第四話B 愛にしがみつく
「どういうことです、母上!」
王宮の一室で声を荒げたアンドレスに、母であるアルメンタ王国の女王は冷たい視線を向けた。
その瞳は言っていた。
今は母と子の私的な語らいの時間ではない、女王と王太子が公的な話をする時間だと。
「……お教えください、女王陛下。どうして私とイザベリータの婚約が解消されたのですか」
「壊れた娘を王子妃にするわけにはいきません。イザベリータは病気療養ということにして、数年の猶予を儲けましょう」
「再婚約と結婚はイザベリータの心が癒えてから、ということですか?」
イザベリータが学園で異常な行動を取ったところは多くの生徒と教員達に見られていた。あれから数ヶ月が過ぎていたが、まだ学園では噂が消えない。
あのとき騒ぎを収めにやって来た女性教員はイザベリータと話をし、目を抉るという行為はやめさせてくれた。
しかし女性教員はイザベリータの心が酷く傷ついていると判断し、さまざまな事情で──事故や災害で家族を喪ったり、ならず者に襲われて傷つけられたりして、心を病んだ女性達が送られる神殿で生活することを提案してきた。デルガード侯爵はそれを受け入れ、イザベリータは少し早い卒業試験を受けて学園を卒業し神殿に入った。
海を見下ろす高台にあるその神殿では、特別なことをするわけではない。
普通の神殿と同じように神に祈りを捧げて身を清め、貧しき者達のために奉仕活動をおこなうだけだ。
だが、自分の中の悲しみや苦しみと向き合えるようになるまで心を病んだ原因と距離を置くという行為は、思いのほか効果があった。神殿に入るまでは何度も自殺を試みていたほど傷ついていた娘が神殿での生活で心を癒し、最後には神殿を出て普通の暮らしに戻ったという話も聞く。
「あの程度で壊れるような心の弱い娘を王子妃にすることは出来ません。そなたは側妃を選びなさい。何人でも構いません。最初に子どもを産んだ娘を王子妃にします。……あのソレダとかいう娘は駄目ですよ」
「イザベリータと別れてソレダを選ぶつもりは最初からありませんでした」
ソレダもすでに学園を去っていた。
彼女の場合は卒業ではない。それほど成績は良くなかった。実家の商家が可愛い娘に箔をつけるために特待生の席を金で買ったのだ。
ソレダは前から付き合いがあったらしい実家の取引相手の商人のもとへ嫁がされていた。ジャウハラ帝国の商人だ。要するに厄介払いである。帝国ではこの十数年内乱が続いていたので国家間での交流は控えられていたが、市井の交流は続いていた。
アンドレスは、ソレダのことを可愛いと思っていた。
大きな商家の末娘で可愛がられて育ち、人に命令することにも慣れた彼女がほかの生徒に命じて王太子である自分を呼び寄せることすら好ましく思っていた。
むしろ我儘を口にしないイザベリータの愛を疑うことさえあった。
実際はソレダが寂しがり屋なだけだった。
自分が寂しいときに側にいてくれるのならだれでも良かったのだ。王太子であるアンドレスでも、取引で実家に来て少し時間が空いた異国の商人でも。
商家を営む家族が多忙なせいもあっただろうけれど、男に媚びを売って寂しさを紛らわせようと決めたのは彼女自身だ。
(それに……)
ソレダは自分が楽しいとき、ほかに関心を向けるものがあるときはアンドレスの誘いを断っていた。
すべてが自分を中心に回っていて、他人を気遣うつもりがなかったのだ。天才肌の人間に多い気質だが、ソレダがなにかを生み出すことはなかった。
そんな彼女の態度を自立しているなどと勘違いして、周囲に言われるまま妃教育に励むイザベリータを見下していたのはアンドレスだ。本来なら学園を卒業してからするはずの妃教育を前倒ししておこなっていたのは、学園を卒業したらすぐに結婚したいというアンドレスの我儘が原因だったのに。
「女王陛下。私はイザベリータを愛しています。彼女以外の女性と結婚する気はありません」
「今さらそなたにそんなことを言う資格はありません! 一刻も早く妃を決めて即位しなさい!」
「陛下……いえ、母上?」
アンドレスの前で女王は、いや母は普通の人間に戻って泣き崩れた。
「女王でいる間は国のために自分の心を殺さなくてはなりません。退位しなければ私は、大切な親友の忘れ形見に息子の愚行を謝罪することも、傷ついたあの子を抱き締めることも出来ないのです!」
「母上……」
母の命と引き換えに生まれてきた侯爵令嬢は優しい少女だった。
王太子の婚約者として多忙な日々を送りながらも、妻を喪った父や夫の王配を喪った女王を癒していた。もちろん、婚約者であるアンドレスも。
浮気の罪悪感から、その真っ直ぐなイザベリータの愛を重く感じて砕いてしまったのはアンドレス自身だった。砕けた愛は、戻らない。
(それでも私は……)
アンドレスはイザベリータを人間として扱っていなかったのだ、と今ならわかる。
どんなことをしても自分を愛し続けてくれると信じていた。冷たい言葉を浴びせても、自分がその気になれば何事もなかったように愛を注いでくれると思い込んでいた。
人には心があるのに、イザベリータの心だって傷つくのに。
一番歪んでいるのは自分の愛だったのだと、彼は今になって気づいたのだ。
王太子として国を思えば、貴族令嬢を側妃に迎えて行く行くは正式な王子妃とし、いずれは王となって母を解放することこそが最善だとわかっている。
わかっているけれど、イザベリータが傷つき、その愛は砕けてしまったのだと感じているけれど、今のアンドレスは自分のその歪んだ愛にしがみつくことしか出来ないでいた。