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「歌手、矢羽美咲」

作者: 西山鷹志

 序章


私が生まれた街は北海道夕張市、いわずと知れた炭鉱の街。

 1920年の人口は5万1千人その後、夕張炭鉱の本格的な発掘が始まり1960年には

最大11万6千人まで増えて、1981年私が生まれた年、炭鉱ガス爆発で犠牲者が出て

93人が死亡した年だった。父もその内の一人の犠牲者となり残された家族は、私こと

加藤三咲と7歳上の兄と母だけとなった。そして1990年には最後の炭鉱が閉山した。

 働き手を失った私達は僅かな遺族見舞金と母が工場で働いた金で細々と暮らして

来たのだ。私が中学に入学する頃は兄も働くようになり、そのおかげで私はなんとか

市内の高校に入学する事が出来た。


 あれだけ街は活気づいていたのに、度重なる炭鉱事故と最近では石炭に代わり電気

や軽油等が家庭で使うようになり、この頃から街の人口は減り始めていた。

 私の家は街外れにあり、みんな炭鉱で生活をつないでいた。気が付くと両隣とも夕張

を捨て札幌へと引っ越して行った。

 「ねぇ母さん。私達も札幌に行こう、友達もみんな居なくなって嫌だよー」

 「三咲! ここはね亡くなった父さんと母さんの故郷だよ。そう簡単に捨てられないよ」

 母が言うように自然は美しい街だ。近くにはポロポロカベツ川が流れ春には野原に沢山

の花が咲き乱れている。悲しい時、淋しい時どれほど癒されたことか。

 年は離れているが優しい兄と母の三人暮らしも楽ではないが幸せだった。


 私は高1の時に恋をした。正確には恋らしきものかな。どうしても深入り出来ない理由が

あったからだ。母と兄は家庭を支える為に一生懸命働いている、それなのに私だけが

恋愛に溺れてしまってよいものか、私を高校に行かせる学費を誰が苦労して作り出して

いるのかと思うと、ノホホンと恋に浸ってよい訳がない。母と兄に申し訳がない。

 「三咲、お前最近色ぽっくなったなぁ、彼氏でも出来たんじゃないのかぁ」

 兄が時々からかう。私は決まってこう応えた。

 「もう、あんちゃんたらぁ。私はいっぱい勉強して市の職員になって母さんとあんちゃん

に楽をさせるんだから、不景気でも役所なら安定した収入が得られるでしょ」

 それを隣で聞いていた母が

 「何を言ってるのお前には夢はないのかい。何も自分を犠牲にする事はないよ、母さん

はお前には好きな事をやらせて上げたいんだよ」


 私の人生が変わったのは高校3年の春、修学旅行で東京に行った時の事。

 自由行動の時間に同級生と原宿を歩いていると突然声を掛けられた。

 私だけが男の人に名詞を渡され驚いたが、それが将来歌手になるきっかけとなった。

 自分では気が付かなかったけど、どうやら綺麗に見えたらしい。理由はそれだけだ。

歌なんて学校のコーラスグルーブで唄っているくらいで、決して上手いと思って居ない

修学旅行から帰り、母と兄に報告すると勿論、猛反対された。

 「三咲、あなたは騙されているんだよ。母さんは反対だからね」

 私だって自信もないし騙されていると思っていた。だから母の意見にその時は素直に

従った。


 学校の先生には進路は就職、その就職先は市役所と進路報告を済ませてあった。

 ただ先生の言う事には田舎の役所に入るには何処でも同じだがコネがないと入れない

という。私は先生に反論した。コネってなんですか面談と試験で成績の良い者が選ばれる

のじゃないですかと抗議したが、先生は残念ながらこれが世間なのだと聞かさた。

 そのコネとは現役の市役所職員の家族や親戚、あるいは市会議員の一言で決まる

そうだ。そう言われると思い当たることがある。同級生の父や親戚はみんな役所務めだ。

 私はウンザリした。大人の世界とは世間とはそんなに醜いものなのか。

 私はその時に決心した。働くなら都会に出よう、それならコネも何も関係ない実力さえ

あればなんとかなると考えが変わっていった。


 就職先も決まらないある日の事だった。授業中に私は呼びだされた緊急電話である。

 兄が車に跳ねられという。その日のうちの手術。片足を失う事態となった。またもや災難

が加藤家を襲った。病院費用も嵩み私も働かないと生活が出来なくなる。

 挙句の果て加害者にはひき逃げされ、未だ行方不明となり途方に暮れていた。兄が

不憫でならない。もはや私が都会で働く夢も途切れた。障害者となった兄と年老いた母を

置いて行ける訳がない。私も母の働いている工場で働くしかない。

 それから一ケ月後、タイミングが良いというか偶然か東京から芸能プロダクションの人が

尋ねて来た。原宿で名詞をくれたスカウトの人と責任者だろうか。

 

 芸能界に入らないかという誘いだ。特訓して歌手としてデビューさせるという夢のような

話しだ。だが大人の世界、世間は表と裏がある事を先日、思い知られされたばかりだ。

 特に上手い話には裏がある。母は話こと何もないからと断ったのだ。

 だが彼等も東京からわざわざ来た。簡単に引き下がらない。私と母の説得に掛かった。

 普通、芸能プロダクションに入るには、養成学校に入り高い学費が必要となる。

 しかし芸能事務所の人は、学費など費用一切免除その他に支度金として700万円を

出すと言うのだ。私は目の色が変わった。勿論この時だけは金の為だった。

 これ以上家族に負担をかけたくない。700万あれば兄と母はこれで当分は生活が出来る。

最初から騙すつもりならこんな高額な金を出す筈もない、そう思った結論だった。

 母はプロダクションの二人を待たせて、私を別室に呼んだ。


 「あなたねぇ何を考えているの、これじゃ700万で売られるような物じゃない」

 「確かにそんな気もするわ。けどあんちゃんの入院費用やこれからの生活はどうするの

それに上手く行けばスターも夢じゃないわ。心配なら先生に立ち会って貰い、大丈夫なら

契約すれば良いでしょう。失敗したとしてもお金を取られる訳じゃないし。少しでも夢が

叶えられるならそれも素敵な事じゃない」

 こうして私の新しい人生が決まった。

 卒業式当日、私はクラスメイトに囲まれて芸能界入りを祝福された。嬉しさが半分と怖さ

が半分入り混じっていた。18年間住み慣れた夕張を出る。自然は美しい街ではあるが

今では夕張炭鉱は総てが閉鎖され人口も仕事も更に減り、将来が見込めない廃墟の街

と化していた。聞けば夕張の行政は破綻状態にあるという。

 そして一番恐れていた市民病院の閉鎖の話が浮上している。夕張市民は怪我も病気

も出来ないのか、これでは本当に夕張は何れ廃墟の街と化する。そんな所に兄や母を

置いて私は出て行こうとしている。

 生まれ育った街が壊れて行く、もし、もしも私がスターに成れれば街の為に何か役立ち

かも知れないと、早くも大スターになった夢を抱いていた。


 第一章 栄光の陰に


 心配する母と兄の反対を押し切り、私はついに東京に出発する日が来た。

 「母さん、あんちゃん。私頑張って歌手になったら沢山仕送りするからね」

 「こっちは大丈夫さ、正直助かったよ。あんちゃんの入院どうしょうかと困っていたんだ

でもねぇ、お前を身売りするようで母さんは心苦しいんだよ」

 夕張駅のホームでの事だ。母はもっと話しをしたそうだが、クラスメートだった友人達が

大勢私を見送りに来ている。母の切ない気持ちは分かるが明るく見送って欲しかった。

でないと私の決心が鈍るから。

 やがて発車のベルが鳴った。ドアーが閉まる。友人や母が大きく手を広げて振っている

列車のスピードが上がるとその視界は消えた。代わりに故郷の見慣れた景色が広がる。

 アイヌ人が名づけたというポロポロカベツ川を列車は渡る。子供の頃よく遊んだ川だ

その総てが通り過ぎて行く。沢山の想い出の詰まった夕張が遠くなる。


 私は千歳空港から羽田空港へと乗り継ぎ空港ロビーに出ると事務所の人が迎えに出て

いた。私は既にスイッチを切り替えていた。私はスカウトされたと言うよりも700万で買わ

れたのだと自分に言い聞かせた。そう思わないとこの先どんな辛い事が待ち受けている

か分からない。そう思えば乗り切れると覚悟を決めている。

 その日のうちに事務所のスタッフに紹介を受け、芸能養成学校の寮に案内された。

 翌日から早速レッスンが始まった。歌のレッスン、ダンスのレッスンと基礎訓練など

ハードなスケジュールが組まれた。それが半年以上に渡り続いた。


 「おーい三咲、お前のオーディションが決まったぞ。これに合格すればお前は一応歌手

になれる。頑張れよ」

 「ハイ、ありがとう御座います」

 私は何がなんだか分からないままテレビ局主催のオーデション番組に出る事になった。

 私はなんと準グランプリに輝いた。後で聞いた話だが、これは仕組まれたものだった。

そんな事は知らずに当時の私は、歌が上手いから準グランプリに輝いたと喜んだものだ。

最初から私は何かの賞が決定していて、それを機会に売り出し手はずになっていたらしい。

 身長167センチ顔は面長で、目鼻は人形のようにクッキリしていた。例えば鉱山でルビー

を発見したとして、それがルビーなのか素人には、ただの石コロにしか見えない。

 それが、プロが磨きを掛け仕上げれば見事に美しく輝く、それが今の私だった。

 確かにスタイルも悪くないようだ。それにしても私が何故選ばれた? 理由はどうでも良

い若い女性なら誰でも一度は夢を見るスターへの道。例え私が作られた人形でも、今は

それで良い。私は磨かれたフランス人形。但し感情を持たないフランス人形。


 更に半年の特訓が開始され、歌手としての基礎を学びデビュー備えた。

 それからと言うもの私は、あっと言う間にスターダムに駆け上った。

 歌手名、矢羽美咲としてデビューして、テレビ番組の出演が多くなり寝る時間もなく忙し

くなり、ちょっと可愛いだけで私は、あっと言う間にアイドルになった。

 一年も経たないうちに私は世間に知られるようになっていった。

 母や兄は喜んでくれているだろうか、夕張を思い浮かべている暇も与えられない程の

スケジュールがビッシリ詰まっていた。

 「ミサキちゃん、明日は福岡だからね。羽田空港まで今の内に寝ていな」

 寝るといっても蒲団じゃない空港に向かう車の中だ。それから二年間、休みは年に

3日あったのだろうか、スターともなれば莫大な収入があると思われるだろうが私の

報酬は月給制で月30万円、税金と保険料を差し引かれると手取りは25万そこそこ

それでも女性の年収に比べたら高いと思われるが、年間労働日数360超で一日の

休み時間は最高で6時間の睡眠をとるだけだ。つまり18時間超労働となり、とても高い

給料ではない、もちろん金を使う暇も与えられないから給料はそっくり残った。その半分

を実家に仕送りする日々が続いた。そして私の悪夢はここから始まった。


 やはり私は唄う人形なのか、700万円で買われた人形は着せ替え衣装を着せられて

ステージで唄うのだ。感情を持たない人形・・・いや持たせて貰えない操り人形。

 ついに私は過労で倒れてしまった。思った以上に病状は重く、半年の入院生活が続く

最初はマネージャーなど付きっきりで側に居てくれたが、三ヶ月が過ぎた頃から事務所の

人は滅多に顔を出さなくなった。やっと私が退院出来たのだが事務所の対応は冷やかな

ものだった。半年のブランクは余りにも大きく、ポッと出のアイドルは忘れ去られていた。

 事務所から見れば商品価値の無い、ただの厄介者になっていた。


 ここは私の所属する大手の芸能プロダクション。退院した私は事務所に顔を出した。

 大勢の人が電話で話している。またパソコンの画面と格闘している者、商談中の人達

など、だが誰もが私に無関心を装う。以前には無かった待遇に違和感が漂う。

 「どうして私に仕事を与えてくれないのですか」

 「仕事したくても、オファーが来ないんだから仕方がないだろう」

 「そんな! 半年前はあんなに忙しかったのに私の歌を聴きたい人が沢山いるでしょ」

 「自惚れるんじゃないよ。お前は本当に歌が上手いと思っていたのか? あれは我々

スタッフが必死で作りあげた人形アイドルだったんだよ。一度人気が落ちたらアイドルは

お仕舞い、それが芸能界なんだよ」


 「じゃあ私は歌が上手くて、人気が出たんじゃないというのですか」

 するとマネージャーは雑誌をポンと事務机に置いた。そこには私の記事が載っていた。

 (消えたアイドル矢羽美咲。作られたアイドル矢羽美咲は、元々歌は下手というのが

もっぱらの噂になっていたが、長い入院生活で彼女は忘れ去られた。同事務所では

矢羽美咲に代わり、今売り出し中の斉藤リナに期待を掛けている)

 私には衝撃が大きすぎた。歌が下手な元アイドル歌手の成れの果て。それが今の自分

なのだと悟った。二ヵ月後、私はこの芸能プロダクションから放り出された。

 この芸能プロダクションも元は取ったからだと言う事だろう。確かに700万もの支度金を

貰ったが数十億円以上の利益をもたらした筈だ。しかし私はただの商品、何も言えない。


 無職となった私でも、街を歩けば顔も覚えている人がいる。だが握手を求められるどころ

か「昔いたわね。歌の下手なアイドル」遠目に陰口を叩かれる始末だ。

 昔・・・そう私は夢をみていたのか、今ではワンルームで6万円のアパート住まい。

 このままでは貯金も使い果たして田舎に帰るか、浮浪者に落ちぶれてしまうか。

 今は何もする事がない。アイドルだった時のビデオをテレビ画面に映してみた。今まで

気が付かない事が見えてくる。チョッピリとセクシーな衣装を身に纏い、歌詞もテンポが

早い曲に合わせるだけで、何か下手な歌を誤魔化しているように感じた。

 あんなに脚光を浴びた私はいま、暗い部屋の片隅でひっそりと当時を偲んでいた。

今夜は何を食べようか・・・またお湯を注ぐだけのカップラーメン。落ちた私が其処にいる。


 それでも私は事務所を放り出された事も、狭い部屋に閉じこもりひっそりとしている事も

夕張にいる母には言わなかった。でも週刊誌などで報じられているから知っているだろう。

母から手紙が届いていた。私の芸能活動の事には一切触れず、健康に気をつけないと

だけある。それも母らしい気遣いであるのだろう。急に故郷が恋しくなった。しかし・・・・・

 かつては夕張の救世主とも言われた私は、おめおめと故郷にも帰れない。もう一度自ら

の力でのし上がるしかない。私はそう決めた。幸い芸能関係に知り合いは多い。

 その中で私を熱心にレッスンしてくれた作曲家の佐原徹先生の下を尋ねた。

 「おー君か、長い間入院していたんだってな。一応は歌のレッスンしてやった教え子だ

教えてやらん事もない、だが私は演歌の曲が多い。しかし基礎は同じだ。それでいいか」

 「私は改めて知りました。あれは歌手じゃありませんでした。もう一度基礎から勉強した

いのです。先生お願いします」


 私は自費を出して佐原徹先生の下でレッスンを始めた。勿論自費と言っても高名な

先生だ。今の持ち金ではとても足りない。だが先生は足りない分は出世払いで良いと

優しく言ってくれた。一度は手がけた教え子を不憫に思ったのだう。

 その佐原先生はレッスンの途中に、こんな事を言った。

 「君の声は演歌に向いているね。少しテンポを遅くすれば声も伸びるし」

 「えっ演歌ですか」

 演歌、考えた事もない世界だが、今までテンポの速い曲でなんとか誤魔化して来た。

 私は選ぶ自由はない。先生がそうだと言われればその道を進むべきだと思った。

 歌は下手だが、ド素人でもない。一応は歌の基礎を学んで来た。そのせいか1年少しで

先生には、これならもう下手とは言われないだろう、と太鼓判を押されたのだが芸能界は

そう甘くはない。一度落ちた歌手は誰が拾ってくれるのだろうか。

 私個人でデモテープを持って音楽プロダクションを廻っても誰も応じてくれないだろう。

 こうなれば佐原先生の情に委ねるしかない。佐原先生は70歳と数々のヒット曲を生み

出したベテランの作曲家であるが、昨今は演歌もなかなか受け入れられないのが現状

果たして万が一、演歌歌手として再デビューしたとして成功するのか不安は大きかった。


 そこで恐れ多くも先生に提案を出した。古臭い昔の演歌は今では通用しないそれなら

大衆はどんなものを求めているのか、私の考えはこうだ。ジャズのように激しくもあり

ポップスのようにテンポ良く、ブルースのようにしっとりした曲ならどうかと提案を出した。

 レッスン室の中央にピアノがあり、その片隅にテーブルと椅子が4脚置かれて居る。

 先生はその椅子に腰を掛け、紅茶を啜りながら私の話を聞いていた。

 私は先生に怒鳴られる事を覚悟していた。ところが予想に反して先生は。

 「私も考えていた事だ。だがいつも要請してくるのは古い昔気質の曲ばかりでなぁ時代

が変わるのなら、我々も変わらなければと思っていたところだよ」

 「え! 本当ですか? 私はてっきり叱られる覚悟していました」

 そう言って舌をペロリと出す自分がいる。まだアイドル時代の名残が残っていた。


 先生は新しい曲作りに乗り出した。若い私の意見を取り入れながらの曲作りだ。

 更に二ヶ月が経過、私はもうすぐ24歳を迎えようとしていた。そして出来上がった曲は

作詞家と相談して「微笑むだけ」と決定した。

 先生も作曲家生命を掛けた戦いとなった。勿論私だって歌手生命を掛けた最後の戦い

でもある。先生のレッスンのお蔭で歌唱力には自信が付いていた。もう下手くそと言わせ

ない。私はプロ、もうアイドルではないが大人の歌を唄って人の心を掴んでやる。


  第二章 再デビュー


 もう終わりだと思った私を先生は見捨てずに拾ってくれた。都会に出て6年目で初めて

人の情と温もりを感じた。私はそんな先生の為、そして自分の為に必死でラジオ局を

廻った。地方のローカル放送、有線放送と知る限りの局を廻り売り込んだ。

 「確か貴女は矢羽美咲さんとか言ったね。次は演歌なの・・・売れるとは思えないけど

ねぇ、歌もあまり上手く・・・いや失敬。まあ昔のよしみだ。その辺に置いて行きなよ」

 歌は下手なんだろうと言いたかったのは分かっている。言われても仕方がない事実

下手だったんだから、分かってはいるが一応歌手の端くれ恥辱以外の何ものでもない。

 曲をラジオで流してくれる保証はどこにもないが、デモテープを置いてくれるだけマシな

方だった。対外は門前払いだ。

 売れている頃は応接室に通してケーキと紅茶など出してくれたものだ。掌を返すとは

この事かも知れない。芸能界は売れてナンボの世界だ。それを改めて思い知らされた。


 悔しい、空しい、切ない、哀れ、恥辱どれほどの形容詞を並べれば良いのだろうか。

 今の私には総てが当て嵌まる。街を歩けば顔だけは知られているようで決まって陰口

を叩かれる。コンビニでカップラーメンを買う私を、みんな哀れな目で見ている。

 夕張にいた頃の私なら誰もが普通の事だ。だが一度は芸能界で脚光を浴びたプライド

が私の心の底に残っている。もう普通の娘に戻れない例えOLになろうとしても、やはり

落ちぶれたアイドルとして付き纏うだろう。後戻りの出来ない私が居る。


 今年も、もう暮。クリスマイヴの夜だ。街はみんな楽しそうに見える。あるカップルが

腕を組んで歩いている。思えば私は恋も知らない、それどころか悩みを打明けられる

友人もいない。作る暇さえなかったあの頃・・・孤独・・・今年は部屋の片隅でひっそりと

ショートケーキを一個買ってテレビを観ている。画面には当時ライバルだったアイドルが

唄って踊っている。この差はなんなの! 私はテレビのスイッチを切った。

 私はそのまま蒲団を被ってすすり泣きをした。


 時々母から心配して手紙をくれるが、私は元気と返すばかりだ。今では仕送りも出来

ない、それどころか食べる物さえ苦労している始末だ。

 それを不憫に思ったか先生は時々ご馳走してくれる。お返しも出来ない私は先生の家

を掃除や身の回りの世話を買って出た。しかしお手伝いさんも居る事だし大した役には

たっていない。でも誠意は受け取って貰えたようだ。

 かれこれ駆けずり廻り半年の月日が過ぎて、私も先生も流石に溜息をつくばかりだ。


 そんな日の夜、自室で夕食を食べている時だった。携帯電話が鳴った。珍しくは母から

だった。だが母は一言も言わずすすり泣く声がするばかり。

 「母さん? どうしたの。ねぇ何があったの」

 「・・・・・あのね・・・あんちゃんが自殺したよ」

 「え! そんな、どうして。どうしてなの!!」

 またしても不幸が襲った。片足になった兄が将来を悲観して自殺してしまった。

 私は売り込み活動を中断して急遽夕張に帰った。


 泣き崩れる母を支え、私は告別式の喪主として立っていた。本来は母がするべきで

あるが、とても今の母にはショックが大きいようで勤まらない。私がやるしかなかった。

 兄の死は本当に辛かった。それとここでもやはり落ちぶれたアイドルは空しい。

 夕張の街では私の噂が広がっていた。私はジッと耐えた。母に東京へ行こうと誘った

が、母は父と兄が眠る故郷を離れる訳には行かないと、頑として応じなかった。

 「三咲、お前だって悔しいだろう。母さんは知っているよ。母さんの心配はいいから

もう一度、世の中を見返してやるんだよ。母さんは又お前の歌がテレビやラジオで流れ

る事を祈っているよ」

 「ありがとう母さん。何も親孝行出来ない私を許してね。私きっと復活してみせるから」


 あれから6年の歳月が流れていた。18歳で高校卒業と同時に芸能界への世界に入り

半年足らずでテレビの画面に私はでるようになった。そしてあっと言う間にスター街道へ

しかしそれもつかの間、芸能界とは恐ろしい所だと嫌というほど骨身に沁みた。

 それでも私は再び這い上がろうとしている。今では恥ずかしくて夕張の友人にも会えない

あんな帰りたかった夕張の街も、今は褪せてみえた。私は逃げるように東京に帰った。


 25歳になり更に半年が過ぎた頃、有線放送で私の曲がリクエストされるようになった。

私は先生の下に駆けつけた。先生は喜んだ。私の為でもあるが、自分の新しい曲が大衆

に受けた事を。71歳にして新しい道が開けたことに先生は涙を流して喜んだ。

 一度注目を浴びると芸能界は動くのが早い。レコード会社は早速専属契約を結びたい

と申し出て来た。その翌年「微笑むだけ」はヒットチャートに載るようになった。

 ヒットしたのは勿論一番嬉しいのだが、矢羽美咲は演歌歌手になって一皮剥けて歌が

上手くなったと言われ事が嬉しかった。


    ♪「微笑むだけ」


  愛しくて愛しくて苦しいほど

  貴方の存在が大きすぎて

  私の存在は貴方にとって何分の一を埋めるの

  貴方はそれを教えてくれない

  いつも貴方は優しく微笑むだけ


  嗚呼その横顔から貴方の心が見えない

  出来るなら正面から貴方の心を知りたい

  その眩しいほどの瞳の奥には何があるの

  貴方はそれを教えてくれない

  いつも貴方は優しく微笑むだけ


 終章 私はプロ歌手


 私の所属する事務所は、佐原先生の息子さんが経営している小さな事務所を窓口と

して公演などを取り行い、他のことはレコード会社に任せた。CDが売れれば著作権の

他に先生にも利益がもたらされる。私も少しは恩返しが出来る。そして何よりも嬉しいのが

以前と違って月給制ではなく売上げの三割が私に入ることだ。

 これでまた母に楽をさせてあげられる。苦労した母にも親孝行が出来る。たった一人で

父と兄の眠る夕張で私を励ましてくれた母。私の心の支え。その母を幸せにしたい。

 私は難しいと言われる新演歌で返り咲いた。 今は歌の下手な可愛いだけのアイドル

歌手じゃない。佐原先生の励ましと、どん底に落とされた悔しさをバネに這い上がった。


 アイドル時代になかった私個人のリサイタルショーも実現した。

 短いスカートと可愛さだけで売れた頃とは違い、ファンは私の歌を聴きに来てくれた。

 演歌=着物、だが私はドレスで通した。新しい演歌をイメージする為に。これで4曲目

の新曲も、まずまずの売れ行きとなった。歌が上手い。それこそプロ歌手だ。私は近づき

つつある。その二年後、私は27歳にして日本レコード大賞、最優秀歌唱賞に輝いた。

思えば歌の下手なアイドル歌手として、世間から嘲笑われるように消された歌手。

 今ここに実力でのし上った。誰もが認める歌の上手い歌手と評された。

 これでこそ本物のプロ歌手。そして翌年、紅白歌合戦に出場が決まった。

 日本で一番注目を浴びる歴史と格式の高い番組だ。

 私は真っ先に母に電話をした。母は電話の向こうで嗚咽を漏らして泣いていた。

 今度こそ私は名実ともに歌手として認められる。プロ歌手として最高の勲章だ。

 テレビ番組出演が増えると、矢羽美咲リサイタルショーも超満員となった。


 あのアイドルの頃と同じように忙しくなった。しかしまた体調を崩して入院では元も子も

なくなる。長期入院して出てきた頃には忘れ去られる、あの恐怖がトラウマとして甦る。

 そこは佐原先生の息子だ。キチン健康管理を考えたスケジュールを考えてくれる。

 夢の舞台、紅白歌合戦。母をその席に座らせたかった。出来るなら父と兄の遺影を

持って私の歌を聴いて欲しかった。だが、最近は母も年のせいか体調が悪いらしい。

 母に逢いに行きたいが芸能人の宿命、ギッシリ詰まったスケジュールに穴を空ける

訳には行かない。

 今や大物歌手と言われる存在までに這い上がった。これも総て佐原先生とその息子

さんが経営するプロダクションのお蔭だ。感謝しても感謝し切れない。今や父のような

存在の佐原先生であった。こうして私は念願の故郷公演が実現される事になった。

 矢羽美咲夕張チャリティーコンサートと題して、その寄付金を市へ寄付する為のものだ。

 これで少しは故郷に恩返しが出来ただろうか。夕張頑張れ、私も頑張るから。

 その夕張も間もなく冬を迎える11月末のことだ。そして一ヵ月後、夢にも思わなかった

紅白歌合戦の出場が控えている。


 その会場も超満員となった。母は車椅子に乗って介護人と一緒に特別席に座っている。

幕が開くと今までにない温かく熱い拍手で迎えられた。

 大勢の友人も駆けつけてくれている。だが最愛の兄と父は母が黒い帯に包まれ笑顔で

写真に収まっている、母の膝の上で私を見ている。思わず私は涙が毀れそうになった。

 しかし私はプロ歌手、感情を押さえ込み静から唄いだした。誰もが感動してくれた。

 私はアイドルではない歌を聞かせてお金を取るプロの歌手だ。最後の曲を歌え終わると

誰が計画したのか司会者が、母の名前を読み上げ介護人と共に車椅子に乗り舞台に

上がった。更に司会者は続けた。

 「皆さん、我が夕張が生んだ大スター矢羽美咲さんのお母さんです。盛大な拍手をお贈

りください。そしてコンサートの売上げは総て市に寄付される事になりました」

 会場は割れるような拍手に変わった。こうして私は夢の夕張公演を終えた。


 母を舞台に上げたのはどうやら佐原先生の配慮だったらしい。夕張公演の前に先生は

介護施設を訪れて、私の苦労話やプロ歌手の根性を語って聞かせたそうだ。

 今年もクリスマスイヴを迎えた。数年前にショートケーキを一個買って狭い部屋で泣いた

事が蘇る。ライバルのアイドル歌手がテレビの画面に映っていた。悔しくて惨めで私は

テレビのスイッチを切って一晩泣き明かした事を思い出していた。その私は今そのテレビ

画面の中で唄っている。

 有料介護施設にいる母に、電話したのは大晦日の三日前である。

 「お母さん体調はどう? 紅白テレビで観てね。今回は母さんの為に唄うから」

 「ああ、母のメロディーだろう。母さんは嬉しかったよ。逢えなくても充分親孝行だよ

父さんも兄ちゃんも、きっと天国で喜んでくれるよ」

 「うん、ありがとう。母さん・・・少し声に元気がないけど?」

 「なあに少し風邪をひいただけさ。お前こそ病気するんじゃないよ。ファンや皆さんに

迷惑かけるんじゃないよ」

 「うん、大丈夫。きっと母さん私の歌を聴いてよ。母さんの為に私が作詞した歌よ」

 それが母と最後の会話となった。母は大晦日の夜、私の歌を聴く前に亡くなったそうだ。


 母はもう長くはない事を知らされていた。覚悟は出来ていても母は私の総てだった。

本番以外は何が合っても知らせてとスタッフには伝えてあった。

  大晦日の夕方を迎えていた。出場者に関係者などNHKホールの舞台裏は慌しい。

 私は本番に備えて発声練習をしていると、私の専属マネージャーが青白い顔をして私の

側に来て小声で囁いた。

 「美咲さん。こんな時に言って良いか迷いましたが。やはり伝えなくてはなりません」

 「・・・・・・お母さんが亡くなったのね。そうでしょう」

私は察しがついていた。マネージャーにお願いだから暫く私を一人にしてと訴えた。

 一人になると私は、その場に泣き崩れ大声で泣いた。外にも聞こえるほどに泣き叫ぶ。

 泣かずには居られなかった。今泣かなくていつ泣くの。

 「とうとう私の家族はみんな天国に行った。どうし三咲だけ置いて逝くの?・・・・・・」

 知らせを聞いた先生や関係者達は、部屋の外で唇をかみ締めていた。20分後、私は

ドアーを開け、もう大丈夫ですと伝えて歌手矢羽美咲に戻りステージに向かった。


 私は夢の舞台に立った。日本で一流の歌手が出揃った中に私が居る。司会者に紹介

され私はスポットライトを浴びる。

 「では今や新演歌の実力者、矢羽美咲さんです。今年もっとも売れた曲。故郷の母を

偲ぶ歌、夕張の母と全国の母に捧げる、母のメロディーじっくりとお聴きください」

 会場から湧き上がる大歓声、出場歌手からも拍手を貰い私はステージの中央に立つ。

エンディングテーマが流れ私の心は集中してゆくと、会場は静まり返り私は唄い始めた。


   ♪(母のメロディー)


  囁きが聞こえる 恋の囁きが

  それは遠い昔に 母が唄った恋のメロディー

  幼き日の 春の麗らかな日の縁側で

  母が私の為に 唄ってくれた愛のメロディー


  川のせせらぎが 聞こえてきそうなその歌は

  きっと母が父と 恋に青春を燃やした頃

  遠いあの日を 懐かしむように聴かせてくれた

  それは子守唄のような 愛のメロディー

  母の愛のハーモニーが 今も心に残る

  いつまでも若くあれ 母のメロディー


 本当は何もかも投げ捨てて母の下に行きたかった。母は私に何度も言っていたプロの

歌手になった以上、母さんは覚悟しているよ。お前もプロなら立派に唄っておくれ。

 母の遺言とも取れる言葉が頭から離れない。私はプロ。ファンの前で鳴き声の混じった

歌を聴かせることは許されない。あの苦難があるから今の私が居る。

 込み上げる涙を必死に堪え私は唄いきった。 私の代わりに佐原先生や関係者が

ステージの奥で涙を流してくれた。

 もう家族はみんな亡くなった。父さん母さん兄さん聴いている? 私は立派な歌手に

なったと思う? これからも泣かないよ。代わりに私の歌声でファンを泣かせたい。

 私はプロ、そうプロ歌手の矢羽美咲。


 了


 芸能界の事は詳しくないのですが、想像で描きました。

 一人の歌手というよりも一人の女性の生き様を書きましたが

 小説の中に新しい志向として歌詞を入れて見ました

もちろん自作ですが。最後まで読んでくださりありがとう御座います。

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― 新着の感想 ―
[一言] ドリーム先生、こんにちわ。蝙蝠傘といいます。通りすがりに読ませていただきました。それほど長くないお話しなのにその内容はボリューム満点ですね。なかなかの力作です。拙い私ですが感想を書かせていた…
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