をした。
「あの、色々とありがとう……」
蚊の鳴くような声で伝えられたのは練習し始めて三日経ってからだった。
一人なら少しずつ出るようになった声は、人を前にすると掠れてしまい、随分時間がかかった。
当然、布団からはまだ出られない。くぐもり、不明瞭な彼の感謝の言葉を受けたクローデットは僅かに沈黙した。
「……困っている時に、助け合うのは当然のことです」
「そ、それでも……。君にとってここはまったく関係のない土地なのに」
「いえ、関係はあります」
クローデットはきっぱりと言い切った。
「こちらの領が復興しなければ、また戦争が起きてしまいますから」
淡々と、報告する時と同じ明瞭な口調だったが、そこに僅かな怯えを感じた。
確かに停戦にはなったが、こちらが隙を見せればロイデクス王国はまた攻め込んでくるだろう。
「わたくしは、もう二度と父に人を殺させたくありません」
そう、呟くと彼女はいつも通りに退室していった。
クローデットの父。狂戦士と呼ばれたダミアン・オードラン。
ジョエルは戦場で彼を見たことがある。鬣のような金髪を靡かせ、赤い瞳をギラギラと光らせて槍を振り回す彼はまさに悪鬼のようであった。
次々と彼に挑み、散っていった戦友たち。そして、なんとか喰らい付いたが、ほんの少しの負傷と引き換えに右目と左腕を喪った父。
戦うために生まれたようなあの男の平穏を、娘は願っている。
ジョエルもまた、これ以上の戦は嫌だ。だから、もう、布団から出なければ。
その日から悪戦苦闘が始まった。一度布団の中の平安を知ってしまった身には、身内同然のポールやバラントの前ですら、姿を現すのは苦痛であった。
でも、もう布団の中になどいられない。
それから一週間。布団から出られなくなって一ヶ月を数えたところで、ジョエルはやっと未来の妻と顔を合わせることに成功した。
◇◇◇
癖のない豊かな銀髪。長いまつ毛に縁取られた烟るような青い瞳。さくらんぼのようにみずみずしい唇。頬は若い桃のように色づき、その表情はややもの憂げだ。
女性らしい丸みを持ちながら折れそうなほどの細さを兼ね備える肢体は、触れれば壊れる繊細な飴細工を連想させた。
勇気を振り絞り、真正面から向き合った彼の未来の妻は、美しかった。声から想像していた、聡明で明晰な印象とは違い、憂いを帯びた美貌はどこか男心を擽る。
ただ、その美しい瞳は死んでいた。
海の、底が見えない海溝の如き深淵だ。
「おはようございます。起きられるようになられたのですね。よかったです」
「う、うん、おかげ様で……」
儚い見た目と相まって今にも死んでしまいそうだ。
彼女はジョエルの心配をよそにいつも通りに報告を始めた。片手に持ったメモを淀みなく読み上げている。
こんなに目が死んでいるのに、彼女は毎日心休まらない異国の地で、彼と領地を助けることを優先してくれたのだ。
ジョエルは申し訳なくなると同時に燃えた。
たかが失恋を引きずって無気力になっていた彼と比べ、クローデットはなんと強いのか。
彼は騎士である。か弱い令嬢が慣れない場所で背筋を伸ばして立っているのに、いつまでも不甲斐ない体たらくを晒してはいられなかった。
「今日の報告は以上です。あの、ジョエル・オー……」
「いつも本当にありがとう、クローデット!」
ジョエルはがしりとクローデットの両手を握りしめた。少しでも力加減を間違えたら砕けてしまいそうな細さである。
「俺は本日から復帰する! 長旅のあとだというのにこき使って申し訳なかった。君はゆっくり休んでくれ!」
「……隣の領ですからそれほど長旅ではありませんでしたし、こき使うというほど働いていませんが、了解致しました。休ませていただきます」
「うん。必要なものがあったら、使用人たちに言ってくれ」
ジョエルは名残惜しく思いながらクローデットの手を離した。
彼女の手は、血が通っているのかと疑いたくなるほどひんやりしている。体調を崩しているのかもしれない。
死んだ目も、冷たい手も、ゆっくり休めば治るだろうと彼は楽観的に考えていた。
クローデットが優雅にカーテシーをして退室するのを見送る。そしてジョエルは拳を天に突き上げ気合いをいれた。
「よし! 仕事するぞ!!」
久々に大勢の人の前に姿を現すのは勇気がいったが、家臣たちが暖かく迎えてくれたおかげで、もたつきながらも恙なく一日は終わった。
仕事に目処がつくまで夜中までかかった上に、怠けていたせいで疲労困憊だが、明日から以前の調子を取り戻せそうだと胸を撫で下ろし、邸へ戻った。
もう使用人たちもほとんど寝静まる時間に帰宅したというのに、何故か邸は騒ついていた。
事情を訊くと、クローデットが部屋から出てこない上、呼びかけても返事がないというのだ。ジョエルの血の気が引いた。
クローデット・アラベールは朝の日差しが降り注ぐ窓辺に安楽椅子を置き、身を預けた。軋みながらゆらゆらと揺れる振動に微かな安らぎを覚える。
静かに目を瞑ると、遠くから馬車が動き出す音がした。
ジョエルが仕事に出掛けたのだろう。そう気づいても彼女は未来の夫を見送るどころか視線を動かすことすらしなかった。
クローデットはただ薄明るい瞼の裏と、安楽椅子の揺れに身を委ね、何も考えずに過ごしたかった。
こうして何もしない時間ができたことで、彼女はやっと自分が疲れきっていると知ったのだ。頭を空っぽにして、泥のように眠りたい。
暖かな日差しの中、クローデットはとろとろと眠りに落ちていった。
夢を見る。
――おじさまに会いに行きましょうね、クローデット。……あの人のところまで逃げられれば、きっと幸せになれるわ。
――さぁ帰りましょう、お嬢様。奥様のことは心配いりませんから。
――ちがうの。お姉さまとおそろいのものがほしかっただけで……。
――クローデット、セシルと仲良くできないのか? 君たちは半分とはいえ血の繋がった姉妹じゃないか。
――愚息はダミアン様の期待に応えられないばかりか、大切な駒であるあなたの妹君を攫って逃げたので処分致しました。
――まったく、セシル様にも困ったものです。あんなにダミアン様に可愛がられてきたというのに、反抗して。ダミアン様の役に立たないなら生きる価値もありません。
――何度も言わせるな。そんな者はいなかった。
「クローデット!!!!!!」
まさに爆音と言っていい声で名前を呼ばれ、彼女は跳ね起きた。
辺りは暗く、もう日は暮れたようだ。それ以外のことはわからなかった。何しろ視界のほとんどをジョエルが占拠していたので。
「よかった! 意識が戻ったか! こんなところで寝てはだめじゃないか!」
「え……あ……。申し訳ございません……」
ジョエルは猛烈な勢いで彼女に詰め寄ってくる。思わず背もたれにピッタリくっつくほど身を引いた。
そんなクローデットの様子に気づいていないのか、彼はわかりやすく安堵する。
「いや、俺も勝手に入室してすまない。とりあえず寝台に運んでいいか?」
「いえ、じぶんで……」
返事を待たずに抱え上げようとするジョエルの手をやんわりと押し退け、クローデットは腰を上げた。
悪夢のせいか、冷たい汗をかいている。侍女はともかく、男性には触れられたくなかった。
目覚めたばかりで意識がはっきりしないが、問題ないと歩き出そうとした時だった。かくんと膝から力が抜けて、安楽椅子から滑り落ちる。
「あれ……?」
「クローデット!!」
ぐるぐると景色が回る。腰のあたりを強く支えられたのを最後にクローデットの意識は途絶えた。
ジョエルが復帰した日に倒れたクローデットは高熱が出て、そのまま一日意識が戻らなかった。
侍医が言うには睡眠不足と過労からくるただの風邪とのことだったが、目覚めるまでジョエルは気が気ではなかった。
過労の原因は、明らかにジョエルにある。彼がウジウジしていたからクローデットは無理をしたのだ。
とりあえず平身低頭謝ろうと、近くにある花屋の全種類の花を花束にして貰い、レモンを大量購入した。風邪の時はレモン果汁とたっぷりの蜂蜜を湯で割った蜂蜜レモンが一番、とは母の教えである。
母がいつもやってくれていた通りに手ずからレモンを搾ったら、力を入れすぎて料理長に怒られた。皮まで搾ると苦味が出てしまうらしい。
怒られながらなんとか作った蜂蜜レモンと、「ごちゃついている」と大不評の花束を手にクローデットの部屋を訪ねた。
彼女は既に意識を取り戻しており、ジョエルの来訪にゆっくり身を起こした。熱のせいで潤んだ瞳や上気した頬、普段はきっちりと隠された首筋に思わず視線が吸い寄せられる。
「この度はご迷惑をおかけして、申し訳ありません……」
「……いやっ! 謝るのは俺の方だ!」
そんな有り様だったので先手を取られてしまった。彼は慌ててベッドサイドに駆け寄り、無理をして起き上がるクローデットを寝かせようとした。
「大丈夫です。このままで。寝たままだと話しにくいので……」
「無理はしないでくれ。俺がいては休めないならこれだけ置いて出て行く」
これ、と蜂蜜レモンを示すと同時に彼と一緒に入室した執事が大きな花束を軽く持ち上げた。
クローデットは驚いたように僅かに目を見開いた。
「わたくしに……?」
「あ、ああ。好きな花があるかわからないが……」
「……花はなんでも好きです。飾ってくださいますか?」
クローデットが頼むと、執事は心得たとばかりに部屋を出て行く。二人きりになったジョエルは蜂蜜レモンの入ったカップを差し出した。
「これはレモン果汁と蜂蜜を混ぜ、湯で割ったものだ。風邪によく効く……と、母が言っていた」
「ありがとうございます。美味しそうですね。
……わたくしの母は、故郷でしか採れないという木の実の塩漬けを、焼いて解してお湯で溶いたものを風邪の時に作ってくれましたわ」
「それは……初めて聞くな。どんな味がするんだ?」
「酸っぱくて、わたくしはちょっと苦手でした。……でも、とても懐かしい……」
カップを受け取ったクローデットはそう言って、一口啜ると、初めて淡く微笑んだ。
今まで感情が抜け落ちたような無表情しか見たことのなかったジョエルは動転して、ずっと考えていた謝罪の言葉を全部忘れた。
「あ、あ、あの、あの……。こ、この度は本当に、すまなかった! 俺があまりにも不甲斐なかったせいであなたに倒れるまで負担をかけてしまって!」
それでもなんとか勢いに任せて謝罪する。クローデットは軽く首を振った。
「……謝罪は必要ありません。今回倒れたのは、このところの自己管理がなってなかったわたくし自身のせいです。最近、うまく眠れなくて……」
「環境が大きく変わったんだ。眠れないのも当然だろう。あなたからしたら周りは敵だらけだし……」
「いえ、本当に。ジョエル様やこちらの国のせいではないのです。これは、ごく個人的なことが原因で……」
クローデットはそこで言葉を切った。物憂げに眉を顰める。
ジョエルは鈍感な男であるが、流石にその仕草や彼女の完全に死んだ目から、肉体にまで影響を及ぼす精神的な傷を抱えているのではないかと思った。
「……クローデット。その原因を話してはくれないか?」
「……それは」
「嫌なら言わなくていい。しかし、話してしまった方が気が楽になって、よく眠れるかもしれない」
クローデットは逡巡したが、結局は話すことにしたのか、僅かにかさついた唇を開いた。
「……悪夢を見るのです。過去の、わたくしのことの」
クローデットがお母さんに作ってもらっていたのは焼き梅です。風邪の時に飲むものと言ったら他に葛湯くらいしか思いつきませんでした。